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温室の月光

 帝都オイレンベルクの空に群青の帳が下り、やがて銀の薄絹のような初夏の月光が黒曜宮の東翼を白銀色に染め上げていった。

 宮殿の最東端に位置する『東離宮の大温室』は、幾重にも組み合わされた精緻なガラスと白銀合金のフレームによって空へとドームを描く、帝室屈指の瀟洒な温室庭園だ。

 温室の扉を開けた瞬間、フィリア・ルベルの鼻腔をくすぐったのは、昼の熱気を吸い込んで花開いた、南方の珍しい草花たちの甘やかな夜の香り。


 天井の高いガラス窓からは満天の星々と柔らかな月明かりが降り注ぎ、随所に据えられた真鍮の魔導行灯が、琥珀色の温かな光の輪を敷石の上に投げかけている。

 遠くでは石組みの噴水が微かなせせらぎを響かせ、昼間の緊迫した宮廷の喧騒を完全に遮断していた。


「綺麗……」


 フィリアは思わず足を止め、感嘆の息を漏らした。

 今夜の彼女は過酷な洞窟探査で泥にまみれた革の探査服を脱ぎ、宮内府の侍女たちが丹念に仕立ててくれた柔らかな薄紅色のドレスに身を包んでいた。

 胸元にはもちろん、あのヘーゼル・トパーズの首飾りが輝いている。主石の周囲を巡る小粒のダイヤモンドが、温室の淡い光を浴びて、星屑のようにきらきらと瞬いていた。


 温室の中央。芳しい白薔薇のアーチをくぐった先の円形テラスに、その人はいた。

 皇帝としての重々しい正装や軍服の上着を脱ぎ捨て、上質な薄青の絹シャツに黒のズボンという、これまでに見たことがないほど寛いだ装いである。

 袖口をわずかに捲り上げた逞しい腕、卓の上に置かれた白磁のティーポットから立ち上る湯気を、黄金の瞳で静かに見つめていた。

 あの夜。フィリアが調査計画書の作成に没頭するあまり約束を失念し、二時間も一人で待たせてしまった、まさにあの温室の円卓であった。


「レオンハルト様……」


 フィリアが控えめに呼びかけると、レオンハルトは弾かれたように顔を上げた。

 月光を浴びて佇むフィリアの姿を視界に捉えた瞬間、その端正で峻厳な面持ちが、ふわりと音を立てて解けていく。


「来たな、フィリア」


 レオンハルトは立ち上がり、ゆっくりと彼女の前へと歩み寄ってきた。

 その歩調には玉座で見せる威圧感など微塵もなく、ただ愛しい者を迎え入れる男の、静かで深い温もりだけが満ちている。


「待たせてしまいましたでしょうか……?」

「いいや。私自身、執務室から上がったばかりだ。さあ、座るがよい」


 レオンハルトは自ら肘掛け椅子を引き、フィリアを優しく腰掛けさせる。

 円卓の上には、銀のトレイに美しく盛り付けられた色鮮やかな果実の山が置かれていた。南方の温暖な直轄領から早馬で届けられたばかりの、露をたたえた紅珠葡萄、黄金色に熟れた蜜柑。

 そして繊細な砂糖菓子。


「南方の果実……! 宮内府の方が本当に用意してくださったのですね」

「うむ。そなたの好物だとハルトヴィヒが言っていたからな。そして、今夜の茶はこれだ」


 レオンハルトが自らの手で、白磁のカップへと琥珀色の液体を注ぎ分ける。

 ふわりと立ち上ったのは、花と蜜の甘い香りに、わずかな野性のスパイスが溶け込んだ、独特の深い芳香であった。


「あの小謁見室で、そなたが美味しいと言った南方の茶葉だ。……少し濃いめに淹れてある。長旅の疲れを解くのに誂え向きだろう」


「ありがとうございます、レオンハルト様」


 勧められるまま、フィリアは両手でカップを包み、一口口に含んだ。

 まろやかな渋みと温もりが喉を通って胸の奥へと染み渡っていく。過酷な地下空洞で冷え切っていた神経の隅々が、ほどけるように緩んでいくのが分かった。


「……とても温かいです。生き返るようです」

「そうか。そなたの顔色も、ようやくいつもの赤みが戻ってきたな」


 向かいの椅子に腰を下ろしたレオンハルトは、目を細めて穏やかに微笑んだ。

 昼間の小謁見室での張り詰めた緊張の末の抱擁とは違う。ここには政務の責任も、調査団の規律も、外部の視線も何もない。

 ただ、二人きりの穏やかで親密な時間だけが、夜の静けさの中に漂っていた。


「さて……」


 レオンハルトは悪戯っぽく黄金の瞳を細め、カップを傾けながら言う。


「書簡の追伸に書いてあったな。『とても面白い第三期の接尾辞を見つけた』と。早く私に見せたいと言っていた代物はどこにあるのだ?」

「あ!」


 フィリアの頬が朱に染まる。だが、今度は恥ずかしさに逃げ出すことはない。

 彼女は膝の上に置いていた布張りの小鞄から、遠征中に肌身離さず持ち歩いていた大切な研究手帳を丁寧に取り出した。


「こちらです、レオンハルト様! 地下第三層の分岐点にあった、案内標識の石柱から正確に写し取ってきたものです!」


 フィリアは椅子を少しだけレオンハルトの方へ引き寄せ、手帳の頁をパッと広げた。

 そこには古代帝国文字の均整の取れた文字列とともに、右下隅の小さな記号が拡大して丹念にスケッチされていた。


「見てくださいませ、この右下の部分です。『~へ至る』を意味する第三期の標準的な接尾辞なのですが、本来ならば下向きに曲がるはずの母音記号の尾が、くるんと上向きに反転しているのです!」


