華麗なる訪問者
十月の肌寒い朝だった。
王都の中央通りから一本外れた裏路地に、ひっそりと佇む小さな建物がある。煉瓦造りの二階建てで、一階は古道具屋、二階には『アリシア探偵事務所』と書かれた真鍮の看板が掲げられていた。
もっとも、看板は長年の風雨に晒されてすっかりくすんでおり、注意して見なければ文字を読み取ることも難しい。おまけに建物の入口は古道具屋の脇にある狭い階段を上った先なので、初めて訪れる者は大抵、一度は通り過ぎてしまう。
そんな事務所の窓際で、一人の女性が新聞を広げていた。
アリシア・ベルモンド。二十六歳。
肩まで伸びた栗色の髪を後ろで束ね、白いシャツに濃紺のベストを合わせた、少々顔立ちは整っているが、どこにでもいそうな若い女性である。
ただし、その職業は少々珍しい。
彼女は王都でも数少ない、私立探偵を生業とする人間だった。
「……また値上がり?」
新聞の片隅に掲載された小麦の市場価格を眺め、アリシアはうんざりした声を漏らした。
ここ数年、王都の物価は上昇を続けている。パンも肉も酒も、去年より随分と高くなった。それなのに探偵の仕事の相場は大して変わらないのだから、世の中というものは実に不公平である。
机の上には、すっかり冷めた紅茶と、昨日買った硬いパンが一切れ。
アリシアはそれを口に放り込むと、今度は新聞の社交欄へと視線を移した。
『第二王子エドワード殿下、クロイツ公爵令嬢との婚約を解消』
「へえ……」
思わず声が漏れた。
エドワード王子といえば、王都ではなかなか評判の良い人物である。
王族でありながら庶民にも気さくに接し、慈善事業にも熱心で、貧民街の救済にも私財を投じているという。もっとも、アリシア自身は直接会ったことがないので、新聞に書かれている人物評がどこまで本当なのかは知らない。
ただ、少なくとも悪い噂を聞いたことはなかった。
その王子が、長年連れ添った婚約者との関係を突然解消したという。
「王族ってのも大変ねえ」
そんな感想を漏らし、アリシアが新聞を畳もうとした、その時だった。
コン、コン。
事務所の扉が控えめに叩かれた。
「はい、どうぞ。開いてますよ」
返事をすると、扉がゆっくりと開いた。
最初に姿を現したのは、黒い燕尾服に身を包んだ初老の男性だった。白髪を丁寧に撫でつけ、背筋をぴんと伸ばしたその姿からは、長年にわたって上流階級に仕えてきた者特有の品格が感じられる。
男性は室内を一瞥すると、扉を大きく開いて脇へ退いた。
「お嬢様、こちらでございます」
続いて入ってきたのは、一人の若い女性だった。
淡い水色のドレスに身を包み、艶やかな金髪を上品に結い上げている。整った顔立ちにはどこか憂いが漂っていたが、その立ち居振る舞いには生まれながらの気品があった。
アリシアは思わず椅子から立ち上がった。
「いらっしゃいませ。アリシア探偵事務所へようこそ」
「突然お邪魔して申し訳ありません。こちらにアリシア・ベルモンド様がいらっしゃると伺ったのですが」
「私がアリシアです」
女性はほっとしたように微笑んだ。
「よかった。知人から、腕の良い探偵がいると紹介されまして」
「それはどうも。どうぞ、お掛けください」
アリシアは慌てて机の上の新聞と食べかけのパンを片付け、来客用の椅子を勧めた。
女性が腰を下ろすと、初老の男性はその斜め後ろに控えたまま動こうとしない。
「それで、本日はどのようなご用件でしょう?」
アリシアが尋ねると、女性は膝の上で両手を重ね、少しだけ俯いた。
「その前に、自己紹介をさせてください。私はクラウディア・フォン・クロイツと申します」
「……クロイツ?」
聞き覚えのある名前だった。
というより、つい先ほど新聞で目にしたばかりである。
「もしかして、クロイツ公爵家の……?」
「はい。父はクロイツ公爵です」
アリシアは机の端に置いた新聞へ、ちらりと目を向けた。
クラウディアもその視線に気づいたらしい。
「新聞をご覧になったのですね」
「ええ、まあ……」
「でしたら、お話は早いかもしれません」
