世界を救った翌朝の後始末
月桂冠が落ちた。
からん。
大広間に、妙にはっきり響いた。
レオンは聖剣を掲げたまま、固まっていた。
頭は丸い。
手には本物の聖剣。
腰には光るモップ。
目の前には国王。
入口にはドラゴン。
その後ろには、扇を広げた女侯爵。
「拾え!」
ユージンが叫んだ。
「何を!」
「冠だ!」
「手がない!」
レオンは片手で聖剣を掲げ、もう片方の手で保管箱を押さえていた。
セシルは祝福を維持している。
ガルドは契約文字を殴っている。
ユージンは封印術式を押さえている。
誰も冠を拾えない。
国王が、静かに一歩動いた。
大広間が固まる。
王は自ら床に落ちた月桂冠を拾った。
そして、レオンの坊主頭にもう一度載せた。
「続けよ」
その一言で、全員が動き出した。
「続けていいのかよ!」
ガルドが叫んだ。
「陛下が続けろと言った!」
ユージンが叫ぶ。
「じゃあ続けろ!」
セシルの祝福が、聖剣へ流れ込む。
白い光が広がった。
黒い契約文字が焼ける。
だが、まだ一束だけ残っていた。
それは聖剣ではなく、腰のモップへ絡みついた。
「モップに来た!」
レオンが叫ぶ。
「捨てろ!」
ガルドが叫ぶ。
「捨てるな!」
ユージンがさらに叫ぶ。
「どっちだ!」
「捨てたら最後の偽装が暴走する!」
「もう暴走してる!」
「だから捨てるな!」
モップが青白く光った。
本物の聖剣と、聖剣のフリをしたモップ。
二つの光が重なり、大広間の天井に巨大な紋章を作る。
老神官が目を見開いた。
「これは……聖剣の副認証?」
ユージンが叫んだ。
「違う! モップだ!」
「モップで副認証が走っています!」
「だから違うって言ってるだろ!」
「走っているものは走っています!」
レオンは聖剣を握りしめた。
「どうすればいい!」
「本物を上に! 偽物を下に!」
ユージンが叫ぶ。
「言い方!」
ガルドが叫んだ。
「意味は分かるだろ!」
レオンは聖剣を高く掲げ、腰のモップを足で押さえた。
勇者が、聖剣を掲げながらモップを踏んでいる。
大広間の誰もが見ていた。
誰も理解していなかった。
国王だけが、眉ひとつ動かさなかった。
セシルが祈る。
「聖なる剣よ、本来の主へ。偽りの形ではなく、真の名へ」
聖印が光った。
欠けた部分が、ぱきりとさらに割れた。
「セシル!」
「まだです!」
セシルは祈りを止めなかった。
「ここで止めたら、全部戻ります!」
ガルドが契約文字の最後の束へ飛び込んだ。
女性騎士の礼装が翻る。
拳が黒い文字を砕く。
「俺の仲間を、担保にすんなぁ!」
大広間がどよめいた。
「姫騎士が叫んだぞ」
「声が太い」
「でも強い」
イレーネがうっとりと扇を握った。
「素敵」
「言うな!」
ガルドが叫んだ。
その声に反応して、グラニスが入口で頭を低くした。
金色の目がガルドを見る。
尻尾が揺れる。
扉の柱が砕けた。
「竜を止めてください!」
老神官が叫んだ。
「誰が!」
レオンが叫ぶ。
セシルは祝福中。
ユージンは封印中。
ガルドは契約文字と婚約者で手一杯。
その時、イレーネが一歩前へ出た。
「グラニス」
女侯爵は、優雅に竜の鼻先へ扇を向けた。
「待ちなさい。今、あなたの方を見ている場合ではなくてよ」
グラニスが止まった。
全員が止まった。
ガルドが呆然と言う。
「止まった……」
イレーネは微笑んだ。
「大きな獣は、目を見て言えば通じるものですわ」
セシルが小さく言った。
「この人、本当に強いですね」
「敵に回したくねぇ」
ガルドが言った。
「もう半分回ってます」
「やめろ!」
ユージンが叫ぶ。
「今だ、レオン! 聖剣を祭壇に!」
レオンは聖剣を振り下ろした。
白い刃が、祭壇の台座に触れる。
光が走る。
黒い契約文字が弾け飛ぶ。
モップの青い光が、聖剣の白い光に吸い込まれる。
そして。
ぱきん。
モップの柄が、真ん中から折れた。
「あ」
レオンが言った。
「折れた」
ガルドが言った。
