13-2
私の夫となる人は、私にとってはもったいないくらいに心優しく、私を一番に考えてくれる人だった。
「少し席を外します」
そう言って場から離れようとすると、その人も後を着いてきた。
「疲れてませんか?」
「まだ大丈夫」
「そうですか。会場にいますので、何かあれば仰ってください」
会場の廊下に出たパトリツィアの行き先を悟ってか、ターナーはそう言って微笑んだ。
気が利く分、気苦労も多いと思う。
伯爵となってからは放課後は執務室に篭りきり、事務的な手続きや対応に追われていると伯爵邸の侍女たちから聞いている。
だから彼が卒業したら伯爵夫人として彼を支える道もありかもしれないと考えていた。
「トリシア!」
「え…っ」
お手洗いを出たところに、待っていたように佇んでいたアレクサンドルが両手を広げてやって来る。
そのまま抱きしめられて、パトリツィアは咄嗟に両腕を伸ばして突き放していた。
「やめてっ!」
二人しかいない空間に、その声が響き渡る。シンと静まり返った廊下に重苦しい空気が落ちた。
「何でだよ、いつもしてただろ?」
「…もうやめようと思うの」
「だから何で」
焦るような声に急かされて、パトリツィアは声を振り絞る。
「…私、婚約したの」
私の夫となる彼を、裏切るような真似はしたくない。
ターナーくんを悲しませたくない。
「だからもうこういうことはやめて」
言えた。アレクが結婚した時にも言えなかったことを、ついに。
ずっとそばにいたアレクが、遠ざかっていくのが怖くて、どこかで繋ぎ止めていたいと思う自分がいて。
今まではずっと言えなかった。
…でも、私はもう昔の私じゃない。
「会うのももう、最後にしましょう」
彼に未練など、残っていない。
「…何だよ、本気にしやがって」
「え…?」
初めて聞くような乱暴な口調に、思わずパトリツィアは顔を上げた。
「他の男と結婚しろなんて嘘だよ」
『だが…、トリシアも良い年だ。同級生はほとんど結婚しただろ?
綺麗なトリシアに釣り合う男が見つからないのは分かるが、そろそろ妥協しないと』
ふと学園祭での言葉が思い浮かんだ。
でも、あの時の優しい彼と今の目の前の彼は、全くの別人と言って良いほど雰囲気が異なっていた。
笑顔のない薄情そうな顔付きのアレクサンドルは、やや目くじらを立てて捲し立てた。
「トリシアが好きなのは俺だろ!ずっと俺が好きだったんだろ。それなのに何で他の男に操を立てるんだよ!」
ガシッと肩を掴まれ揺さぶられる。騎士だけあってその力はとても強く骨が軋むのに、あまりにも様子の異なるアレクサンドルに愕然としてそれどころではなかった。
アレクサンドルの顔は冗談を言っているようでもなく、いたって真面目なようだった。
「…何を、言っているの」
分からない。
少なくとも私が見てきた彼は、こんな人じゃなかったのに…。
「未だに結婚しないティンダル公女が忘れられない男として見られるだけで、女は群がるし上司も気を遣うんだから…、少しは俺のこと配慮しろよな」
パトリツィアの表情が凍りつく。
こんな…人を利用して甘い蜜を吸うだけのような人間じゃなかった。
こんな、私のことを貶す人じゃなかった。
…一体、いつから変わってしまったの…?
「まあ誰にでも色目を使うナターシャにも飽きてきたことだし、そろそろトリシアと結婚してあげてもいいけど」
「…奥さんは妊娠中なんでしょ…」
「誰の子どもかも分かりやしないがな」
そう吐き捨てたアレクサンドルに今度こそパトリツィアは声を失った。
二人は表面上こそ愛し合っているように見えていたけど、実際は仮面夫婦だったんだ…。
でも、誰の子か分からないとはいえ、仮にも妻の懐妊中にこんなことを言うなんて…。
「光栄に思えよ。長年好きだった男からのプロポーズだぞ」
アレクサンドルの手がパトリツィアの顎に掛けられ、上を向かされる。
「…勿論受けるよな?」
今まで一度も見たことのなかったその高圧的な態度の勢いに押されて茫然としていたパトリツィアも、正気を取り戻してくると腸が煮えくりかえりそうだった。
この人は、未だに私が自分を好きだと思っていたの?
…なんて、愚かなのかしら。
したり顔のアレクサンドルに一言物申してやろうと口を開いた、その時だった。
「勝手なことを言われては困ります。ペンブルック伯爵令息」
「…ターナーくん…」
会場にいるはずのターナーが、パトリツィアの顎を掴んで離さないアレクサンドルに凄んだ。
…ターナーくんも怒ったりするんだ…。
初めて見る一面に、パトリツィアはそんなことを思っていた。
「彼女は私の妻となる方です。そのような無礼な発言も、品の欠片もない振る舞いも、どうかお控えください」
「…なんだと」
言い返したアレクサンドルの手をターナーはいとも容易く払い除ける。解放されたパトリツィアは後ろに躓きそうになり、ターナーの腕に支えられた。
「…忠告したはずですが」
…ターナーくん、意外と力あるんだ……。
こんな状況だと言うのに、パトリツィアは別のことを考えてばかりでドキドキしていた。
「…貴様、俺は将来ペンブルック伯爵となる高貴な身の上、この国の騎士だぞ。その俺にこんな振る舞いが許されると思っているのか」
「では次期ペンブルック伯爵となるお方が私の婚約者に執拗に迫っていたと、正式にペンブルック伯爵と共和国騎士団本部に抗議すればよろしいですか?」
パトリツィアとの婚約破棄があってから父親と折り合いが悪いアレクサンドルは、「くっ…」と苦虫を噛み潰したような顔をして黙り込んだ。
「っトリシアも何か言えよ。俺たち愛し合ってただろ!?」
それ以上切り札がないかのようにアレクサンドルはパトリツィアに問いただす。
…どうして私に話を振るのかしら。
私に、助け舟を出してもらえるとでも?
