番外編 冬の大公領
1
大公領は北の地にあった。
帝都よりも緯度が高く、帝都では見られない雪化粧が高い山々を覆っている。
馬車はすでに何日も移動を続け、馭者が「大公領に入りました」と告げてから、少なくとも二日は経っていた。
ダリルは馬車の窓辺に寄りかかり、外の景色をじっと眺めていた。鋭い山並みが連なり、その険しさが、ふとロデリックを思わせる。
ごつごつとした稜線は厳しく、針葉樹の森を抜けた先には、灰色の石造りの城が静かに佇んでいた。
(……意外と、地味だな)
ダリルは心の中で小さく笑った。
ロデリックは毎年、雪が積もる前に領地に帰ると聞いた。ダリルが帝国で迎える初めての冬だから知らなかったのは仕方ない。
帝都を発つとき、同じく馬で先行したロデリックが、この奥で待っている。
自分はまだ傷が治りきっていないこともあって、無理な騎乗は禁じられ、こうして馬車に揺られてきたのだ。
ただ、ここまでの数日は、むしろ良い時間だったのかもしれない。新しい環境、新しい立場、そして──新しい、自分。
整理するには、静かな揺れと、広がる景色がちょうどよかった。
馬車が屋敷の前で止まり、扉が軽く開かれた。
そこに立っていたのは、黒衣の男──ロデリック・フォン・ヴェステンベルク。
雪の冷気が吹き込む中、ダリルはゆっくりと顔を上げた。
「……あんたが迎えに来るとか、珍しいな」
言うと、ロデリックはわずかに唇の端を上げた。
「お前の足では、まだ立てまい」
ダリルの頬がかすかに引きつる。
「……だからって、抱き上げでもする気かよ」
冗談めかして吐き捨てると、ロデリックは淡く、しかしどこか穏やかな色を瞳に宿した。
「必要なら、そうしてもいいが?」
「いらない」
即答するダリルに、ふっと小さな笑みが生まれる。
寒風が頬を撫で、静かな白い息が二人の間に立ちのぼった。
何でもないやりとりの中にさえ、ほんの少しの甘さが滲んでいた。
屋敷の中は、広かった。
ただ、広さに反して、驚くほど生活感がない。
使用人の姿をたまに見かけはするものの、これだけの城を維持するなら本来もっと人の気配があってもいいはずだ。
灰色の石造りの壁、無駄のない廊下、整然とした家具──寒冷な北の大地に馴染む造りだが、冷たさだけではない。
余計な装飾を嫌う、軍人としてのロデリックの性質が色濃く現れた、堅実な空間だった。
案内された客間で、ダリルは荷をほどき、旅の装束を脱ぎ、やっと身体を休める準備に取りかかる。
肩を回し、ほっと息を吐き、ふと視界に入った姿見の前で立ち止まった。
鏡に映った自分の姿は、以前と何も変わっていない。
相変わらず細身の身体、黒色の髪、鋭さを残した青い瞳──ただ一つ、変わったものがあった。
襟元をわずかにずらし、そっと首筋に触れる。
赤く残る噛み跡。
それを指先でなぞると、かすかに熱を帯びて脈打つ感覚が返ってくる。
(……俺は、誰かのものになることで救われたのか……それとも……)
頭の奥に浮かんだ問いを、ダリルは小さくかぶりを振ってかき消した。
(やめよう、考えるのは今じゃない)
そのとき、扉をノックする音が響く。
「ダリル様、失礼します」
現れたのはロデリックの副官、エドガー・レオンハルトだった。
彼は慣れた調子で療養の指示を伝えてくる。
食事は無理せず休め、屋敷内の探索は後日でいい、今日はとにかく体を休めろ──
「誰がその指示、考えてるんだ?」
皮肉っぽく笑うと、エドガーの眉がわずかに動いた。だが結局、彼は無表情のまま小さく一礼し、静かに部屋を後にした。
ドアが閉まる音が響き、部屋に再び静けさが戻った。
ダリルはベッドに身を沈め、天井を見上げながら小さく息をついた。
夜、部屋に暖炉の灯がともされた。
冬の冷たさをほんの少しだけ和らげる、赤い炎のゆらめきが壁に映る。
木の香りがほんのり漂い、石造りの堅牢な空間に微かな柔らかさを添えていた。
ダリルは窓辺に立ち、じっと外を見ていた。
外の夜空は、帝都では決して見られないほど澄んでいて、無数の星がきらめいていた。
「……帝都じゃ見えなかった星が、ここでは見えるな」
ぽつりと漏れた声は独り言のようであり、誰かに届いてほしい言葉のようでもあった。