「折れましたね」
セシルが言った。
ユージンが目を閉じた。
「最後まで、よく働いた」
大広間に、白い光が満ちた。
老神官の声が響く。
「再認証、完了!」
歓声が爆発した。
本物の聖剣は、レオンの手に戻った。
王国の祭壇で、正式に勇者の剣として認められた。
担保契約の黒い文字は消えた。
モップは折れた。
月桂冠は、なぜかまだ坊主頭に載っていた。
国王が、深く頷いた。
「勇者レオン。よくぞ聖剣を掲げた」
レオンはまっすぐ立った。
「ありがたき幸せ」
声は震えなかった。
ただし頭は光っていた。
ガルドが横で小さく震えている。
笑っている。
レオンは低く言った。
「笑うな」
「笑ってねぇ」
「肩が揺れている」
「感動だ」
「嘘をつくな」
その時、イレーネが近づいてきた。
ガルドが一歩下がる。
グラニスも一歩前に出る。
大広間がまたざわつく。
イレーネはガルドの前で止まった。
「見つけたわ」
「人違いだ」
ガルドは即答した。
指輪が赤く光った。
イレーネは扇で口元を隠す。
「指輪は正直ね」
「この指輪が勝手に!」
「あなたも昨夜、ずいぶん勝手でしたわ」
「それは……すまん」
イレーネの目が少しだけ細くなった。
「謝れるのね」
「俺を何だと思ってる」
「野生の姫君」
「やめろ!」
大広間がざわめいた。
「野生の姫君?」
「どなたのことだ?」
「まさか、あの姫騎士が?」
ガルドの顔が死んだ。
レオンは少しだけ横を向いた。
笑ってはいない。
少しだけ。
セシルが前に出た。
「イレーネ様。その誓約については、後ほど正式に確認させてください。昨夜のガルドさんは変身魔法下で、酩酊状態で、偽名を忘れ、逃げるために不適切な発言をしました」
「言い方!」
ガルドが叫んだ。
「事実です」
「事実がひどい!」
イレーネは楽しそうに笑った。
「構わないわ。完全な婚姻契約ではないもの」
ガルドの顔が明るくなる。
「じゃあ」
「婚約誓約です」
ガルドの顔が死んだ。
「残るのか」
「残りますわ」
指輪がきらりと光った。
イレーネは言った。
「ただし、今日すぐ連れて帰るのはやめてあげる。あなた、とても忙しそうだもの」
「助かった……のか?」
「表彰式の後で、お茶を」
「助かってねぇ!」
グラニスが低く鳴いた。
イレーネは竜を見上げる。
「あなたも来る?」
「誘うな!」
ガルドが叫んだ。
グラニスは、なぜか嬉しそうに尻尾を揺らした。
柱が一本折れた。
老神官が顔を押さえた。
「王城が……」
国王は静かに言った。
「修繕費は王国が持とう」
レオンは即座に頭を下げた。
「申し訳ありません!」
「世界を救った報酬から引いておく」
「はい」
ガルドが小声で言った。
「報酬、残るか?」
ユージンが答えた。
「ドラゴンの宿代と王城修繕費と花壇代で消える」
「現実やめろ」
「現実は来る」
セシルの身体が、ふらりと揺れた。
レオンが支える。
「セシル!」
「大丈夫です」
「それは禁止だ」
「……少し、大丈夫ではありません」
「よし」
「よしではありません」
セシルは欠けた聖印を見た。
限界だった。
けれど、壊れきってはいない。
レオンは聖剣を下ろし、静かに言った。
「ありがとう」
セシルは疲れた顔で微笑んだ。
「謝罪と説教は後です」
「分かっている」
「逃げないでください」
「逃げない」
ガルドが小声で言った。
「俺は逃げたい」
「あなたは別件で逃げないでください」
「逃げたい理由が多すぎる」
ユージンが壁にもたれた。
「終わったな」
その声は、少しだけ力が抜けていた。
レオンはユージンを見た。
「お前もありがとう」
「やめろ」
「聖剣を取り戻したのはお前だ」
「お前が質に入れなきゃ必要なかった」
「それは本当にすまない」
「二度とするな」
「しない」
「賭けもするな」
「しない」
「ドラゴンも買うな」
レオンはガルドを見た。
ガルドは目を逸らした。
「俺を見るな」
「買うな」
