第百六話 玲子の執着
――白坂邸隣のデータセンター。
深夜の静寂を切り裂くように、イカロスの駆る『シロ』が滑り込んできた。キッというタイヤが止まる音と共に、ヘッドライトの光が消えたエントランスで、ガウンを羽織りブランデーグラスを手にした正人と、影のように付き従うクロサワが、帰還した一行を待ち構えていた。
カーディガンを羽織り、車から降りた玲子は予想外の正人の出迎えに、わずかばかり肩を震わせた。
「お父様……起きていらしたの?」
「いけない子だね、玲子。こんな遅くまで夜遊びとは……で、どうだったのかな? お前を連れ去った『彼氏』とは何をしたのかな?」
正人の悪戯っぽい、しかし底の知れない問いかけに、玲子は一瞬言葉を詰まらせ、すぐに鋭い声を返した。
「そんなんじゃないわ! 彼は……」
玲子は苛立ちを隠せないままだったが、しかたなく鏡の間での出来事を淀みなく話した。
ハッキングを仕掛けたはずが、逆にハッキングされ返されたこと。ディープフェイクで護衛のカタリストを欺き、誘拐を成功させたこと。祐希が自分を縛り上げたこと、そして――何も奪わず、ただ「幸せになれ」と告げて自分を解き放ったこと。
「ほう……支配も陵辱もせず、ただ『自由』にした、か」
正人の口元に、三日月のような歪な笑みが浮かぶ。
「面白い。実に面白いじゃないか……しかし幸運な男だ。もし私の愛しい娘に手を出していたら……生まれてきたことを後悔させてやったのに」
正人から放たれた冷気は尋常ではなかった。冬の吹雪が舞い上がる湖のごとく、その場にいた全員を凍てつかせた。
それはほんの一瞬だった。すぐに表情を和らげると、玲子の優しく頭を撫でる。
「さて、お前はもう休みなさい。これ以上の夜更かしは、心身に悪影響を与える。私はこの三人と少し『事後処理』の話をしたい」
玲子が納得いかない表情で寝室へ追いやられた後、正人は残された三人――クロサワ、イカロス、カタリストに向き直った。場所を地下ダイニングへと移すと、空気の温度が一段階下がった。
「ほう。祐希君は、玲子が最も嫌い、かつ理解できない『無償の愛』という劇薬を、あえて真正面からぶつけてきたわけだ」
正人は楽しげにグラスを回し、カタリストへ視線を向けた。
「カタリスト、現場にいた君から見て、娘はどんな顔をしていたかな?」
「……。ひどく、取り乱しておられました。あのようなお嬢様を見るのは……初めてです。まるですべてを暴かれた子供のような、痛々しいほどのお姿でした」
「ははは! あの玲子が? それは見たかったな、録画してないのかい? ……冗談だよ、クロサワ。そんな怖い顔をしないでくれ」
正人は一気にブランデーを飲み干すと、鋭い眼光をダイニングの奥へと向けた。
「玲子の心の壁をハッキングするなんて、そいつは相当な手練れだね……レペルトワールか。退屈な日常に、ようやく面白そうな異物が混ざってきたようだ……さて、どう調理しようか。できれば4Sに迎え入れたいところだが……」
――正人の前から追い立てられるように、指令室の寝室へ戻った玲子は、柔らかなベッドの上に身を投げ出した。
高級なシーツの感触が肌に触れる。だが、意識の奥底に残っているのは、あの「鏡の間」で自分を縛り上げていたロープの粗い感触と、それを解いた祐希の指先の熱だった。
(なんなの……あいつ。本当に、なんなのよ)
暗闇の中で、玲子は自分の右手をじっと見つめる。掴み損ね、空を切ったあの瞬間の感覚が、指先にしびれるような余韻を残している。
自分を欺き、誘拐し、死の恐怖さえ感じさせたはずの相手。
それなのに、思い出すのは彼に対する憎しみではなく、彼が最後に向けたあの「憐憫」と、突き放すような「慈愛」だった。
『嫌でしょ? 愛してもいない男に抱かれるなんて』
その言葉が、耳元でリフレインする。
駆け引きには慣れていた。騙し合うことにも、取引をすることにも。だが、「愛」という、対価を求めない不合理な感情を突きつけられたのは初めてだった。
「……勝手なこと言わないでよ」
玲子は枕に顔を埋め、小さく毒づく。
「幸せに暮らして欲しい」なんて、世界で最も退屈で、無責任な言い分だ。
それなのに、その言葉に触れた瞬間、自分の内側で何かが決壊してしまった。あの時、迸る様に発せられた「あなたが私を愛しなさいよ」という叫び。
(私、どうかしてる。あんな、どこの誰ともわからない男に……)
目を閉じれば、鏡の中に映っていた「自分」がこちらを見ている。
冷徹な司令官でも、欺瞞に満ちた聖女でもない。
ただ一人の男に心を揺さぶられ、無防備に震えていた、見たこともないほどに幼い自分。
玲子は寝返りを打ち、天井を見つめた。
「……祐希。あなたは、一体誰なの」
祐希のことを考えれば考えるほど、玲子の胸の鼓動は早くなっていく。
それは恐怖ではなく、未だかつて経験したことのない「感情」の予動だった。
今宵、玲子は初めて他人に執着ともいえる興味を持った。自分を否定し、理解しようとし、そして「渇望」という名の感情をひどくかき回してくれたあの男に。




