12-2
痛む腰をぐりぐりと後ろ手で押しながら自身の体を誤魔化す。あれから毎日のようにデリックに求められるようになり、エリシアは全身筋肉痛の日々が続いていた。
しかしデリックは機嫌が良くなるようで、広量になったと先生たちからも喜ばれていた。
「…エストランテもしばらく不安定になりそうね…」
王太子ベンジャミンから届いた手紙を読んでいたエリシアの顔がだんだんと曇っていく。そこには悪化する国内情勢が長々と書かれていた。
「国王陛下はどのように捕らえているのでしょう?」
「あ、カエルにされたんでしたっけ?えーっと…生き物用の小さな籠に閉じ込めたようですよ」
素朴な疑問を聞きながら、ターナーの頭の中にはゲコゲコとあの鳴き声が聞こえていた。
国王を蛙にした張本人は相変わらずエリシアの膝枕で眠りこけっていた。
「…え…」
「…?」
突然衝撃を受けたように声を上げたエリシアが、「そんないきなり…」と呟いた。
「どうしたの?」
「国王陛下に代わり王太子殿下が王国を統制するようになり、貴族たちの間で分断が起こってるみたいです。それで国内情勢が安定しないから、魔法学園に留学している生徒たちのご両親たちが留学を中断して子息子女の帰国を促しているようで…」
突然の事態に頭が追い付いていかない。ふとカシアの泣き顔が頭を過った。
「この手紙が着く頃には即日帰国する事になっているでしょう、って…」
「…そんな…、いきなりですか?」
「…それほど、向こうは切迫しているという事でしょう。反乱が起きないよう各国との関門の取り締まりを厳しくするそうですから、手紙のやり取りも遅くなるかもしれませんね」
「即時帰国…?」
立ち上がったギルバートに二人の視線が向く。
「…ギルバート…?」
「…ちょっと、行ってくる」
「え、どこに──」
ターナーに返事をする間も無くその場で移動したギルバートに、ターナーもデリックも頭の上に疑問符が浮かんだ。
「…どこ行くんだ…?」
エリシアだけはカシアのことを思い出し、もしかして…!と期待するのだった。
♢♢♢
「…そんな……」
自室にいたカシアは手が震えるほど手紙を握り締めた。
そこには、荷物は後で回収するから本日すぐさま帰国するよう記されていた。
今帰国すれば、もうギルバート先輩との縁はなくなってしまう。
もしかすると、もう二度と会えないかもしれない。
「カシア、いるわよね?」
アリスが強めに扉をノックする。カシアは弾かれたように走り出し、扉を開いたその勢いのままアリスに抱きついていた。
「アリス、嬢っ…」
「……カシア……」
涙声のカシアをアリスはそっと抱きしめ、後ろ手に部屋の扉を閉ざした。
「どうしましょう。ギルバート先輩と…会えなくなってしまいます…っ…」
アリスが優しい手つきで頭を撫でる。カシアの中で様々な感情が交差した。
私だけ戻らなければお父様とお母様が心配されるわ。
でも、ギルバート先輩と離れ離れなんて、近頃会えていない今でも耐えられないのに…。
「…今しかないんじゃない」
「…はい…?」
乱暴に涙を拭いながら、カシアはどうにかアリスを見上げた。
「告白するのよ!」
「えっ…、む、無理ですう…!」
カシアは余計に泣き崩れてしまい、アリスは「ダメだこりゃ…」と溜息を吐く。
「もう二度と会えなくても良いの!?」
「そ、それは…嫌ですけれど…」
交換留学生を送り合っているからといって、双方の国民が行き来するほど親しいわけではない。隣国だから国交が絶えない程度の関わりを持っているだけ。
貴族社会を重んじないバルティーナの国民性を軽んじるエストランテの貴族は多く、またエストランテの堅苦しい身分社会を煩わしく思うバルティーナの国民もまた、わざわざエストランテを訪れようとはしなかった。
「じゃあチャンスは今しかないじゃない!」
「…わ、私は、ギルバート先輩に振り向いてほしいとか、そういうのではないんです…」
「好きなんでしょ?」
「影から見つめられれば、それで…」
「じゃあなんで学園祭でフォークダンスに誘ったのよ」
カシアは言葉が出てこなかった。
「何でギルバート先輩が女の人といるといつも悲しそうにしてるの」
