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第一話<目覚め>

 ぴこん、ぴこん、という電子音が響き渡る。

 機械音は一定間隔で鳴り続けていた。無機質なその音は、まるで全ての生気を吸い取ってしまうかのような不気味さを内包していた。

 目の前に広がっていたのは病的なまでに白い部屋。清潔感があると言えば聞こえはいいが、生物が住むにはあまりにも綺麗すぎる。

 ふと周りから歓声が聞こえた。何が起きたのかと体を起こそうとしたが、うまくいかない。体全体が鉛になったように重い。

 首だけは動かすことが出来たので、ゆっくりと周りを見回す。

 僕はベッドに寝ていた。腕からは何本も管が伸び、それら一本一本が巨大な機械へと繋がっていた。視界の下半分は、口に取り付けられた呼吸器らしきもので覆い隠されている。

 そして次に見えたのは、見知った三人の顔であった。父、母、弟。見間違いようがない。

 父はしばらくあわあわとしていたが、突然しゃきっと立って部屋を飛び出してしまった。母の顔はくしゃくしゃに歪んでいる。涙で化粧が流れ落ち、いくつもの黒い縦筋が出来ていたが、彼女は一向に気にしていない様子であった。弟は表情こそ冷静を装っていたものの、名前を呼ぶ声がどこか上ずっている。

 ドアが勢い良く開き、父とともに白衣を身にまとった医者らしき人物が部屋に入ってきた。


「薫くん、分かるかい?」


 安心感のある懐っこい笑顔で医者は僕に問いかける。

 すぐさま返事をしようとしたが、声が出ない。僕は気が動転して口をぱくぱくとさせた。


「分かるなら、首を振ってくれるかな?」


 言われるがままに首を振る。母はわっと泣き出して、僕の手を握ってきた。

 手を通じて母の体温が伝わってきて、それを起点にし、体中が暖かくなっていくような感覚がした。生きている。僕はまだ、生きていたんだ。

 気のせいかもしれないが、首も先ほどより大きく動かすことが出来る気がした。

 首を回し真横を見る。ベッド脇の机の上にお見舞いの花が置いてあった。

 プレートには『江洲薫くん、早く元気になってください』と書かれている。ありきたりなメッセージで、しかも手書きでなく印字されたカクカクとした角のある文字だ。

 大学か高校の友だちか。恐らく皆で持ち寄ってくれたのだろう。花の数から考えると、大学のサークル友達かもしれない。高校の友人はほとんどが外の大学に行ってしまったから。


「先生、息子はもう大丈夫なんでしょうか?」

「ええ。目を覚ましてくれればもう問題ないと思われます。ただ、事故と手術の後遺症がどうなるか」


 僕などそっちのけで会話が繰り広げられていた。

 自分が事故に遭ったことを再認識する。思い出そうとしたが、頭に鈍痛が走り上手く思い出せない。ぼんやりとは覚えている。無理に思い出さないほうがいいだろう。そもそも詳しく思い出す必要がない。

 だが、何か重要な記憶が欠落しているような気がした。事故の影響だろう。軽い喪失感。


「従来の外科的な処置だけでは非常に厳しい状況でした。なので、自己治癒力を高めるために遺伝子操作を施してあります」

「それほどひどかったということでしょうか」

「ええ、まあ――しかし、今回のゲノム編集の位置に関しては科学的に安全が保証されており、もし必要でしたら以前の配列に戻すことも――」


 僕はその説明を聞きながら、ちんぷんかんぷんであった。

 理学部に入学したので、ゲノム等に関するある程度の知識はあった。それにも関わらず、だ。

 ゲノム編集については分かる。ゲノムとは遺伝情報のこと。遺伝子は人間の設計図のようなものであり、四つの記号、A・T・G・Cで記述されている。その記号の組み合わせによって様々な機能をもったタンパク質が生み出され、生体内で働いている。ゲノム編集によって遺伝子を操作すれば、その機能が変わってしまうのだ。

 しかし、僕が理解できなかったのはもっと根本的な部分であった。

 生きている人間の遺伝子操作する?

 少なくとも僕が記憶している限りそんなことはありえない。マウス等の遺伝子を操作することはあるが。

 僕が事故に遭うちょっと前にニュース番組で見たことがある。どこかの国がヒトの遺伝子を操作した子どもを造ろうとして、倫理的に問題になったことを。

 遺伝子操作とはそれだけナイーブに取り扱うべき技術なのだ。一般の病院でそんなことが行われれば国際的な問題になるだろう。

 それを――僕の聞き間違いでなければ――やってのけたというのだ。

 目玉が飛び出しそうであった。


「あ……の」


 振り絞ったような声しか上がらなかった。しかし、目覚めたばかりとは違い少しは体に力を入れることができる。僕は全神経を喉へ集中させる。

 僕が声をあげたことに医師は驚いていた。


「もう喋ることができるのか。いや、薫くんには驚かされます」

「薫、薫。無理しなくてもいいのよ。母さん、ゆっくり待ってあげるから」

「え――と」

「すごいですよ、お母さん。この怪我だと、一ヶ月は目覚めることすらないと思っていたのに。二週間でもう喋れるだなんて」


 医師は興奮気味にまくし立てる。


「これは、すごいことかもしれません」

「薫は、他の人と何か違うのでしょうか?」

「いえ、至って一般的です。遺伝子操作前に調査させていただいたゲノムシーケンスの解析結果では、健常者との差はほとんど見られないというデータが出ています。それなのに、こんな回復力を」