その背後で、椅子を引く音がした。
振り返ると、ロデリック・フォン・ヴェステンベルクがそこにいた。
黒衣のまま、椅子に腰を落ち着け、低く短く告げる。
「──帝都の話は、今はするな」
その言葉にダリルは目を細め、小さく鼻を鳴らした。
ゆっくりと歩を進め、暖炉の前の椅子の背にもたれかかる。
二人の間に、しばし静けさが流れる。
だがその沈黙は、冷たさではなかった。
微かな安堵と、まだ言葉にできない温度が、暖炉の炎とともに空間を満たしていく。
暖炉の炎が、ゆらりと影を揺らしていた。
その前で、ダリルは椅子に腰をかけ、じっと手を見つめていた。
細く、白い指先。
戦場の剣と血に汚れたはずの手は、今は傷の痕を残しつつも、どこか無力に見えた。
背後で、足音が静かに近づく。
ダリルが顔を上げる前に、そっと肩に温かい手が置かれた。
「……ゆっくり休め」
低く、静かな声が落ちる。
「お前が自分の足で立てるようになるまで、俺が支える」
ダリルは少しだけ肩をすくめ、ふっと笑った。
「……そんな顔するなよ。重たいんだよ、獅子殿下」
わずかに皮肉を滲ませた口調。
暖炉の薪がぱちりと音を立て、火の粉が小さく弾ける。
赤い光が、二人の影を壁に重ね、部屋の空気にやわらかい温度を残していった。
外はまだ冬の冷たい夜だったが、この場所だけは穏やかな静けさに包まれていた。
2
翌朝、冬の冷たい光が屋敷の回廊を照らしていた。
ダリルは重ね着をして、そっと庭園へ出る。
庭の奥には背の高い針葉樹が並び、ところどころ雪がうっすらと積もっている。
帝都の石畳の街路とは違う、北の地ならではの冷たく清らかな空気が頬を撫でた。
──身体は、まだ完全じゃない。
けれど、ここに来ないと言う選択肢はなかった。
足取りがふらつき、思わず石壁に手をつく。
それでもじっとしてはいられなかった。
閉じこもっていると、過去のことや、王都での出来事が頭をよぎる。
それが嫌だった。
庭園の片隅、小さな石造りのベンチに腰を下ろす。
息が白く立ち上り、吐くたび胸の奥が少しだけ軽くなる気がした。
そのとき、後ろから足音が聞こえた。
「……無理をするなと、言ったはずだが」
低く響く声。
振り返れば、ロデリックが黒衣のまま、肩に外套をかけて立っていた。
きっと、また忙しい合間を縫って戻ってきたのだろう。
「……そんなに見張られても、落ち着かないんだけどな」
ダリルはわざと肩をすくめ、軽口を叩いた。
ロデリックは一瞬だけ目を細め、そしてゆっくりと歩み寄る。
「見張りではない」
「じゃあ何だって言うんだよ」
「確認だ」
淡々とした答えに、ダリルは思わず笑いそうになった。
──本当は。こんなふうに、忙しい中でも自分の様子を見に来てくれることが、心の奥では嬉しかった。
けれど、それを素直に言えるほど、まだ気持ちは整理がついていなかった。
「……確認しなくても、俺はここにいるよ」
ふっと、ダリルは空を見上げる。
澄み渡る冬の空の下、針葉樹が風に揺れている。
帝都じゃ見られなかった景色だ。
「獅子殿下」
ふと、そう呼びかけると、ロデリックが小さく首を傾けた。
「……何でもない」
ダリルは小さな笑みを浮かべ、そっと指先をポケットの中で組む。
静かな時間が流れた。
※
夜。
屋敷の書斎にある暖炉の前。
ダリルは分厚い本を抱え、ゆるく椅子に凭れかかっていた。
ぱちぱちと薪が弾ける音が、静かに部屋を満たし、心地よい温もりを空気に染み込ませている。
ページを指で挟んだまま、ダリルのまぶたがゆっくりと閉じかける。
──思えば、ずっと張り詰めてきた。
ここでようやく、少し力を抜けた。
ゆっくり、穏やかに落ち着いていく呼吸。
やがて、膝の上の本がぱたりと滑り落ちた。
そのとき。
扉が音もなく開く。
「……」
入ってきたロデリックが足を止める。
炎の光を受け、淡い金の髪を揺らしながら、静かにその場を見つめた。
皮肉を飛ばしてくるいつものダリルではない。
椅子に凭れかかり、無防備な寝顔を見せる、ただの若者──ただの、愛しい人。
ロデリックの表情が、そっと緩む。
迷いなく近づき、ソファの脇にあった毛布を手に取り、そっと肩にかけようと、身を屈めた──そのとき。