クラウディアは小さく息を吸い、真っ直ぐにアリシアを見つめた。
「私、エドワード殿下との婚約を破棄されました」
その声は静かだった。
しかし、膝の上で重ねられた指先が、微かに震えている。
「突然のことで、私にも何が何だか分からないのです。つい先日まで、私たちは何の問題もなく過ごしておりました。来年には正式に婚姻を結ぶ予定で、式の準備も進めていたのに……」
「殿下から理由は聞かなかったのですか?」
「もちろん尋ねました。何度も、何度も」
クラウディアは唇を噛んだ。
「ですが、殿下は『すまない』と仰るばかりで、何も教えてくださらないのです」
「他に好きな女性ができたとか?」
「いいえ。そのような方はいらっしゃらないと思います」
「ご両家の間で何か問題が起きた可能性は?」
「父にも確認しましたが、心当たりはないそうです。それどころか、今回の婚約解消に伴う違約金や諸費用は、すべて王家が負担すると申し出があったそうです」
「……なるほど」
アリシアは腕を組んだ。
王族と公爵家の婚約ともなれば、単なる男女の約束では済まされない。政治的な意味合いも大きく、解消するとなれば双方の家に相応の影響が及ぶ。
それにもかかわらず、王家は一方的に婚約を破棄し、その理由も明かさず、金銭的な責任だけはすべて引き受けるという。
随分と奇妙な話だった。
「ちなみに、殿下との仲は良好だったんですか?」
「はい」
クラウディアは即答した。
「幼い頃からの付き合いです。もちろん、意見が合わずに喧嘩をしたこともあります。でも、その度にきちんと話し合ってきました。少なくとも私は、殿下も同じ気持ちでいてくださると信じていました」
「最後にお会いした時、何か変わった様子は?」
「……少し、お疲れのようでした」
クラウディアは記憶を辿るように目を伏せた。
「最近は公務がお忙しいと伺っておりましたので、そのせいだと思っていたのですが……」
「婚約破棄を告げられたのは、いつです?」
「三日前です」
「その時、殿下はお一人でしたか?」
「はい。私を屋敷に呼び、二人きりでお話しになりました」
アリシアは机の引き出しから手帳を取り出し、聞き取った内容を書き留めた。
婚約破棄を告げたのは三日前。
理由は不明。
第三者の介入も、少なくとも依頼人の知る限りでは確認されていない。
そして、婚約解消に伴う費用は王家が全額負担する。
「それで、私に何を調べてほしいのでしょう?」
クラウディアは少し驚いたような顔をした。
「もちろん、婚約破棄の理由です」
「理由が分かったとしても、殿下のお気持ちが変わるとは限りませんよ?」
「それでも構いません」
今度は迷いのない返事だった。
「もし私に至らないところがあったのなら、直したいと思います。殿下に他に愛する方ができたのであれば、それも受け入れる覚悟はあります。でも、何も分からないままお別れすることだけは、どうしても納得できないのです」
アリシアはしばらく彼女を見つめた。
なるほど。
単に婚約を破棄された腹いせで調査を依頼しに来たわけではないらしい。
「分かりました。お引き受けしましょう」
「本当ですか!」
「ただし、料金について先に説明させてください」
アリシアは手帳を閉じ、机の上に置いた。
「調査費用は一日銀貨十枚。それに加えて、交通費や情報収集に必要な経費を実費でいただきます。調査期間が長引けば、それだけ費用もかさみますが、よろしいですか?」
「ええ、もちろんです」
「それと、相手が王族ですからね。必ず真相を突き止められるとはお約束できません。調査できる範囲にも限界があります」
「承知しております」
クラウディアは後ろに控えていた執事へ視線を向けた。
「バトラー」
「はい、お嬢様」
執事は懐から小さな革袋を取り出し、アリシアの机の上に置いた。
ずしり、と重そうな音がした。
「こちらをお納めください」
「……これは?」
「経費の前払いです」
アリシアが袋の口を開くと、中には金貨が十枚、きっちりと収められていた。
「き、金貨十枚!?」
思わず声が裏返った。
