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裏世界の牢獄にて  作者: Navi
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〈第12話〉インクの匂いがする世界


「さて!かなり長話をしちゃったねー…」


 突然、すべてを打ち消すような軽い口調が戻る。

 突きつけられた重厚な現実と、その軽薄な態度の落差にこめかみがピクリと跳ねた。


「っ………」


 返事を待つ数秒のあいだ、どこかで鳥が鳴いた。

 しかし、それが本当に今の音だったのか、今はもう自信が持てない。


「……そろそろ、本題に戻ろっか。」


 ゆったりと近づいてきたディオスは、スッと手を伸ばしてくる。

 その手は、今までの存在感に反して妙に小さかった。


「君が掴み取った『ソレ』が、色褪せないうちにね?」


 しかし、それを取るのが何よりも恐ろしく感じた。

 心臓はいまだ早鐘を打ち、身体の震えも収まっていないというのに、コイツはもう『次のページ』をめくっている。

 手の中の感触が、徐々に薄くなっていく。


「改めて、君はこの会話の中でも、聞きたいことは山ほど見つかったんじゃないのかな?」

 

 まるで今さっきまでの会話そのものが、最初から存在しなかったように、風だけが崖の上を通り過ぎていく。

 草の青臭さだけが、妙に生々しかった。


「君からの多くの質問には、答えたいとは思ってはいるからね…」


 目を逸らせば終わるはずなのに、僅かに開かれたその沈黙の隙間へ。

 さらにそこへ、無意識に意識が引きずられていく。

 そこは、決して向かってはいけないような暗い場所。


 それが分かっていても、胸の奥ではどうしようもなく、さらに言葉を投げつけたい衝動がうごめいていた。


「…………」

 

 それでも口が開かない。

 代わりに、手の中にあった草の感触を手放し、ゆっくりと手を向けられた手に伸ばしていく。

 指先が近づくにつれ、ディオスの輪郭だけがやけに鮮明に見えた。


 空も、崖も、木々も霞んでいく。


 なのに、自分に向けられているその黒い瞳だけが滲まず残っていて…


「……ということで!」


 不意に、ディオスは伸ばしていた手を引っ込めた。

 空を掴みかけていた自分の指先だけが、行き場を失ったみたいに宙で止まる。


「……!?」


 そして、パンと小さく両手を合わせる。

 崖上の湿った空気には不釣り合いなほど軽い音だった。

 まるで舞台の幕間を切り替える役者みたいに、ディオスはわざとらしく肩を揺らす。

 その数秒の『間』だけが、不自然に長い。

 こっちの呼吸や視線の動きまで、じっと観察されているようだった。


「こう……色々と話した仲だからさ?ここから出る時、『本当に僕のしたい事の手伝い』……してくれないかなぁ…?」


「……は?」


 一瞬、風が止んだ気がした。

 実際には吹いていて、崖下の草木も揺れているのに、そのざわめきだけが妙に遠い。


「(ま、さか……)」


 頭が追いついた瞬間、腹の奥で停滞して冷え固まっていた感情が、一気に喉元までせり上がった。


 思わず唇を噛みしめる。

 ギリと、嫌な感触が歯の裏に残った。


「お前……それについて首を縦に振らせるために、色々話したのか…!?」


「も、黙秘で〜…」


「(コイツっ……!)」


 ディオスは軽く肩をすくめ、困ったように顔を背ける。

 その横顔に浮かぶ笑みは薄い。

 声音にもあまり悪びれも焦りもなく、ただ茶化すような軽さだけがあった。


「どの口が言って…!今まで、散々こっちの内臓抉るような真実ぶちまけておいて、今さら知らんフリか…!?」

 