「……獅子殿下……?」
かすれた寝ぼけ声が、ほわりと零れた。
動きを止め、ロデリックは驚いたようにダリルの顔を覗き込む。
うっすら開かれた蒼い瞳が、焦点を結ばないまま彼を見上げていた。
「……お前は油断しすぎだ」
低く囁くような声。
だが、そこに責める色はなく、ただ甘やかしきれない想いが滲んでいた。
そっと、ダリルの指先がロデリックの袖を掴む。
「……離れんな……」
半分寝言のような声。
それはまるで、小さな子供が温もりを求めて縋るような、甘く震える囁きだった。
ロデリックは一瞬、固まった。
胸が、深く、静かに疼く。
──これは反則だ。
心の奥まで、甘い棘のように刺さる。
結局、ロデリックはダリルの手をそっと包み込み、低く囁いた。
「……わかった。離れない」
椅子のそばに膝をつき、そっと肩を支える。
ダリルの頭が、ふわりとロデリックの胸元に傾き、穏やかな吐息が落ちた。
暖炉の火が、静かに揺れていた。
その温もりは、炎のぬくもりか、それとも胸に抱いた存在のぬくもりか。
夜は深く、静かに更けていった。
けれどこの場所だけは、どこまでも安らかで、やわらかく、甘かった。
3
──夜、誰かの胸に甘えるように寄りかかり、そっと力を抜いた。
無意識に袖を掴んで「離れんな」と呟いた自分を、今なら笑ってしまいそうだ。
けれど、その瞬間のぬくもりが、心の奥に何かを置いていった。
※
翌朝。
屋敷の広間には、少しぴりっとした空気が漂っていた。
エドガーが足早に廊下を進み、重い扉を軽く叩く。
「閣下、王国側から新たな使者が到着したとの報せです」
ダリルが読んでいた本から顔を上げると、
ロデリックは既に立ち上がり、短く返した。
「面会は後日にしろ。今は──」
「待って」
ダリルが、椅子から立ち上がる。
声は決して大きくない。
だが、言葉には確かな強さがあった。
ロデリックの眉がわずかに動く。
「お前は療養中だ」
「だから何だ。……ここで下がったら、あんたの隣に立つ資格ないだろ」
ロデリックは沈黙した。
一瞬、金の瞳がじっとダリルを射抜く。
そのまなざしを、ダリルは真っすぐ受け止めた。
──守られるだけじゃ嫌だ。
この数日、心の奥で繰り返し噛みしめてきた思い。
ようやく、それを口にした。
数秒の間の後、ロデリックの唇がわずかにほころぶ。
「……ああ、獅子殿下は言い負かされた」
低い笑みが混じった声。
ダリルの胸が、少しだけ熱を帯びる。
「……冗談きついな」
「きつくない」
ロデリックが静かに歩み寄り、ダリルの肩にそっと手を置いた。
「……お前は、強い。だが、無理はするな」
ダリルは短く笑い、けれど視線だけは外さなかった。
「心配するなよ、殿下」
「……するに決まっている」
低く囁かれ、ダリルの心臓がドクンと跳ねる。
すぐに誤魔化すように視線を逸らしたが、耳元が赤く染まるのを止められなかった。
エドガーが、少しだけ肩をすくめた様子で二人を見ている。
「……面会の準備を整えます」
淡々と告げ、扉の向こうへと去っていった。
二人きりの空間に残るのは、暖かい暖炉の空気と、胸の奥に満ちる微かな高鳴り。
ダリルは小さく息を吐き、心の奥でそっと呟く。
(……俺は、隣に立つんだ)
昼過ぎ、王国からの使者は二通の手紙を持ってきた。
一通はロデリック宛。
もう一通はダリル宛だった。
使者との引見は略式だったため、身体に負担は掛からなかった。
ロデリックは使者から受け取った手紙を無言で開封し、流れるように視線を走らせた。
その鋭い目線に、ダリルはちらりと横から覗き込む。
「なんて?」
問いかけると、ロデリックは短く息を吐き、手紙を軽く振った。
「……アンリ・ド・グレイユは、正式に王国の士官籍を剥奪され、幽閉処分だそうだ。宰相派と結んだことは王国の公式な意思ではないと明記されている。こちらに迷惑をかけたことについて、深く謝罪すると書いてある」
淡々とした口調だが、どこか鼻白んだような響きが混じる。
「は……今さらだろ」
ダリルは低く笑い、未開封のままの自分宛の手紙を指先で軽く弾いた。
「生家から……だろ? 出たあとも、軍にいたあとも、なんの連絡も寄越さなかったのに。今さら何を言ってくるつもりか、想像したくもない」
