第9話:嵐の前のシチュー(前編)
2025/10/26 題名変更+加筆修正
2026/6/2 推敲版投稿
繋たちはシグルに言われた通り、理事室を目指して歩き出した。
校内には、どこか懐かしい空気が漂っている。長い渡り廊下、階段を上がる途中の広い踊り場。大学ではあるが、その一つひとつが、過ぎ去った中学時代の風景と重なり、繋の表情に一瞬、穏やかな笑みが浮かんだ。
だが、その感傷も長くは続かない。
現実へと引き戻すように、あちこちから視線が向けられていた。すれ違う屈強な人々の目に敵意はない。ただ、この拠点では見慣れない顔ぶれに、好奇心を隠しきれていないだけなのだろう。
とはいえ、落ち着かないものは落ち着かない。
繋は困ったように眉を下げ、小さくつぶやく。
「敵意があるわけじゃないけど、ああも珍しそうに見られると、ちょっと居心地悪いよね」
実際、三人並んで歩いていれば目立つのも仕方がない。柔らかな雰囲気をまとった青年に、快活な少女、そして人混みの中でもひときわ目を引く威圧感纏う長身の男。そんな取り合わせなら、注目されないほうがおかしい。
徐々に息苦しさを感じる。気を張っている時はまだ平気だ。
だが、人一倍他人の視線に敏感な繋は、周囲から向けられる視線にじわじわと息苦しさを覚えていた。そんな時、ふいに背中へ温かな感触が触れる。
「気にすんな」
それは、ヒカルの大きな手だった。気遣うようにぽん、と繋の背を軽く叩くと、そのまままるで守るように繋の少し前を歩き始めた。
そんなヒカルの行動にぽかんとしていると、隣を歩いていた菊香が「私もいるからね」と言って腕を組んでくれた。
二人の思いがけない行動に、繋はむず痒くなる。けれど、周囲から向けられる視線のせいで背中に嫌な汗がにじみ始めていたこともあり、ありがたく二人の好意に甘えることにした。
そうして少しだけ肩の力を抜きながら歩き続け、三人はやがて理事長室の前へとたどり着く。
ドアの前で、繋の目がふとあるものに留まる。扉の下部に、小さくへこんだ蹴り跡のような痕があった。
何かあったのだろうか。
一瞬だけ気になったものの、今は立ち止まっている場合ではない。首をかしげつつも、その違和感を胸の奥にしまい込み、軽く二度ノックした。
「どうぞ」
中からシグルの声が返る。繋はドアノブをひねって中へ入った。
「渡さん……!」
「目が覚めてくれてよかった。本当はお見舞いに行きたかったんですが、もう具合は大丈夫なんですか?」
声を弾ませて駆け寄ってきたのは晴斗で、夏原は眉を八の字にして不安そうに尋ねてくれた。その姿に、繋の胸には嬉しさと、少しだけくすぐったいような気持ちが広がる。
「心配かけてごめんね。大丈夫、すっかり元気になったよ」
「……本当によかった。無理をしたって聞いていたので……」
夏原の言葉に、繋の胸がきゅっと締めつけられた。
救助隊の壊滅、仲間との別れ。このたった数日で夏原が何を背負い、どれだけの痛みに耐えてきたのかを思えば、その気遣いが胸に沁みた。
「夏原くんも……少しは休めた?」
「うっ……」
夏原は言葉に詰まり、わずかに視線を逸らした。喉の奥で何かを飲み込むように唇を結び、やがて静かに口を開く。
「……正直に言うと、まだ……引きずってます」
それは本音だった。
心の中では、何度も何度も「あの時、もっと早く動けていれば」と、終わらない独白がこだまする。自分を責める声は、もはや自分の思考と一体化していた。
倒れた仲間、助けられなかった人たち──あの顔が、あの手が、夜ごと夢の中に現れる。助けを求める声が、耳にこびりついて離れない。なのに目覚めるたび、現実にはもう誰もいない。
「でも……」
夏原は言葉を継ごうとするが、次の言葉がすぐには出てこなかった。喉の奥で絡まる感情をごまかすように、浅く息を吐く。
「ここの救助隊長として、いつまでも立ち止まってるわけにはいかないですから」
それは、言わなければならない台詞だった。自分を奮い立たせるために言葉を繕う。痛みを見せないように、自分に言い聞かせる。
夏原は、ぎこちなく笑った。どこか表情の筋肉だけが引きつるような、痛々しい笑みだった。
だがその目は、いまだ深い影を湛えていた。仮初めの決意は、未熟なまま胸の奥に沈み込んでいく。
その揺れる目を見て、言葉を探す。けれど、言葉は出なかった。
慰めも励ましも、今はきっと届かない。