金貨十枚といえば、一般的な庶民なら一年は遊んで暮らせる大金である。少なくとも、アリシアのような零細探偵が気軽に受け取れる金額ではない。
「あの、クラウディア様。これはさすがに多すぎるのでは……」
「足りませんか?」
「いえ! 逆です!」
クラウディアは不思議そうに首を傾げた。
「調査には色々と費用が掛かるのでしょう? 必要なものがあれば、遠慮なく使ってください。もちろん、足りなければ追加でお支払いします」
「は、はあ……」
さすがは公爵令嬢。
金銭感覚が根本から違うらしい。
「ただし、一つだけお願いがあります」
クラウディアは真剣な表情になった。
「十日以内に、結果を教えていただきたいのです」
「十日、ですか?」
「はい。婚約解消の正式な手続きが進んでおります。すべてが終わってしまう前に、どうしても殿下の真意を知りたいのです」
アリシアは少し考えた。
王族の私生活を調べるとなれば、通常の浮気調査とは勝手が違う。屋敷に直接乗り込んで話を聞けるわけでもなく、関係者の口も堅いだろう。
十日という期限は決して長くない。
だが、依頼人の表情を見る限り、これ以上待たせるのも酷というものだった。
「分かりました。十日間、できる限りのことをしてみます」
「ありがとうございます!」
クラウディアは立ち上がり、深々と頭を下げた。
公爵令嬢が、平民の探偵に向かってである。
アリシアは慌てて立ち上がった。
「ちょ、ちょっと! そんなに頭を下げないでください!」
「どうか、よろしくお願いいたします」
そう言って顔を上げたクラウディアの瞳には、先ほどまでとは違う、微かな希望の光が宿っていた。
アリシアはその表情を見て、少しだけ胸が痛んだ。
探偵という仕事をしていると、時には依頼人が望まない真実を伝えなければならないこともある。
今回も、そうならないとは限らない。
それでも彼女は真実を知りたいという。
ならば、自分はそのために働くだけだ。
「お任せください。必ずとは言えませんが、全力を尽くします」
クラウディアはもう一度礼を述べ、執事のバトラーと共に事務所を後にした。
扉が閉まると、室内には再び静寂が戻ってきた。
「……さて、と」
アリシアは椅子に腰を下ろし、机の上に残された革袋を見つめた。
金貨十枚。
何度数えても、十枚。
「これは……しばらくパンの心配をしなくて済みそうね」
思わず頬が緩む。
だが、すぐに気を取り直して手帳を開いた。
調査対象は第二王子エドワード。
王都でも評判の良い、正義感の強い人物として知られている。そんな男が長年の婚約者を突然突き放し、理由すら明かそうとしない。
しかも、王家は違約金の全額負担を申し出ている。
何かがおかしい。
アリシアは手帳の一番上に、大きく一行を書き込んだ。
『エドワード殿下は、なぜ婚約を破棄したのか?』
そして、その下に小さく付け加える。
『まずは屋敷周辺の聞き込みから』
翌朝。
アリシアは動きやすい服装に着替え、王都の北区へと足を運んだ。
第二王子エドワードの屋敷は、王城からほど近い貴族街の一角にあった。
高い石壁に囲まれた広大な敷地には、美しく手入れされた庭園が広がり、正門には王家の紋章を刻んだ鉄扉が設けられている。
当然ながら、門の両脇には武装した衛兵が立っていた。
「……まあ、そう簡単には入れないわよね」
アリシアは門から少し離れた場所で立ち止まり、屋敷を眺めた。
いくら私立探偵とはいえ、王族の屋敷に勝手に立ち入る権限などない。ましてや婚約破棄の理由を調べていますなどと言えば、門前払いされるのが落ちだろう。
実際、試しに門番へ面会を申し込んでみたところ、予想通り丁重に断られてしまった。
もっとも、それで諦めるようでは探偵など務まらない。
「さて、どこから攻めようかしら」
アリシアは周囲を見回した。
王族の屋敷ともなれば、出入りする人間は決して少なくない。食料品を運ぶ商人、庭園を管理する庭師、馬車の御者、使用人たち。
屋敷の中へ入れなくても、外から得られる情報はいくらでもある。
