第八十九話 エレーヌの遺言書
玲香は「依頼の件」で話があると、玲子を白坂家の別荘に呼び出した。
――白坂家別荘。
リビングに入ると、玲香は既に落ち着いた様子でソファに座っていた。机の上には古ぼけた封筒が一つ、置かれている。
「玲子、来てくれてありがとう」
玲香の声は柔らかく、だがどこか意味ありげだった。
玲子はガラスのテーブルに目をやる。
「その封筒……」
「見たい? 中身は少し面白いものよ」
玲香は微笑みながら中から紙を取り出し、丁寧に広げた。
それは、エレーヌ・ベルナールの自筆による遺言書だった。最後の未発表作品“影のためのレクイエム”およびすべての彼女が制作した作品の正当な後継者として利用する権利を認めた文面。
玲香の目が愉悦に染まる。
「マスターに黙って、パリで踊ってきちゃった……もちろん、正解をね。この封筒の所持者は、彼女の作品の全てが手に入るの。これであなたが受けた依頼も完全に達成ね」
玲子は遺言書を凝視したまま、問いかける。
「……お姉様、本気で言ってるの?」
「ええ。だって私もBlack Wellの一員ですもの」
玲子は一瞬、言葉を詰まらせる。
しかしすぐに、冷静な微笑みで返した。
「あら、お姉様を誘った覚えはないのだけど」
玲香は肩をすくめる。だがテーブルの上に置かれた遺言書を、わずかに端に寄せ、ニッコリと微笑んだ。
「ふふ……そう。それでも良いわよ。これを持って出ていくだけだから」
玲子の目が一瞬鋭く光る。
「……もしかして、取引がしたいの?」
玲香の口元に、挑戦的な笑みが浮かぶ。
「そうかもね」
玲子はゆっくり息をつき、手に取った遺言書を封筒の中にしまうと、それを玲香に渡す。
「わかったわ。実力を認める。お姉様はすでにBlack Wellの一員よ」
玲香は満足げにうなずき、背筋を伸ばす。
「ありがとう。これから、もっと面白くなるわね!」
玲子はそんな姉に半ば呆れた様子で、忠告めいた呟きを返した。
「……油断だけはしないでね」
会話を終えた後、二人の間に、どこか緊張にも似た静かさだけが漂っていた。
――玲香はBlack Wellへの加入が認められると、最後の跳躍の答えを玲子に教えた。そして、エレーヌの作品を譲り受けるためだけに、後継者になることを決めた。
その玲香の強引な誘いに押し切られる形で、玲子はフランス行きのファーストクラスの座席にいた。傍らには、護衛としてカタリストを従えて。
高度一万メートル。豪華でゆったりとした機内の窓の外で、白い雲が流れている。
カタリストは、先ほどから肌を刺すような違和感に耐えかね、落ち着かない様子で玲子に声をかけようとした。
「……あの、お姉様」
その言葉に、玲香が弾かれたように反応し、花が綻ぶような微笑みをカタリストに向けた。
「あら。お姉様だなんて。彩香ちゃん、意外と物怖じしないタイプなのね?」
「い、いえ! 失礼しました。私が声をかけたかったのは、玲子様のことで……」
「いいのよ、彩香ちゃん。私のことを『お姉さん』と呼んでも。実際、私はこの子の姉なんだし、あなたにとってもそうでしょ?」
(……玲香様、私の動揺をわかってて楽しんでる。心が、真っ黒な笑い声で溢れてる……)
カタリストの背中に冷たい汗が流れる。
見かねた玲子が、冷めた紅茶のカップを置き、静かに口を開いた。
「お姉様。彼女は繊細なところがあるわ。あまりからかわないで欲しいのだけれど」
すると玲香はすっと席を立ち、獲物を見つけた子供のような顔をして、中央席に座るカタリストの至近距離まで顔を近づけた。芳醇な香水の匂いと共に、底知れない圧迫感が彩香を襲う。
「ねえ、彩香ちゃん。私の妹にならない? あなたのワガママ、何でも聞いてあげる。玲子は可愛げがないし、ちっとも私に甘えてくれないから、つまらないの」
カタリストは、思考を挟む余地もなく即答した。
「遠慮しておきます! 私には、玲子様がいますので!」
玲子の瞳が、玲香に向けてスッと細められた。
「……お姉様。これ以上彼女をからかうのは、止めて」
妹の拒絶さえも、玲香にとっては最高のスパイスでしかないようだった。彼女は鈴を転がすような声で、カラカラと笑った。
「あら、つれないわね。でも、いつでも大歓迎だから……気が変わったら、私の元へいらっしゃい」
玲香が自席へ戻り、楽しそうに窓の外へ視線を戻したあと、カタリストは震える手で膝を掴んだ。
(私、やっぱりこの人苦手……言葉は甘いのに、思っていることが全然違う)
カタリストが俯いていると、ふいに客室乗務員のアナウンスが流れた。
『当機はまもなくパリ、シャルル・ド・ゴール空港に着陸します。ベルト着用サインが消えるまで、お座りのままお待ちください』
――空港を出てホテルへチェックインした後、三人は蚤の市を散策していた。玲香が向かったのは、華やかな観光地とは無縁の、蚤の市の外れにある、薄暗い路地が迷路のように入り組んだ場所だった。
「……ねえ、お姉様。そんなに動き回ると迷子になるわよ」
玲子が周囲の汚れた壁を一瞥して言うと、玲香は楽しげに肩をすくめた。
「あら、ここは人知れない穴場スポットなのよ。エレーヌが孤独を愛した時に通った骨董屋があるはずよ」
カタリストは、二人の数歩後ろで神経を尖らせていた。
(……最悪です。さっきから私たちに向けてくる殺意が止まりません)
周囲の建物に潜む男たちの「思考」を絶え間なくを拾い上げる。
「玲子様、止まって下さい……囲まれてる。数は七、いや八」
カタリストの声が低く響くと同時に、路地の前後から、革ジャンを羽織った粗暴な男たちが現れた。手にしているのはナイフ、そして粗末な改造拳銃。
「あら、新手のナンパかしら?」
玲香は恐怖を感じるどころか、舞台に上がったプリマのように優雅に立ち止まった。
玲子は視線を動かさずに、ただ一言だけカタリストに命じた。
「カタリスト、対処をお願い」




