プロローグ
気が付いたときには、鉄の塊が目前に迫っていた。
轢かれる。その四文字の言葉が頭の中を埋め尽くす。
そして、車は停まることなく。そのままの速度で勢い良く僕の体を吹き飛ばした。
死に直面すると時間がゆっくりになるとは聞いたことがあるが、まさか運転手の表情まではっきりと見て取れるとは思わなかった。悲壮に歪んだ顔。これで轢いた相手の人生はおろか、自分の人生まで自らの手で終わらせてしまったんだという諦観の念。目を見開き、口が悲鳴をあげる形へと、徐々に変わっていく。
死を覚悟する。
そんな状況だというのに、僕の頭は死を免れる方法などそっちのけで、別のことを考えていた。一種の現実逃避かもしれない。
なぜ時間がゆっくりに感じられるのだろう。なぜ過去の記憶が一瞬にして蘇り、走馬灯を見るのだろう。
人は危機に瀕した際に限界を超えた脳力を発揮し死を回避しようとするからだ、という話を聞いたことがある。
時間がゆっくりに見えるのは、脳がすさまじい速度で回転しているから。昔の記憶が引き出されるのは、死を回避するための情報を過去のデータベースから検索しているから。
人間の体は良く出来ているものだ。
だが、どれだけ頭を回転させようと、現状を打破するための革新的なアイディアは思い付きそうにない。考える気がなかった、という方が正しいだろう。
タイヤが地と擦れる不快な高音が、道を歩いていた人の悲鳴が、はるか遠くで発せられた音のように聞こえる。
体が宙に浮いた。
いや、もう大分前に浮いていたのか。
時間の感覚が曖昧だ。
いつ何が起きて、その結果どうなってしまったのかという因果関係すら崩壊していく気がした。
時間の矢は必ず一方向にしか進まないはずなのに。
ミクロな世界においては、時間が可逆的であるという説がある。たとえば、物を構成する分子と分子がぶつかり合ったときのことを考えてみよう。左からやって来た分子が、右にあった分子にぶつかり、弾き飛ばす。僕たちは、僕たちが見ている世界を「順再生」の景色だと信じてやまない。だが、これは本当は、右にあった分子が左にあった分子にぶつかった映像の「逆再生」を見せられているだけなのかもしれないのだ。
そんなことを考えても仕方がないって?
話を続けよう。
一方、マクロな世界においては、これが当てはまらないことが多い。覆水盆に返らず。コップに入っていた水が床にこぼれ、カーペットにしみをつくる。このしみが独りでに集まり、水となり、コップに戻ることなど誰が考えるだろうか?
世界を細かく分割していけば可逆であるかもしれないのに、大きな目で見れば不可逆である。
不思議な話。
そんなことを考えている場合ではない。僕は首を振って思考を切り替える。実際に首を振ったわけではないが。
どうすれば僕は助かるのだろうか。
知恵を絞ろうと結論は決まっていた。
僕はこの現実を受け入れる以外に、講じる手段を持ち合わせていない。
とうの昔に分かっていたことだ。
視界がぐるぐると回る。
雲一つ無い、美しい青空。誰かが吐き捨てたガムが張り付いている、汚れたねずみ色のアスファルト。交互にそれらが入れ替わる。アクセントとしてちらちらと映る、車や人の姿。
主が諦めたためにエネルギーを持て余してしまった脳は、それを消費するべく次の思考へ移ろうとする。それは僕の意志とは関係なく行われているような気がした。脳だけが別の生き物のようにフル回転している。
なぜこんなことになってしまったのだろう。
僕は何か悪いことをしてしまったのか。
こうなってしまった理由を探らされる。僕はそんなことに興味はないのに。
僕は大学生で。犯罪なんてもちろんしたこともなくて。今日もただ学校に行こうとしていただけなのに。
たしかに寝起きで判断力は低下していた。赤信号なのに周りを見ずに飛び出してしまった。
だが。その程度で。こんな仕打ちがあるだろうか? 神は何を見てこの僕を殺そうと思ったのだろう?
神なんているはずがない。そんなことは知っている。もし神がいて僕の頑張りを見ているなら、決して努力家であった僕を一浪させたりはしなかっただろう。浪人時代に神への執着は捨ててしまっていた。
それでも神にすがってしまうのは人間の悲しい性だ。
神よ、どうか助けてください。どんな形でも良い。まだ死にたくはない。
僕は懇願した。
なぜ死にたくないか、などという愚問はいらない。生きたいから、死にたくない。ただそれだけだった。
知らない死の世界に放り出されるなんて、まっぴらごめんだ。
思い返せば、僕はいつも保守的な人間であった。
高校も、大学も、外の世界に出ようとはしなかった。どのステージにおいても、生まれ育ったこの京都という舞台を選択し続けてきた。
僕は中学から野球を続けている。他のスポーツをしなかったのも野球をやめなかったのも、きっとこの性格のせいだ。今更になって僕はそれに気付く。
頭の血管が切れるような感覚がした。ぶちっという音とともに、頭の一部分だけが妙に生暖かくなり、それがじわじわと広がっていく。
思考が鈍る。
先ほどまではあんなにクリアだったのに、もう何かを考えるのも億劫になってきた。
ようやく、僕から乖離した存在となってしまった脳が、僕の支配下に戻ってきたように思えた。
僕の体と融合を果たし、脳は徐々にその働きを失っていく。
風景も濁り、空とアスファルトの区別もつかない。
頬にぬくもりを感じた。その後に、床に叩きつけられるような衝撃がやってきた。
そして、僕の意識は途切れた。