それから三日間、アリシアは屋敷の周辺で聞き込みを続けた。
最初に目をつけたのは、庭園の手入れを請け負っている年配の庭師だった。
仕事を終えて近くの酒場に立ち寄ったところを見計らい、アリシアは隣の席に腰を下ろした。
「お疲れ様です。随分と立派なお屋敷ですね」
「ん? ああ、エドワード殿下の屋敷かい?」
「ええ。あんな広い庭園を管理するなんて、大変でしょう?」
「そりゃあ大変さ。まあ、殿下は気前がいいからな。働き甲斐はあるよ」
庭師はそう言って、酒を一口飲んだ。
アリシアはさりげなく店主に追加の酒を注文し、庭師の前へ差し出した。
「私のおごりです」
「おっ、いいのかい?」
「ええ。その代わり、少しお話を聞かせていただけません?」
庭師は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、差し出された酒を見てすぐに相好を崩した。
「なんだい、聞きたいことってのは」
「最近、殿下のお屋敷にはどんな方がいらっしゃるんです?」
「客人かい? そりゃ色々来るけどなあ……」
庭師は顎をさすりながら考え込んだ。
「そういや、ここ何週間かは王太子殿下がよくいらっしゃるな」
「王太子殿下が?」
「ああ。立派な馬車だからすぐ分かる。王家の紋章が入ってるしな」
「兄弟ですもの。別に珍しいことではないのでは?」
「まあ、そうなんだが……以前はそんなに頻繁じゃなかったからな。最近は妙によく見かけるんだよ」
アリシアは手帳に小さく書き込んだ。
「他には?」
「そうだなあ……あとは、顔に大きな傷のある商人風の男が何度か来ていたな」
「商人?」
「ああ。随分と大柄な男だったよ。身なりは立派だったが、顔に大きな傷があってな。どうにも堅気の商人には見えなかったね」
「名前は分かります?」
「いや、そこまでは知らんよ。俺は庭の手入れが仕事だからな」
「そうですか」
アリシアは少し考えた。
王太子の頻繁な訪問。
顔に傷のある大男。
どちらも気になる情報ではあるが、婚約破棄との関連はまだ分からない。
「他に、最近変わったことはありませんでした?」
「ああ、そういや……」
庭師は思い出したように顔を上げた。
「殿下の家臣が、兵士を集めているって話を聞いたな」
「兵士?」
「私設兵団ってやつだよ。腕に覚えのある連中を募集しているらしい。何でも、かなりいい給金を出すそうだ」
「……へえ」
アリシアは表情を変えずに相槌を打った。
王族が私設兵団を持つこと自体は、別に珍しいことではない。だが、わざわざ新たに兵士を募集しているとなると、少し事情が違ってくる。
「何のために兵士を集めているか、聞いています?」
「さあなあ。護衛を増やすんじゃないか? 最近は物騒だからな」
「そうですねえ」
アリシアは曖昧に頷いた。
それからもしばらく世間話を続け、庭師がすっかり上機嫌になったところで席を立った。
店を出ると、すでに空は茜色に染まり始めていた。
冷たい秋風が通りを吹き抜け、アリシアはベストの襟元を押さえた。
「王太子殿下に、謎の商人。それから私設兵団……か」
口に出してみても、まだ何一つ繋がらない。
そもそも、これらの出来事が婚約破棄と関係しているという保証すらないのだ。
ただ気になることが一つあった。
王都でも評判の良い第二王子が、なぜ今になって兵士を集めているのか。
アリシアは手帳を取り出し、今日得た情報を改めて眺めた。
王太子の頻繁な訪問。
顔に傷のある大柄な商人。
私設兵団の募集。
そして、突然の婚約破棄。
「……偶然にしては、少し出来すぎている気がするわね」
アリシアは手帳を閉じ、屋敷の方角を振り返った。
高い石壁の向こうでは、今日も第二王子が何事もなかったかのように暮らしているのだろう。
しかし、その内側で何が起きているのかはまだ誰にも分からない。
「さて、明日はもう少し踏み込んでみましょうか」
そう呟いてアリシアは夕暮れの王都を歩き始めた。
依頼の期限まであと七日。
調査はまだ、始まったばかりだった。