「分かってる」
グラニスが、入口で小さく鳴いた。
ガルドは少しだけ困った顔をした。
「……たぶん」
「たぶんじゃない!」
式は、どうにか終わった。
本当に、どうにか。
聖剣は戻った。
世界を救った功績は讃えられた。
国王は、見てはいけないものをいくつも見なかったことにした。
貴族たちは、見たものをそれぞれ都合よく解釈した。
「勇者様は、魔王討伐の誓いとして髪を捧げたらしい」
「女性騎士は、戦士ガルド様の代理らしい」
「いや、あれがガルド様らしい」
「では、ガルド様は姫騎士なのか?」
「竜は王国の新しい守護獣では?」
「モップは?」
「聖遺物では?」
最後の噂だけは、ユージンが全力で否定した。
「ただのモップだ」
声が怖かったので、そこだけ広まらなかった。
式の後、四人は王城の控え室に押し込まれた。
レオンは月桂冠を外し、改めてカツラを被った。
だが、固定具が壊れていた。
「ずれる」
「もうずれてもいいだろ」
ガルドが言った。
「よくない」
「全員見たぞ」
「言うな」
ガルドは女性騎士の礼装のまま椅子に沈んでいる。
左手の指輪は消えていない。
赤い光は弱くなったが、残っている。
「これ、本当に外れねぇのか」
セシルは聖印を確認しながら言った。
「正式な解除には、イレーネ様本人との話し合いが必要です」
「決闘じゃ駄目か」
「駄目です」
「逃走は」
「追われます」
「死んだふりは」
「竜が心配して暴れます」
ガルドは頭を抱えた。
「詰んでる」
ユージンは床に座り込んでいた。
もう立つ気がなさそうだった。
「変身は」
ガルドが聞いた。
「戻せ」
「魔力が戻ったらな」
「いつ」
「寝た後」
「今寝ろ」
「俺が寝たら、お前を戻す前に正午が終わる」
「もう終わっただろ!」
「俺の中ではまだ朝の後始末が終わってない」
セシルが静かに言った。
「私の説教もあります」
三人が同時に黙った。
レオン。
ガルド。
ユージン。
セシルは微笑んだ。
「昨夜から今朝にかけて、誰が何をしたか。順番に確認しましょう」
「今?」
ガルドが震えた。
「今です」
「俺、婚約の件で心が」
「それも含めます」
「終わった」
レオンは聖剣を見た。
本物の聖剣。
戻ってきた。
もう二度と手放したくない重みだった。
「ユージン」
「何だ」
「モップは」
控え室の隅に、折れたモップが置かれていた。
柄は真ん中から割れ、布は焦げ、もう聖剣には見えない。
ユージンはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「処分しろ」
「記念に残すか?」
「やめろ」
「でも、助けられた」
「モップに感謝するな」
「でも」
ユージンは深く息を吐いた。
「……倉庫に返せ。絶対に祭壇に置くな」
「分かった」
ガルドが言った。
「聖遺物モップとして祀られたら面白ぇけどな」
「やめろ!」
ユージンが本気で叫んだ。
その時、控え室の扉が叩かれた。
全員が固まる。
「誰だ」
レオンが聞いた。
扉の向こうから、優雅な声がした。
「イレーネですわ」
ガルドが椅子から立ち上がった。
「窓!」
「逃げるな」
レオンが止める。
「窓から!」
「王城の控え室です」
セシルが言った。
「飛び降りたら死にます」
「竜に受け止めてもらう」
「竜を巻き込まないでください」
扉の外で、イレーネが笑った。
「お茶の約束をしに来ただけですのに」
「約束してない!」
指輪が光った。
「光るな!」
イレーネは楽しそうだった。
「では、約束はこれから」
ガルドはレオンを見た。
「助けろ」
レオンは少し考えた。
「世界は救った」
「俺も救え!」
ユージンが床から言った。
「それは次回だな」
「次回にするな!」
セシルは扉へ向かった。
「イレーネ様。ガルドさんは現在、変身魔法の影響下で、精神的にも大変混乱しています。今日のところは、正式な話し合いの日程だけでお願いします」
