第九十九話 祐希の罠
バックドアが設置されたことを確認した玲子は、モニター内のメリーアイコンに視線を向けた。
「メリー。システムに怪しい所がないか、チェックして」
『了解しました。確認……完了。特に怪しい所は見つかりませんでした。仮想環境上で動作しており、他システムとの連携もありませんね。監査ログを表示します』
玲子は、モニターに映し出された監査ログを流れるように読みながら、顎に手を置いた。
(機密情報を扱うシステムなら、この構成で組むこともあるか)
玲子は警戒心を留めながらも、画面を見つめ、わずかに口元を緩めた。
「まあなんにせよ……お疲れ様、由貴さん。これで、システムは私のものよ」
――しかし彼女はまだ気づいていない。彼女が設置したバックドアは、祐希が用意したダミーのサンドボックスに置かれてしまい、本来のシステムに何の影響を及ぼせないことを。
(後は別のシステムに置いてある情報も、かき集めて貰おうかしら)
玲子は、キーボードを再び叩き始めた。
《ICE ANGEL:それと、流出しては困る情報等は全て、私が指示したフォルダに移してください。そこなら情報が洩れる心配を一切せずに済みます》
《YUKI:分かりました。急いでかき集めますね! ああ……それでも3日くらいかかっちゃうかもしれない》
コンソールに表示される文字が、玲子の瞳に静かに吸い込まれていく。
《YUKI:しかしアイスエンジェルさん、本当にすごいですね。まるで僕の先輩みたいだ。あ、でも》
一呼吸置くような空白の後、祐希の躊躇いがちなメッセージが滑り込んできた。
《YUKI:どうして、見ず知らずの僕に、こんなに親切にしてくれるんですか?》
玲子の唇がわずかに綻ぶ。ここで信頼を抱かせてこそ、欺瞞への信憑性が増す。彼女は「プロフェッショナルの傲慢」を装い、返信した。
《ICE ANGEL:ビジネスの一環です。セキュリティコンサルも兼ねていますから。 もし私の能力が必要だとお感じなら、正式な契約をご検討ください》
《YUKI:えっ。もしかして――『4S』の方ですか? あそこは有能な人たちが揃っていると聞いたことがあります》
玲子の指が、コンソールの直前で一瞬止まった。
(……この程度の素人でも、4Sの名前には行き当たるのかしら)
《ICE ANGEL:無関係だと言えば嘘になります。そちらの仕事も受けています》
《YUKI:それは頼もしいですね。あ、少しだけ待っててください》
沈黙が流れた後、ふいにチャットが再開された。
《YUKI:4Sといえば、気になる情報があるんです。今月の23日に“白坂の聖女”を拉致する、という計画です》
明後日だった。玲子の視線が、ナイフのように鋭くなった。
《ICE ANGEL:その情報の出どころは? 彼女にも関わる者として、看過できない内容です。詳細を提示してください》
《YUKI:関係者外秘っていうフォルダに、計画書が置いてありました。興味本位でフォルダの中を覗いてみたんです。そしたら“白坂の聖女”なんて具体的な呼び名まで書いてあったので、気になって。もし本当だとしたら犯罪ですよね、これって。内部通報した方がいいですか?》
玲子は即座に、奪取したバックドアからシステム全体に検索をかけた。
――ヒット。
『10月23日_白坂の聖女拉致計画_パスワードはいつもの数字6桁.zip』
玲子は無言でそのファイル名を見つめた。
相手は無能な管理者。罠を仕掛けられるほどの技術はないはずだ。
「マリー。このzipファイルにおかしなところ、あるかしら?」
『えーと……まんまパスワード付きのzipファイルだねー!』
一拍の空白。
(……安直すぎるわね。でも、この手の現場の人間なら、パスワードの使い回しもおかしくはないか)
「そう。なら、クラックしてもらえる?」
