番外編「檻の中の独白と見出した光」
◇宵待凱視点
煙と酒の匂いが染み付いた、薄暗い地下のライブハウス。
ステージの袖から見下ろしたフロアは、客もまばらで熱気とは程遠い冷たい空気が澱んでいた。
その冷めた空間の中で、一人だけ異質な熱を放っている男がいた。
それが、叢雲奏太だった。
粗削りだが、正確なリズムと太く重い音色。
ベースの弦を弾く指先から生み出される低音が、床板を這って足の裏から骨を直接揺さぶってくる感覚。
ただの低音ではない。
俺の歌を乗せれば、どこまでも高く飛べるはずだという直感が、背筋に電流を走らせた。
あの夜、俺は奏太をバンドに引き入れた。
奏太の音は、俺の歌を完全に理解し、最も必要な場所に必要な厚みを与えてくれる。
スタジオで音を重ねるたび、パズルの最後のピースがはまったような完璧な調和に、俺の魂は歓喜の声を上げていた。
しかし、その完全な音楽の裏側で、俺の奥底に眠る別の本能が静かに目を覚ましつつあることに、俺はまったく気づいていなかった。
ある日の深夜、長時間のスタジオ練習を終えて二人きりで残っていたときのことだった。
機材を片付ける奏太の背中から、微かに甘い匂いが立ち上ったのだ。
熟れた果実のような、それでいてひどく切実なその香りは、俺のαとしての嗅覚を鋭く刺激した。
奏太が薬で周期を抑え込んでいるΩであると言う事実は、俺の理性に強烈な揺さぶりをかけた。
その匂いを嗅いだ瞬間、俺の脳裏に浮かんだのは、奏太を押し倒し、白いうなじに牙を立てて完全に自分のものにしてしまいたいという、ひどく暴力的で利己的な欲望だった。
自分の内側にこれほど醜く獰猛な獣が飼われていたのかと、俺は慄いた。
奏太のベースは、自由でなければならない。
俺の独占欲と言う檻に閉じ込めてしまえば、あの美しく力強い音は必ず死んでしまう。
そう確信した俺は、奏太から距離を置くことを選んだ。
ステージの上では完璧な調和を保ちながら、日常では冷たい壁を作り、触れることすら避けた。
奏太から漏れ出す微かな香りを嗅ぐたびに、俺は自分の手のひらに爪を立て、血が滲むほどの痛みで理性を繋ぎ止めていた。
奏太が何も言わずにその孤独に耐えている姿を見るのは、自分の身を削られるよりも痛かった。
◆ ◆ ◆
全国ツアーが始まる直前、俺の理性は限界を迎えようとしていた。
密室の移動車、隣り合うホテルの部屋。
奏太の存在が近くにあると言うだけで、体内を巡る血が沸騰するような錯覚に陥る。
これ以上近くにいれば、必ず俺は奏太を壊してしまう。
その恐怖が、俺に解散と言う最悪の選択を突きつけさせた。
理由も告げずにすべてを終わらせる残酷さは理解していたが、奏太の才能を潰すくらいなら、自分が悪者になって身を引く方がマシだった。
だが、あの予備スタジオでの奏太は、俺の想像を遥かに超えて強かった。
埃っぽい空気の中で、奏太は逃げることなく俺の目を真っ直ぐに見据えた。
俺の抱える恐怖も、醜い執着も、すべてを丸ごと受け止める覚悟を決めた瞳だった。
『壊れるかどうかなんて、試してみなければわからないだろ』
その言葉が、俺の心に幾重にも巻き付いていた鎖を粉々に砕き散らした。
奏太の手が俺の頬に触れた瞬間、長年押さえ込んできた渇望が堰を切って溢れ出した。
唇を重ねたとき、奏太の体から立ち上る甘い香りと、震える背中の感触が、俺のすべてを支配した。
この男は、俺の本能に喰い殺されるような弱い存在ではない。
俺の独占欲すらも飲み込み、それを力に変えてベースを弾き続けるだけの強靭な魂を持っている。
その事実に気づいたとき、俺の中で長く降り続いていた冷たい雨が、完全に止むのを感じた。
アリーナの楽屋で奏太のうなじに牙を立てた瞬間、俺の魂は本当の意味で救済された。
血の味と、混ざり合うフェロモンの熱。
完全に一つになった感覚が、これまでにない強大なエネルギーを生み出していく。
ステージに上がり、奏太のベースが鳴り響いたとき、俺の歌は新しい翼を得たように空気を切り裂いた。
もう迷いはない。
俺はこの男を手放さない。
どんなに深い暗闇が訪れようとも、奏太の音がある限り、俺の声は光となってその道を照らし続ける。
そう誓いながら、俺は観客の歓声の向こう側へと声を張り上げた。