むしろ、余計な一言が彼を崩してしまう気がした。だから繋はただその場で静かに、夏原の姿を受け止めていた。
「えっ、あの後倒れたの!?」
少し離れた場所から、菊香の声が響く。
張り詰めていた空気を裂くようなその声に、俯いていた夏原がふっと顔を上げた。その表情にはまだ翳りが色濃く残っていたが、さっきまでの張り詰めた空気は、わずかにだけ和らいでいた。
(……夏原くん)
繋はその姿を見つめる。
責任感が強い人ほど、自分を追い込むことを知っている。罪悪感は消えず、後悔は形を変えて何度でも現れる。終わりのない自己反省のループ。
それは、自身も常に味わっている負の感情だった。
幸いにも、繋は自分の心を切り替えることには長けていた。どちらかというと、“長け過ぎている”ほどだった。だから負の感情に飲まれることはそうそうないし、心を隠したり、切り替えたりすることを無意識にやってしまうレベルの悪癖でもあった。
(……時間を作って、彼とちゃんと会話しよう)
そう心の中で、そっと決意する。このままでは、彼はいつか自分を許せなくなる日が来るかもしれない。その前に、ぶつからなければならない。彼のようなまっすぐな人にこそ、受け止める人が必要だと知っているから。
一方、菊香と晴斗は、
「疲れも溜まってたからだよ。でももう大丈夫! あの後すぐ寝て、もう元気!」
晴斗は笑いながら答え、菊香と和やかな会話を交わす。その様子をヒカルは腕を組んで黙って眺めていた。
「おや、まるで娘がよその男と話していて気が気でないお父様みたいですわね」
シグルがヒカルのそばにそろりと立ち、こそっと他の人には聞こえないくらいの声で揶揄う。
「だれが父親だ、誰が」
ヒカルはわざとらしく体をそらしてシグルから逃げ、シグルはその様子にくすっと笑った。
(……同じ“魂”だというのに、こうも違いますか)
ヒカルと、かつての“ある男”の姿を重ねて、シグルは思う。似ても似つかない性格。見た目もまったく違う。しかし、魂の色も形も同じだというのに、“あの男”はこんなにも誰かのために心を動かすような人間ではなかった。
むしろ、周囲を、世界を憎み、他人に心を開かず、攻撃的だったはずだ。
(変化のきっかけは、環境? それとも人間関係?)
(いえ……きっと、どちらも必要だったのでしょう。そして──それはきっと、ケイ様も同じ)
そこでふと、シグルの脳裏にある確信が浮かんだ。
手を顎に当て、脳内で思考を整理する。
(ケイ様が若返った理由。あの男の“魂の年齢”が逆転している理由。……あの男が倒された最後の瞬間、もし心から願ったとしたら──)
(「やり直せたなら」と──)
(最後の戦いの時、その願いが“呪い(まじない)”となってケイ様にかかった……? ……でも、なぜケイ様に? あの男とケイ様はどこかで出会っていた?)
シグルは知らない。
繋とあの男が、短いながらも共に旅をしていたことを。
知らないからこそ、シグルはあくまでも仮定として想像を巡らせる。
願いは、時として“祝福”にも“呪い”にもなり得る。とくに、それが命を燃やし尽くした末の、魂ごと吐き出すような願いであったなら──それは、ただの祈りでは終わらない。
(魔法とは、意思を力に変える媒体。強い思念は、時空を越えて作用することがある)
(最後のその時、あの男の魂に刻まれた強烈な願望が、“呪い(まじない)”としてケイ様の存在そのものに絡みついた)
(その呪いはきっと、“ヒカルさまが転生したこと”で果たされる形をとった)
若返り、過去に遡るような魂の変容。それはきっと、本人の意思を越えた呪いの結果だ。
(異世界ではケイ様の魔力量が十分にあったから、発動はしなかった。けれど、地球に戻り魔力量が極限まで薄まり、防壁がなくなった今、抑え込まれていたその呪いが発現したのだとすれば……)
(ありえる。十分に)
シグルの口が、繋へと自然に開きかけた。けれど──ヒカルと、菊香と、繋。三人が穏やかに笑い合っている光景が、彼女の言葉を飲み込ませる。
(……いえ。これは、まだ私の胸の内に留めておきましょう)
シグルはその光景を微笑ましく見つめる。
(今、この瞬間、お三方が笑っていられるのなら、それでいいのです)
こんな過酷な世界で育まれ、結ばれた奇跡のような“縁”を。それをわざわざ解く必要はないのだから。今はまだ緩くとも、いずれちゃんと、しっかりと結ばれることをシグルは願う。
(ふう。では、私も気持ちを切り替えましょう)