ロデリックはちらとダリルを見やり、手紙を卓上に置いた。
「……読むかどうかは、お前の自由だ」
ロデリックの低く穏やかな声が落ちた。
ダリルは肩をすくめ、小さく笑った。
「……そう言われると……なんか、もうどうでもよくなる」
指先で、封も開けない手紙をひょいと持ち上げ、ぱたんと卓上に置き直した。
「今さら家族面されても、笑えるだけだ」
言い捨てた声は軽かった。けれど、その奥に、ほんのわずか小さな棘が混じっているのを、ロデリックは見逃さなかった。
そっと肩に手が置かれる。
何も言わず、ただそこにいる気配だけが、体温のように伝わってくる。
ダリルは、ふっと力を抜くように笑った。
「……そうだよな。こっちには、殿下がいるしな」
ロデリックは微かに目を細め、笑みとも言えぬ表情を浮かべた。
暖炉の炎が静かに揺れ、赤く柔らかい光が、二人の影を壁に映し出している。
午後の穏やかな光が差し込み、その場だけが誰にも侵されないような、穏やかで甘やかな小さな世界を形作っていた。
4
ダリルがベッドの上で目が覚めたのは夕方だった。
斜陽の日が部屋を染めている。
だる重い身体を起こすと、隣には誰もいなかった。
はだけたシャツから見える包帯と無数の赤い跡、誰かにこんな行為を許すなんて以前なら絶対考えられなかった。
それがほんの少しおかしくて、ダリルが笑った瞬間、ぐぅと腹の音が鳴った。
「そういえば、昼飯、食べそびれたな……」
そんな事を呟いた瞬間、扉が開く。
ロデリックだ。
手には小さな銀のプレート。そこには簡素だが、温かみのある軽食が整えられていた。
「……起きたか」
低く短い声。
ダリルは思わず眉をひそめた。
「……あんたが運んでくるなんて、使用人泣くぞ」
「泣かせてもいい」
ロデリックはさらりと答え、ベッド脇の小机にプレートを置く。
「昼を抜いたのは、お前の所為だ」
低く、静かな声。
「……ったく」
ダリルは顔を赤くしながらも、はだけたシャツをぎゅっと掻き合わせた。
だがその仕草はかえって、首筋や鎖骨に残る淡い跡を隠しきれず、かすかな色気さえ滲ませてしまう。
本人はそれに気づいていない。
ロデリックの金の瞳が、一瞬だけわずかに細められた。
その視線に気づき、ダリルは慌てて顔をそむける。
「……そんな顔すんな。まぁ、腹減ってるのは事実だし……」
かすれ気味の声。
「食え」
ロデリックは短く言い、椅子を引き、ダリルのそばに座った。
距離は近い。息づかいが肌をかすめるほど。
「……一緒に食べるのか?」
ダリルは視線を落とし、かすかに笑う。
「先に済ませた。見届ける」
「……また確認かよ」
「確認ではない」
「……じゃあ、なんだって言うんだ」
問い返した瞬間、ロデリックの手がそっとダリルの頬に触れた。
ひやりとした指先が、熱のこもった頬をなぞる。
「……お前が、ここにいること。それが大事だ」
低く、吐息混じりの声が、耳元を震わせた。
ダリルは息を呑み、胸の奥がじわりと甘く疼いた。
目を伏せ、スプーンを手に取る指先が、かすかに震える。
「……ほんと、ずるいんだよ……」
小さな声。
耳元が赤くなるのを隠しきれない。
スプーンですくったスープを口に運び、一口、二口──ロデリックはただ黙って、隣で見守っている。
その視線に包まれているだけで、ダリルの身体から少しずつ力が抜けていく。
(……もう、いいか……)
胸の奥で、そっと自分に言い聞かせる。
いまは、肩肘張らなくていい。
気づけば、スプーンを置き、ダリルはそっとロデリックの袖を引いていた。
「……隣にいろよ」
かすれた声。
ロデリックの瞳がわずかに柔らぎ、迷いなく腕が伸びてきた。
そっと肩を抱かれ、ダリルは抵抗せず、頭を預ける。
「……あったか……」
眠たげな声が、胸元に落ちる。
ロデリックの指が、ゆっくりとダリルの髪を撫でる。
暖炉の灯が部屋を赤く染め、窓の外では夕陽が静かに山の端へと沈んでいった。
その時間は、ただの一瞬だったのに──胸の奥では、永遠のように深く、優しく残り続けた。
もう少し続きも考えましたが、今回はここで一旦終わりです。ここまでお付き合いいただきありがとうございました!