「…っ…それは………」
私だけのお方になってほしいだなんて、そんなことおこがましいと思っていた。
ギルバート先輩は女性に人気で、廊下を歩くだけで色んな女子生徒に挨拶をされて。私とは正反対で陽気で社交的、人望にも溢れていていつも話題の中心にいるようなお方。
だから、私なんか…。
「釣り合わないですもの…」
「……それはカシアの意見でしょ。そうやっていつまでもうじうじして人の目ばっかり気にするつもり?」
アリスの言葉が次々と胸に刺さって、何の感情かも分からない涙が止めどなく流れる。
「例え振られたってもう二度と会うことはないんだから。後悔のないようにしなきゃ」
「………っ…はい…っ」
ようやく頷いたカシアにアリスも嬉しげに微笑んだ。
「皆んなにも手紙は届いてて、今夜日暮れ前には出発する予定だから。行くなら今だよ」
「…わ、私、行きます…!」
顔を上げたカシアにアリスも頷く。カシアは着の身着のまま部屋を飛び出し…。
「っへぷっ」
「おっ…と」
誰かの腕の中に飛び込んでいた。
「す、すみません…!」
慌てて離れようとすると背中に回った腕に抱き止められる。
「…いつもそそっかしいのな」
その人の力強さに驚きながら徐々に顔を上げていき、カシアは更に驚愕した。
「…え…!?」
カシアを抱きしめていたのは、涙でぐしゃぐしゃのカシアを見て愉快そうに笑うギルバートだった。
「…今、少し良いか」
「は、はい…!」
返事をした途端、視界が変わってホテルの庭園にいた。遠くから噴水の水音が聞こえる奥まった人気のないベンチに二人で腰掛ける。
「……エストランテに帰るらしいな」
「どうしてそれを…」
「王太子殿下と連絡を取っていたエリシアちゃんに聞いたんだよ」
隣から聞こえるその声の近さに、心臓がバクバクしていた。ベンチに置かれたギルバートの手がすぐ隣にある。少しでも動けば、手が触れてしまいそうな距離。
それが、カシアにとってどれほど幸せなことか。
隣り合わせのベンチで良かったわ。向かい合わせだったらまともに顔を見れなかったもの…。
「…さよならだな」
その小さな呟きを聞いた瞬間、カシアの中で両親のために帰国するという決意が揺れていた。
「…わ、私………、………帰りたくないです」
喉が焼けるように熱い。
じわりじわりと涙が浮かんで、俯くとぽたりと膝の上の手に落ちた。
「…ご両親が心配してるから手紙を寄越したんだろ」
「………でもっ、私…」
わざと突き放すようなその口調が、余計にカシアを苦しめる。けれど溢れる思いはどうしたって止まらなくて、カシアは両手を強く握り締めた。
「……っ好きなんです…。ギルバート先輩のことが……っ」
…言ってしまった。
もう、今更後には戻れない。
「………」
目を固く閉じてギルバートの返事を待ってみるものの、口を開いた気配があるのに何も聞こえてこない。
「……正直、カシア嬢に感じていたのは…同情だった」
ドクン、ドクンと心臓がそれ以上を拒むように耳元にまで音を響かせている。
「知り合いで失恋した人が引きずって泣いている姿を見ていたから…、そうはさせたくなかった。
だけどそれは俺の傲慢さに過ぎない。こうしてカシア嬢を余計に苦しめてしまった」
…やっぱり…。万が一にも、ギルバート先輩が私のことを…なんて、あるはずがないわ。
今度は振られた悲しみの涙が湧いて出る。
「ちょうど良い機会だと思う。…互いを忘れるための」
そうはっきりと告げられ、もうギルバートの顔を見上げることはできなかった。
…そういうことなのだわ。
「…っゔ……ふうっ…」
ギルバート先輩は、私が傷付かないように遠回しに断ってくださっている。
こんな素敵な方にご迷惑をお掛けしたくない。
「っひっく…ゔゔ…」
…諦めよう。
今度こそ、忘れよう───。
そう決め込んだら、カシアはもう我慢できず声を上げて泣いていた。
みっともないと分かっていながら、伯爵家の恥だと分かっていながら、それでも溢れる思いが涙に変わって止まらなかった。
ギルバートはカシアに手を伸ばしかけたが、逡巡した末に手を引いていく。
慰めることもできないまま、けれどカシアが泣き止むまでそばに居続けた。