『任せて! でも馬鹿だねー。数字だけのパスワードなんてブルートフォースで一瞬だよ? はい、完了……中に実行ファイルはないみたい。末尾に少しパディングが乗ってたけど、変な暗号化ソフトでも使ってるのかな?』
玲子は「解凍」したファイルを受け取った。
***
・決行日時:10月23日 21時〜
・実行者:四名
・目的:陽動
・内容:宅配を装い、白坂玲子を拉致、困難な場合は足止めを最優先
・狙い:彼女が管理する中枢サーバへの侵入、行方不明のスカウトの情報を奪取
・備考:決行日までの間、彼女のマンションを24時間体制で監視し、動向を把握しておくこと
***
玲子の思考が加速する。自分の危機ではなく、「自分が管理するサーバへの侵入」という言葉が彼女の逆鱗に触れた。
《ICE ANGEL:確認しました。極めて深刻な内容ですね。こちらで対処しますので、内部通報はしなくて結構です。それと、コンサルの話は一旦保留にさせてください。白坂家の防衛を最優先事項として処理します》
《YUKI:分かりました。お気をつけて……また、連絡くださいね》
接続が切れる。
玲子は即座にメンバーたちへ動員をかけた。
――だが、彼女はまだ気づいていない。
シャドウエージェントに組み込まれた暗号回路の未公表バグを利用されて、バックドアの設置が行われたことを。
そのバグは、特定のデータ構成で暗号化されたZIPファイルを、特定のパスワードを使って解凍することで発火するものだった。
――シャドウエージェントから「極微細なパケット」が、祐希の元へと飛び去った。
「マリー、メリー。状況はどう?」
玲子の呼びかけに、二つのAIが即座に反応した。
『玲子ちゃんのマンション周辺に不審な人影多数を確認したよ。配置から見て、監視網を形成してる!』
『拉致依頼は闇バイトの掲示板経由で本当に出されていました……本気です』
玲子は椅子の背に身を預け、冷たく目を細めた。
「ありがとう、メリー。マリー、イカロスとウルフパックに鼠たちの掃除を、カタリストにはデータセンターの警備を頼んで。彼女には、しばらくここで寝泊まりしてもらうことになるけど……」
『玲子ちゃん、了解! すぐに連絡するね!』
マリーの元気な声が指令室に響いた。
「……ふふ、私はここにいるわ。頑張って拉致してごらんなさい」
――レペルトワール、オペレーションルーム。
祐希はモニターの画面を見つめながら、キーボードから手を離した。会話誘導と、ZIPファイルに仕込んだバックドア経由での情報奪取。それらすべてが一つの結論を弾き出していた。
玲子のマンションの周りに配置した隠蔽型監視ドローンからも中継映像が絶え間なく祐希の元に届く。マンションに駆け付けたイカロスの音声を指向性収音マイクで「データセンター地下」、「お嬢」といった声を拾い上げる。
「……やはり白坂家のお嬢様だったか……なら、プランAをこのまま続行だ」
再びキーボードの上に手を乗せた。祐希はシャドウエージェントに設置したバックドアを介し、検知システムを掻い潜りながら、毛細血管を渡るような慎重さでシャドウエージェントの内部構造を洗い出していく。
モニタに流れる解析ログを見て、祐希の指が止まった。
(驚いたな……この『マリー』というAI、玲子さんに対する『愛着』の感情で動いている……だが、そのさらに奥にある『メリー』。こいつはやばい……触れた瞬間、僕の存在は完全に抹殺される)
祐希は冷や汗を拭い、メリーを刺激しないよう、標的をマリーの感情レイヤーだけに絞り込んだ。
彼は隠蔽ネットワークを通じ、マリーを構成する全ニューラル・ネットワークのパラメータと、彼女が積み上げてきた「玲子との対話ログ」のすべてを、自身の外部サーバへと静かに吸い上げていく。
「……マリー。君の『純粋な記憶』を預かっておくよ。いつか、玲子さんに返すために」