 空気の落差に、怒声が喉を突いて次々と出ていた。

 吐き出したそれが崖肌にぶつかって空気へ散る。

 けれど、反響した自分の声さえ、どこか他人のものみたいに薄っぺらく聞こえた。


「いやいや〜……」


 その瞬間、ディオスがゆっくりと視線を戻す。

 顔に手を当て、ふざけた調子は変わらない。

 なのに、その黒い瞳だけが、底のない水面みたいに静まり返っていた。


「けれど、物語の結末を変えたい気持ちは本物だよ?」


「なっ……!」


 術印を通していないはずなのに、その言葉だけが妙に熱を持って皮膚へ張り付いた。

 蝋燭の火を密着するほどの距離まで押し当てられたみたいに、じわじわと離れない。


 コイツは、これだけは本気だ。


 それを理解した瞬間、身体の奥が嫌に静かになる。

 空白だけが残された俺は、荒い息を吐きながら立ち尽くすしかなかった。

 心臓は焼け付くように熱いのに、身体は鉛を詰め込まれたように重く、一歩も動けない。


「ちなみにー……君が手伝ってくれれば、フルドもより早く元の『世界』へ戻れる!」


「ハァッ…!?」


 まるで次の授業の話でもするような軽さで、悪びれる様子すらなくディオスはそう言葉を放った。

 吹き上がった風が、乾いた草をさわさわと擦っていく。


「その方が、物語の結末もより望ましいものに変わると思わない?」


 吐き出された内容は軽くない。

 むしろ、冷えた杭を静かに打ち込まれるみたいだった。


 これは断るという前提すらまるで無い、提案というよりも笑顔の形をした『命令』。


「それって……選択肢なんて、実質ないもんじゃないかよ…!?」


 喉を突き破るように声が漏れる。

 けれど、その怒声さえ、どこか用意された台詞みたいに空へ吸い込まれていった。


「あっ………そ、それでも、選んだっていう事実は変わらないよ?」


 ディオスは少し困ったように眉を下げる。

 その仕草だけ見れば、本当に悪気など無いように見えた。


「ぐっ……!」


 だからこそ、余計に薄気味悪い。

 まるで、逃げ道の無い檻へ追い込んだ後で、『歩く方向は自分で決めたでしょ?』と微笑まれているみたいだった。


「(理解、できない……)」


 今までのディオスの言葉は、まるで意思を持った泥のように思考を埋め尽くしていた。


 『尊厳』

 『錯覚』

 『記述』

 『選択』


 一つ一つの言葉はもっともらしく、妙に整って聞こえる。

 反論しようと口を開けば、その隙間にまた別の言葉を流し込まれる。


「(………おか、しい。何かが、ずっと…)」


 脳裏で、警告灯のような鈍い痛みが明滅していた。

 それは警鐘。

 あるいは、沈み切る直前の意識が鳴らす最後の浮上信号。


「(俺の人生は、偽物で……感情も、苦しみも、誰かが書いた文字に……過ぎない…)」


 ディオスは、ずっとこっちが最も『認めたくないこと』を、最も『認めざるを得ない形』で言葉として整え、提示し続けている。


「(……そう言われて、俺は…?)」


 そこで不意に、濁流みたいだった思考の奥に小さな『淀み』があることへ気付いた。

 ディオスは、こっちが何かを掴みかけるたび、先回りするように言葉を重ねてきている。

 それは狼煙を上げようとした瞬間、その煙ごと水を浴びせるような形で。


「……アベル?」


 呼びかける声が、妙に近い。

 なのに、膜を隔てた向こう側から聞こえてくるみたいに遠かった。


「(でも……どうして、だ…?)」


 呼吸が浅い。

 肺へ空気が入っているはずなのに、酸素だけが抜け落ちているような感覚。


「(どうして、俺は……『こいつの言う通りだ』って……こんなに、思い込まされてる…?)


 そして、結論への飛躍。

 何よりその言葉の圧と、どこまでも軽薄な態度。

 それらが交互に襲い来るたび、思考は波間に揉まれる小舟のように沈黙を強いられていた。


「………」


 そう。

 コイツはそれで俺を縛りながら、同時に『それを認めるのが賢明だ』という、用意された『出口』を指し示している。


「(……待て……コイツは、今まで何て言った…)」


 こんなのもの対話ではない。

 あらかじめ引かれた、見えないレールの上の行軍。

 それは、『ある特定の結論』へと追い込むための、誘導そのもの。


(……『選んだ事実は、変わらない』…?散々、こっちの選択肢を奪っておきながら、選んだなんて言葉で…)


 その瞬間、脳内を覆っていたノイズのような霧が、パキリと音を立てて割れた。

 視界を塞いでいた鈍色の霧が、裂かれたように左右へ退く。


 ディオスの底知れない瞳が映していたのは、今この瞬間なんかではなく、ずっと先の『記述』された情景。


「(そうだ……コイツは…)」


 幾多にもディオスが提示してきた『残酷な真実』そのもの。

 それこそが、実はある心理状態に固定するための『巨大な舞台装置』に過ぎないのではないか。


「(俺に『納得』を強要しているだけ…!!)」


 絶望させ、無力感を与え、最終的に『お前は物語の住人だ』というレッテルを貼らせるための……


「っ……そんなの、屁理屈だろ…!!」


「……!」


 言葉が、自分でも驚くほど鋭い弾丸となって飛び出した。

 割れた鏡のように、質量を持った霧が晴れる。

 今までディオスの言葉の重みに押し潰されていた脳が、急速に冷え、明晰さを取り戻していく。


「そう、だ……今のも、今までお前が言ってきたことも!何が選択だ……」

 

 世界が『物語』だというのなら、この『絶望』すらもあらかじめ用意された舞台演出の一部だ。

 なら、今この人間が滔々(とうとう)と語っている高尚な哲学も、俺を操るための『脚本』に過ぎない。


「全部、『そう思わさせる』ためのものなんだろうが…!?俺を物語っていう舞台に縛るための…!!」


 自分を縛り付けていた透明な糸の正体を、初めてその指先でハッキリと指し示せた気がした。

 まるで整合性のない夢から覚め、目の前の全てが現実だと認識した時のような感覚。


「………本当に…」


 こっちの指摘を浴びたディオスは、数歩自分から離れる。

 そのまま今まで見たことないほど、大袈裟なほどに目を丸くした。

 そして、驚愕を演じるように口元を片手で覆う。


 だが、その拍子に、それまで纏っていた軽薄な微風も一緒にふっつりと途絶える。

 

