第七十二話 洋上にて
玲子は、鼻を押さえてうずくまる櫂と陽の前のソファに、ゆっくりと腰を落とし、足を組んだ。背もたれに寄っかかり、顎を手の上に乗せ、不敵に微笑む。
「身体検査、できなくて残念だったわね。でも安心して……この後でちゃんと『身体検査』してあげるから……一睡もできないくらい、隅々までね」
その薄ら寒い微笑みに、二人は恐怖で奥歯を鳴らした。玲子は立ち上がると、ドアの外の二人組に号令を下す。
「ブルーム、ダストパン。この二人を連れ出して」
「「了解しました」」
ブルームとダストパンと呼ばれた、それぞれ櫂と陽に変装した青年たちが、キャビンへと入ってくる。彼らは不敵に笑った後、「オリジナル」へと歩みを寄せた。
櫂は、同じ姿をしたブルームに胸倉を掴まれ、無理やり立たせられた。
「なっ……! どうして、俺がもう一人……!?」
鼻を砕かれ、血塗れの顔で自分自身の顔を見上げる櫂。
「お前は誰だ! 離せ、離してくれ!」
陽もまた、自分と寸分違わぬ姿をしたダストパンに組み伏せられ、絶叫した。
唐突に、ブルームが変装マスクの出来について、ダストパンに確認する。
「本当にそっくりですね……あなたの方は問題なさそうです。私の方はどうですか?」
ダストパンが青年の顔でニコリと笑った。
「問題ありません。あなたもそっくりですよ」
二人で変装マスクの出来を確認し終わった後、櫂の姿をしたブルームが、先ほどの櫂よりも遥かに「爽やかで完璧な」笑みを浮かべて囁く。
「現時点を持ちまして、あなたたちはこの世界から文字通り消え去りました……最後に海でも眺めていきますか?」
陽の姿をしたダストパンも、冷ややかな視線でオリジナルを見下ろした。
「それとも海水浴でもしますか? まだ寒いですがね」
キャビンから引きずり出されていく本物の二人。その悲鳴さえ波音に消える中、玲子は一瞥することもなく開け放たれたドアへと歩み寄った。
「ブルームとダストパンが戻ってきたら出航するわ。みんな、準備をお願いね」
――十時間後。クロサワが操舵するクルーザーは、夕闇に染まり始めた海を滑るように進んでいた。
本来は贅沢なバカンスを過ごすための空間だが、今はイカロス率いるウルフパックの猛者たちでひしめき合っている。銃器のメンテナンスをする音や、低く交わされる作戦確認のやり取りをする声が、あちこちから聞こえる。
玲子はキャビン奥のソファの一角に深く腰掛け、窓の外を流れる濃紺の海をぼんやりと眺めていた。
「メリーさんとマリーさんにも、この海を見せてあげたかったですね」
隣に座ったカタリストが、冷たい麦茶のグラスを差し出しながら話しかける。
玲子は視線を海から戻し、受け取ったグラスの結露を指先でなぞった。
「あの子たちと繋がるための設備が、この船には無いのよ……この任務が終わった帰りは、あの子たちも一緒に旅をさせてあげるわ」
何気なくカタリストの手を取り、その温かい指先をなんとなしに眺める玲子。先ほどナックルで男たちの鼻を砕いたとは思えないほど、その手は白く、華奢だった。
「……しかし、退屈ね。接触まであとどれくらいかしら?」
玲子の退屈そうな呟きに対し、カタリストは陽気で、花が綻ぶような笑顔を向けた。
「師匠の話だと、明日の朝にはボイドの拠点と接触予定です……それまでは、一緒にお休みしましょう? 私はお姉様と同じベッドで寝られて、とっても嬉しいです!」
屈託のないカタリストの喜びように、玲子も「仕方ないわね」と言わんばかりに微かな苦笑を漏らす。
この船に乗り込んでいるメンバーたちが、明日の決戦を前に神経を研ぎ澄ませている中、玲子とカタリストは、寄り添い合って深い眠りへとつこうとしていた。
――夜明け前。波の音だけが響くキャビン。
玲子はクルーザーの室内に集まったBlack Wellの精鋭15人を一瞥した。
「ブリーフィングを開始する……一度しか言わないからよく聞いて」