「確かにかつては恋をしていた時期もありましたね」
「だろ?聞いたか。トリシアはお前のことなど──」
「でも今は違います」
調子に乗ったアレクサンドルはすぐにターナーに食ってかかったが、パトリツィアは即座に否定した。
パトリツィアはこちらを見つめるターナーに微笑み掛け、ぴったりと寄り添った。
「私が愛しているのはターナー・サンフォード、彼だけです」
「なっ…!」
これ以上話すこともない。
この男ともう一度会ってよく分かった。
私が今好きなのも、妻となるのも、アレクサンドルではない。
「行きましょう、ターナーさん」
「はい」
「っま、待て!」
その言葉にパトリツィアは最後の温情で足を止める。呼び止めることに成功したと思ったアレクサンドルは、冷や汗を掻きながらも気を良くしたようだった。
「そう言わされてるんだろ?本当は俺のことが好きだって分かってる。今なら許してやるから戻ってこい」
「……嫌です」
「っトリシア…!」
怒鳴り声を上げたアレクサンドルを見ても、パトリツィアはついに本性を現したかと冷静だった。
普段の私なら彼の豹変ぶりに怖がっていたかもしれない。
でも今は…ターナーくんが隣にいてくれるから。
「貴方…先ほどからそのような口調で私に話しかけるなんて…この私を誰だと思ってるのです?」
バルティーナの薔薇。誇り高き公爵令嬢。
そうして築いてきた今の地位は、私が自分で成し得たもの。
「私より身分の低い伯爵令息の貴方が、公爵令嬢の私に先に話し掛け、あまつさえそのような怒号を上げるなど、言語道断です。一からマナーを学び直しては?」
「っ何を…!」
「それと、配慮がないのは貴方の方です。レディのお手洗いの前で待つなんて無礼を犯して、恥ずかしくはないんですの?
それともその空っぽの頭には羞恥という言葉さえ入っていないのかしら?」
それまでパトリツィアが返ってくると期待していたアレクサンドルは、眉間に皺を作り口を尖らせていたが、だんだんと額に青筋が浮かんだ。
「…トリシア、許してやるなら今だぞ」
「この私を愛称で呼ばないでください。貴方のように身分や地位を振りかざすばかりで中身のない間抜けを夫にするくらいなら、死んだ方がマシですわ」
悪役令嬢さながらの嘲笑を見せたパトリツィアに、アレクサンドルは顔を真っ赤にさせて怒っていた。
ふと上からターナーの視線を感じて、パトリツィアは表情を戻しごほんと咳払いをする。
「この事は私からもペンブルック伯爵に抗議させていただきますから」
そう言って二人はその場を立ち去った。
…嫌われてないわよね?
さっきの私、とても嫌な感じになっていたけど…。
「…先ほどの…」
「はい!?」
触れられたくない話題にさっそく触れられ、パトリツィアは大袈裟に反応した。
「…本当、でしょうか」
戸惑った声のターナーを見上げ、パトリツィアは固まってしまった。
ターナーの耳が赤くなっていたからだった。
「………その…どのお話でしょう?」
「……俺を、愛しているという…」
『私が愛しているのはターナー・サンフォード、彼だけです』
「…あ………」
勢い任せに言ったとはいえ、それは紛れもない本音。それを本人に聞かれていたと思い出し、パトリツィアも顔を赤らめた。
「…その…」
「…すみません。先走ってしまいました。
これではフェアじゃないですね」
ターナーに回り込まれ道を塞がれたパトリツィアは立ち止まる。
パトリツィアの両手を取ったターナーを驚いて見上げると、ターナーは真摯な眼差しでこちらを見つめていた。
「…パトリツィアさんのことを愛しています」
その言葉を聞いた瞬間、パトリツィアはもうターナーしか見えなくなっていた。
繋がれた手から温かな体温が伝わる。その温もりをいつまでも離したくないと、パトリツィアも手を握り返した。
「…私も、ターナーくんを…愛しています」
パトリツィアの返事に、ターナーは赤面しながら恥ずかしそうに微笑んだ。
不意打ちのその表情に、パトリツィアの心臓が速まっていく。
「…なんだか結婚式の誓いみたいじゃない」
「…確かにそうですね」
そんなことを言いながら笑い合う二人を、背後から付け狙う人影がいた。
「あいつら…絶対許さねえ…!」
作者「お呼びでないで…」