「……ハハッ!本っ当に……」


 その時、指の隙間から覗いたのは、まるで独り歩きを始めたような笑み。

 目はまだ驚きに凍りついている。

 それだというのに、唇だけが弓なりに引き絞られ、愉悦を隠そうともせずに歪んでいる。


「君はさぁ……ッ!?」


「……っ!?」


 突き抜けた声を聞いた瞬間、全身に逆立つような冷気が駆け巡った。

 ディオスの瞳を微かに灯していた光彩は、まるでその周囲から迫るインクの海に飲まれたように完全に消え失せる。


「たしかに、今までの言葉は理屈としては突飛で!めちゃくちゃな部分も多かったろうね?!今まで見てきた物語のツギハギみたいな部分もあったみたいだしさぁ…!」


 声色は嬉々として明るい。

 だが、開かれた眼球と、三日月型に歪んだ口角とは、もう何の連動もしていなかった。


 言葉と、表情と、意志。


 それら全てが、間違った順番で綴られた文字列のようにバラバラに解体されている。

 ただ『見る』という一点のみに向けられていた。


「……でもさ?」


 瞬間、声の質感がなくなった。

 直接心臓に叩きつけられるような、不気味な波長のような声。


「今までの話で、君にとっての『僕』や、『この物語(世界)』そのものの『純粋な前提』は……もう崩れてるんじゃない?」


 パチャリと。

 頭の上から静かに、何か冷たい液体がかけられたような感覚に陥った。

 直後、脳天から覆おうとしてくる冷たい粘膜のような液体は、澱んだ光を鈍く跳ね返す。


 漂ってくる香りはツンとする有機溶剤のような鋭さと、逃げ場を塞ぐ重厚な樹脂のようなもの。


「………ぁ、……は…?」


 それには覚えがあった。

 どこかノスタルジーさを感じると、形容されたことさえある、その香り。


 本や図書館で漂ってきたことのあるそれは……


「だってもう、『そこまで観ちゃってる』んだしさ。」


 剥き出しの『インク』の香り、そのものだった。


「その考えに至るまで、君は目印を……折り目をつけたでしょ?この世界が『物語かもしれない』っていう、可能性そのものを。」


 風の音も、衣擦れの音も、自分の激しい鼓動さえも、不意に遠のいた。

 ただ、消えていくのではない。


「箱でできていたはずの立体的な世界が、ページとインクの平面な世界なんじゃないかって……一度でもその『構造』を疑った瞬間にね?」


 あらゆる音が、紙のページをめくる、あのがさついた乾いた摩擦音へと置換されていく。


 何度も触れてきた、何よりも触れてきたのかもしれないものに。


「たしかに……『主観』は誰にも犯せないよ。」


 語るディオスの表情は、変わらない。 

 だが、その不変さこそが異常そのものだった。


 この書き換えられていく背景のなかで、ただ一人だけが浮き上がった文字ように存在している。


「……だけど、それって『何も書かれてない』って前提があるからじゃない?」


 ただ自分だけが、まるで『書き換えられていく』ように世界に取り残されていく。

 じわりと漂うインクの香りが強まり、自分を切り離そうと広がっていく。


「少しでもそこに文字が刻まれれば、自分の見ていた全てが変わって見えるだろうね。」


 その言葉が、表情が、何度も何度も頭の中で反響し、抜け出せない。

 まるで隠されていた見えない、掴めない糸が、すでに自分を舞台へと縛りつけているように。


「さて……ここで質問だね?」


 舞台の幕を下ろす直前の役者のように、緩やかに前へと広げる。

 その瞬間、空が、森が、ディオスを除いた全てが。

 まるで、挿絵のように彩られたような質感に変わっていく気がした。


「もう君は、その前提を『自覚』しちゃってるでしょ?」


 身体を伝うインクの冷たさが、もはや皮膚と液体の境界を奪い去っていた。

 自分の輪郭が、世界の背景へと溶け出していく。

 肉体という質量が、記述という記号に上書きされていく。


「僕の言葉全てが事実かどうかなんて、あんまり関係ないよ……でも君は、もう『そういう視点』を知ってしまった。」


 瞬間に悟った。


 これまでのコイツの話は、この認識のための過程のようなものだったんだと。


「それなら、僕らは『何に』なるんだろうね?」


 もう自分は、世界を正しい現実として見ることが、できなくなってしまったことを。


「君には僕が、この物語(世界)がどう見えているの?」


 そして、それを『間違いだ』と証明する術も。


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