玲子はキャビン前方に貼り出したスクリーンに、プロジェクターから投影された小型貨物船内の3D映像を映し出す。
「貨物船にはボイドが雇った武装傭兵が10名ほど駐在。船内で使用可能なネットワークはPLCのみ。甲板下のエリアは鉄の壁に阻まれて電波が届かないから、無線通信は使えないと思って。代わりにチームごとに有線ドローンを帯同させるので、連絡はドローン経由でお願い」
玲子は視線をスクリーンに向けたまま、PCを片手で操作し、貨物船とクルーザーの位置を示した海洋マップに切り替える。
「ブルームが貨物船へ『ターゲットの拉致に成功』の合図を送った後に、接近を開始、クルーザーを接舷させる。いきなり仕掛けて彼らを刺激すると、爆弾を起爆させてしまう恐れがあるから、油断を誘うために私とカタリストが囮になるわ」
再度、船内マップに切り替える。
「最初に私たちが、ブルームとダストパンのエスコートで敵船に乗り移り、携帯発信機で船の情報をあなたたちに送る。次に甲板上の居住区にいるボイドのコアメンバーと接触した直後に作戦開始の合図を送るから、そこから各チームは行動開始。私達がボイドの連中の注意を引いて、あなたたちが動きやすいようにするわ」
ここで玲子はプロジェクターから視線を外すとメンバーへ向き直り、澄んだはっきりとした声と共に、各チームへと指示を飛ばした。
「アルファは船底で爆弾回路の凍結処理、ベータは甲板下の監禁エリアから拉致被害者を救出、イカロスとガンマは傭兵の掃討を実施。クロサワ及びデルタは接舷したクルーザーに残って有線ドローンを操縦し、偵察と各チームのサポート……いいかしら?」
「「「「イエス、マム!!」」」」
一つとなって鳴り響く高揚した唱和。掃除人の二人も、ウルフパックの隊員も、玲子の采配の下で踊れることに至上の喜びを感じているようだった。
「なお、全体の現場指揮はクロサワが、戦闘指揮はイカロスが執り行う。問題発生時は、有線ドローンからコマンダーへの報告と、クルーザーへ退避を優先。あなたたちの身の安全が第一よ。いいわね?」
クロサワは玲子に深く一礼する。玲子は頷くとプロジェクターの電源を落とし、メンバーの方へ一歩足を踏み出した。
「……ブリーフィングは以上で終了よ。今回はメリーとマリーの支援は受けられない……けれど、私はあなたたちの経験と技量を信じているわ。この一戦で、あなたたちが世界最高のチームであることを証明して」
イカロスが一歩前に出て、不敵に鼻をこすった。
「お嬢の教育投資おかげで、俺たちもただの『戦闘屋』から『特殊作戦遂行部隊』に格上げだ……任せときな、期待に応えてやるぜ」
――早朝。
水平線の彼方が白み始めた頃。玲子は操舵室のブルームの横に立ち、霧の向こうを見据えていた。
やがて、朝靄の中から錆びついた鉄の巨躯――小型貨物船が、まるで浮遊する監獄のように姿を現した。
「拉致成功の合図を貨物船に送信しました……向こうからは『了解。Aデッキに接舷せよ』と応答がありました」
ブルームは視線を正面に固定したまま、静かに告げた。
「そう……なら、このまま『ご招待』に預かりましょうか」
玲子は踵を返し、すでに武装を完了し、キャビンに整列している男女の群れへと向き直った。彼女はあえてゆったりとした、慈愛さえ感じさせる微笑を浮かべる。
「予定通り作戦を実施……みんなの活躍を、期待しているわ」
玲子は腰に手を当て、片足を半歩だけ開くと、カツンとヒールを鳴らした。
それに一瞬遅れて、ライフルの床を鳴らす金属音と共に、鉄の規律と狂信的な忠誠が混ざり合った、地鳴りのような咆哮が返ってきた。
「「「「イエス、マム!!」」」」
逆光に照らされた玲子の口元が、わずかに吊り上がる。朝日が甲板を照らし出すと同時に、Black Wellの牙が、ボイド・ネットワークの心臓部へと突き立てられようとしていた。