「よろしいですわ」
あっさりだった。
ガルドが目を見開く。
「え、いいのか」
扉の向こうのイレーネは言った。
「追う楽しみは、長い方が面白いですもの」
ガルドは椅子に崩れ落ちた。
「終わってねぇ……」
レオンは思わず笑った。
ガルドが睨む。
「笑うな」
「少し」
「正直か」
その後、グラニスは王城の前庭に移された。
移された、というより、動かなかったので前庭が竜の仮置き場になった。
国王はそれを見て言った。
「王国守護竜、ということにしておこう」
ユージンが頭を抱えた。
「ことにするな」
だが、民衆は沸いた。
勇者が魔王を倒し、聖剣を掲げ、竜まで従えて帰ってきた。
細部は誰も知らない。
知っていたら、たぶん泣く。
夕方。
ようやく宿に戻った四人は、食堂の奥の席に座っていた。
いや、座らされていた。
セシルの説教が始まるからだ。
レオンの髪は戻っていない。
カツラは外した。
頭が涼しい。
ガルドはまだ美少女だった。
礼装は脱いだが、姿は戻っていない。
指輪も残っている。
ユージンは寝かけていたが、セシルに起こされた。
「寝る前に説明してください」
「寝てから説明する」
「寝たら逃げるでしょう」
「逃げる気力もない」
「では今」
グラニスは中庭で丸くなっている。
今度はシーツではなく、肉を食べていた。
宿の支配人は、泣きながら請求書を書いていた。
レオンは聖剣を膝の上に置いた。
もう手放さない。
絶対に。
「では」
セシルが微笑んだ。
「まず、昨夜一人で裏カジノへ行ったレオンから」
レオンは背筋を伸ばした。
「はい」
「次に、ドラゴンを欲しがったガルドさん」
「はい」
「次に、説明不足のまま全員を動かしたユージンさん」
「俺もか」
「当然です」
「はい」
セシルは欠けた聖印を机に置いた。
「私は、修理費を請求します」
三人は同時に頷いた。
「はい」
「それから、二度と魔王討伐直後に酒場へ行かないこと」
「はい」
「裏カジノへ行かないこと」
「はい」
「聖剣を担保にしないこと」
「はい」
「ドラゴンを買わないこと」
ガルドが少しだけ黙った。
セシルが見た。
「ガルドさん」
「はい」
「買わないこと」
「はい」
グラニスが中庭で低く鳴いた。
ガルドは小声で言った。
「でも、もういるしな」
セシルが微笑んだ。
「説教を一時間追加します」
「はい」
レオンは窓の外を見た。
夜が近づいていた。
世界は救われた。
聖剣も戻った。
ユージンも戻った。
セシルは倒れずに済んだ。
ガルドは、まだ戻っていない。
指輪も残った。
ドラゴンも残った。
レオンの髪も、戻らなかった。
全部元通りにはならなかった。
けれど、四人はここにいる。
聖剣もここにある。
それで、今は十分だった。
中庭から、ぐしゃり、と何かが壊れる音がした。
支配人の悲鳴。
グラニスの満足そうな鼻息。
ガルドが顔を上げた。
「今の、何だ」
ユージンが目を閉じたまま言った。
「聞くな」
セシルが立ち上がる。
「確認します」
レオンも聖剣を持って立った。
「俺も行く」
ガルドも立ち上がる。
「俺も」
ユージンは机に突っ伏したまま言った。
「俺は寝る」
セシルが言った。
「ユージンさん」
「……行く」
四人は食堂を出た。
世界を救った翌朝は、まだ終わっていなかった。
そして、たぶん明日も何かが起こる。
レオンは聖剣を握り直し、深く息を吐いた。
「今度は、絶対に質に入れない」
ガルドが言った。
「俺も、絶対に婚約しない」
ユージンが言った。
「絶対という言葉を軽く使うな」
セシルが言った。
「では、まず中庭です」
中庭では、グラニスが折れたモップをくわえていた。
全員が固まった。
ユージンが低く言った。
「それは捨てろ」
グラニスは、楽しそうに尻尾を振った。
レオンは頭を押さえた。
ガルドは笑った。
セシルは祈った。
ユージンは本気で怒った。
世界を救った勇者一行の、後始末は続く。
完