「あの――」僕は医師の言葉を遮る。

「ああ、ごめんなさい。薫くん、続けて下さい」

「――遺伝子、操作、って」

「遺伝子操作というのは遺伝子にちょっと細工をほどこしてやることですよ。心配はいりません。今回の改変位置は十年前に安全性が確保されています」

「薫は理学部、それも生物系の専攻なので、その辺りのことは知っていると思います」

「それは失礼いたしました。早とちりしてしまって」


 少しずつ声帯を動かすことに慣れてきた。


「遺伝子操作、って、僕の体、に?」

「もちろん、そうです。それ以外に何があるというんですか?」

「でも、遺伝子操作は、倫理的な、問題が」

「どういうことでしょう」

「後世に、その――予期しない、影響が」

「その問題については、もう五十年前に議論が終わっていますよ。ご存知でしょう?」

「先生、薫はまだ意識がはっきりしていないんだわ」

「いえ、そうとは限りません――」


 医師は顎に手を当てて考えていた。

 しばらく眉間にしわを寄せていたが、はっとした顔で母を見た。


「もしかするとこれは後遺症かもしれない。少し質問させていただいてもよろしいですか?」

「ええ」と母は応える。


 医師は険しい表情で僕に向き直った。


「薫くん、君は理学部の、それも生物系を専攻している」


 僕はゆっくりと頷く。勝手に許可を取られたことには少し腹立ったが、それとこれは関係ない。


「遺伝子操作とは何なのかを知っている」


 再び頷く。当然だ。


「遺伝子操作が人間に適用され、治療に応用されはじめてもう五十年の歴史があるということも知っている」


 首を横にふる。

 答は、ノーだ。そんな話は聞いたことがない。

 医師は窓の外に視線を移す。遠い目をしている。


「お母さん、ご家族の皆さん、そして、薫くん」


 神妙な面持ちで医師は口を開く。死刑宣告を下す直前の裁判官のような、厳かで、その場の空気を凍りつかせる低い声。


「これは一種の社会同調型逆行性健忘だと思われます」

「……社会同調型逆行性健忘? どういうことでしょうか、先生」

「一般的な逆行性健忘は、かつての記憶を忘れてしまうことを指しますが、薫くんの場合は少し異なっています」


 医師は手を後ろで組んで、窓の方に歩いて行く。


「薫くんは、社会的な背景に関する記憶を失っています。いえ――失ってはいない。何かの要因で、昔の、しかも彼が生まれる前の社会背景で、記憶が塗り替えられてしまっているんです」

「そんなことあるわけが」

「あるのです。症例は少ないですが、過去にも起きた患者はいます。理由は未だに不明ですが。事故によるものか、それとも遺伝子操作によるものか、検査する必要もあるでしょう」

「治る見込みは」

「資料を漁ってみないことには。少なくとも、私の記憶ではゼロです。これは症例が少ないことにも関連していますが」

「具体的に、どんな問題が」無言であった父が声を発した。

「もちろん、一般的な社会常識がある程度欠けた状態になってしまいます。少なくとも、ここ五十年で起きた技術革新のことは知らないでしょう。自分の経験に関わる記憶が消えてしまっているかについては、再検査をした方がいいでしょう」

「命に関わらないのでしょうか?」

「ないです。ないのですが――今までの症例では、社会とのギャップを感じて精神を病んでしまうパターンが多いんです。治療の方法を探ろうにも、あまりに症例が少ない。共同出資による治療費分割は厳しいでしょう」


 母をはじめ、家族はあんぐりと口を開けていた。

 それに比べて、僕はなんとも感じていなかった。

 記憶が消えてしまうならまだしも、知識が昔の知識で塗り替えられているだけで日常生活に困ることはなさそうだったからだ。知識はおいおい身につけていけば良い。

 何がそんなに心配なのだろう?

 僕にとっては、僕が知っていることだけが紛れも無い事実であり、真実だ。それ以外は僕が観測しない限り嘘だと言っても過言ではない。

 僕は生きてるし、みんなのことだって忘れてない。それで十分じゃないか。それ以上何を望むというのか。


「何を、心配、している、の?」


 じめじめとした悲壮感の漂うこの空気が嫌だった。

 無理に喋ったからか、やけに体が疲れていた。声を振り絞る。

 母は僕の手を握ってくしゃくしゃの顔で笑ってみせた。


「いいのよ、何も心配しないで。あなたは――」


 後半の方はよく聞き取れなかった。頭が泥のように重い。底なし沼に沈んでいくようだ。もがいても、もがいても、抗いようがなかった。

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