シグルは目を閉じ、軽く息を吸って吐き、それから声を張る。
「それでは皆様、改めてお集まりいただきありがとうございます」
繋たちはシグルの声に会話を止め、彼女の方へ体を向ける。
「まずは現状の共有と、そしてわたくしからケイ様たちへのご依頼について、お話しさせていただければと思います」
「シグルさん、よろしくお願いします」
その返答を合図に、シグルは理事室に置いてある大きなホワイトボードの前へ繋たちを誘導する。
「まずは、お三方が知りたがっていたこの世界の現状についてです」
──難民キャンプは、確認できているものだけでも日本国内に四つ。西の広島、北の京都、南の奈良、そして東の東京。
──それぞれの拠点では“能力者”がリーダーを務めており、シグルの調査では、西のリーダーは氷の能力者、東は身体強化系の持ち主だという。
──ゾンビ化の原因は、いまだ不明。しかし、発生したタイミングはわかっているとのことだった。四年前に起きた大地震をきっかけに、生物がゾンビ化し始めたということ。
そして最後の説明で、シグルがとんでもないことを口にしたことで、繋が珍しく声を荒げることになった。
「最後に──来年、二回目のゾンビによるスタンピードが起きます」
「待って!」
驚愕した声がシグルの言葉を遮る。繋は蒼褪めた顔で、確かめるようにもう一度尋ねた。
「本当に……本当に、ゾンビのスタンピードが起きるの? それも、この地球で……?」
聞き慣れない単語に、繋とシグル以外の人間は何のことかと首を傾げる。
だが、確実なのは、繋の張り詰めた声だけで誰もがただ事ではないと嫌でもわかるということだった。
そんな中、晴斗は自身の持っている知識をひとつひとつ確かめるように口を開いた。
「その、スタンピードって、SFとかでよく聞く、魔物とかの大暴走のこと? ゾンビの群れによる大暴走……あれ? それって、四年前──感染が広がった直後に起きた……あれ、だったりしますか?」
「ええ、そうですわ。晴斗さんの理解で合っています」
シグルが頷き、さらに説明を続ける。
「この数年の記録を洗い直すうちに、判明したことがあります。ゾンビ化発症直後、非常に規模の大きいゾンビ群が複数都市を襲い、国家の中枢機能を完全に麻痺させたのです。そこから復旧が間に合わず、文明の崩壊が連鎖的に起きました」
「……だからか」
繋は口中でぽつりと呟いた。ずっと心のどこかで抱えていた違和感が、少しずつ解消されていく。情報を収集していても、四年前の発症直後の情報が、いくら探しても見つからなかったのだ。
それは、じわじわと蝕まれた結果などではなかった。
わずか数年で、なぜここまで世界が壊れ果てたのか。
それは、たった一回の、世界を滅ぼすレベルの災害が訪れていたからだ。
「元々は、大型動物の群れが興奮や恐怖で一斉に走り出す現象をスタンピードと呼びますが……異世界にいた私たちの感覚で言えば、魔物や魔獣による大災害という表現のほうが近いでしょうね」
そう説明するシグルに、ヒカルが眉をひそめる。
「待て、そのスタンピードってやつは、そんなにヤバいものなのか?」
ヒカルは実感が湧かない様子で尋ねる。同様に、菊香も夏原も現実味がなかった。
そんな中、晴斗が説明する。
「ゲームとか小説でしか知らないから、本物がどういうレベルかはわからないけど……例えば、ゾンビの群れが津波みたいに押し寄せてきて、防衛が間に合わなければ、街どころか拠点ごと壊滅する。スタンピードって、それくらいヤバい災害って認識です……」
晴斗の説明に、シグルと繋を除く三人は驚きのあまり、声を発せなくなった。
「そうか、シグルさんが僕にお願いしたことって……」
その内容を聞いて、繋は気づく。
「ええ、そうです。二回目のスタンピード対策のために、他の拠点のリーダーたちを仲間として引き入れる。そのために力を貸してほしいのです」
シグルの声は変わらず落ち着いていた。だがその瞳には、静かに燃えるような決意と、深い疲労が滲んでいる。それが、彼女がどれほどのものを失い、それでも立ち続けてきたのかを物語っていた。
そして彼女は続ける。その言葉は、彼女なりの決意を示すように、静かだが芯のある言い方だった。
「我々人類が生き残るために、今こそ思いと力を一つに」
そう宣言した。
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