「ほう……」


 レオンハルトは身を乗り出し、フィリアが指し示す手帳の図面を覗き込んだ。

 二人の肩が触れ合うほどに近づく。


「軍用規格の厳格な標識文において、このような文法的な崩しは本来許されないはずです。ですが、当時の石工が急ぎ足で鏨を振るいながら、ほんの少しだけ筆を遊ばせたようにも見えるのです。もちろん、この形に別の意味があった可能性も残っています。『ここから先へ続くんだぞ』とでも言わんばかりに。まるで数百年前の職人の息づかいが、そのまま石の上に跳ねているようで。なんて愛らしくて、面白い文字だと思いませんか?」


 早口で捲し立てるフィリアの瞳は夜空の星々よりも燦然と輝いていた。未知の言葉に出会い、先人たちの心に触れた瞬間の純粋無垢な学術的歓喜。

 その瞳の煌めきを、レオンハルトは飽くことなく愛おしそうに見つめている。


「そなたは本当に文字が好きなのだな」


 低く、柔らかな呟き。


「あ……申し訳ございません。私、また夢中になって一方的にお話ししてしまって。退屈でしたでしょうか……?」

「馬鹿を言え。退屈なものか」


 レオンハルトは苦笑し、フィリアの手帳を指先でそっとなぞる。


「ただ、驚いていただけだ。地底魔獣が潜み、いつ落盤が起きるかも分からぬ過酷な暗闇の中で、そなたはこの小さな記号の崩しを見つけて、微笑んでいたのだな」


「それは……はい。もちろん怖かったですし、足も震えていました。でも、この文字を見つけた瞬間、ふと思ったのです」


 フィリアは手帳を膝の上へと戻し、両手を胸の前で重ねた。

 その視線がレオンハルトの黄金の瞳を真っ直ぐに捉える。


「この文字の面白さを、レオンハルト様にお見せしたら、どんなお顔をなさるかしらと。きっと『また変わったものを見つけてきたな』と呆れながらも、私の話を最後まで聞いてくださるに違いない。そう思ったら暗闇の寒さも、恐怖も、すっと消えていったのです」


「フィリア……」


「帝都を出る前、陛下は私に仰ってくださいました。『文字に呑まれそうになったら、一度立ち止まって私の顔を思い出せ』と」


 フィリアの声音が静かな熱を帯びていく。


「あの言葉がずっと胸の奥にありました。これまでの私は難しい文字を見つけるたび、ただそれに飛びつき一人で抱え込んで走り出していました。ルベルの地下室にいた頃のように誰も信じられず、自分の居場所を証明するために、文字を盾にして生きていたのです。……でも、違いました」


 フィリアは首元のトパーズにそっと指先を滑らせた。


「私には帰る場所がありました。成果を誇るためではなく、義務を果たすためでもなく。ただ自分が心から素晴らしいと思ったものを、一番に手渡したいと思える人が帝都で待っていてくださる。そのことが、どれほど私の心を支えてくれたか分かりません」


 風が温室のガラスをかすかに揺らし、南方の夜の花の香りがふわりと二人の間を満たした。

 レオンハルトは息を呑んだままフィリアを見つめていた。彼女の瞳には、かつて見られたような怯えや、他者の顔色を窺うような迷いは一片もない。

 一人の自立した女性として、己の心をしっかりと見つめ、自らの言葉で真実を紡ぎ出している。


「フィリア」


 レオンハルトの手が卓の上を滑り、フィリアの華奢な手を包み込む。

 手袋のない温かな素肌の感触。

 レオンハルトの親指が彼女の甲を優しく愛撫する。


「以前、私がそなたに投げかけた問いを覚えているか」

「はい」


 フィリアの胸が小さく跳ねた。

 あの夜、指南書を真面目に実践して空回りした自分に対し、彼がまっすぐに問いかけてくれた言葉。


『義務ではなく、そなた自身は何を望むのだ?』


「あの時は……答えられませんでした」


 フィリアは伏し目がちに、だがしっかりと口を開いた。


「何を望めばいいのか、望むこと自体が許されるのかすら、分からなかったからです。でも北方の冷たい洞窟の中で仲間たちと規律を守り、先人たちの遺産を目の当たりにして……そして何より、あなたと遠く離れて過ごす中で、私の心はひとつの答えに辿り着きました」


「そなたの……望みか」


「はい」


 フィリアは顔を上げ、レオンハルトの瞳の奥をじっと見据える。

 頬は夕焼けのように赤く染まっていたが、その眼差しには揺るぎない覚悟と溢れんばかりの情愛が宿っていた。


「私の望みは、ただ皇帝の役に立つ優秀な顧問官であることではありません。将来の帝国を支える正しい皇后の義務をこなすことでもありません。私は、レオンハルト様、あなたの隣にいたいのです」


「……!」


「あなたが統治の重圧に押し潰されそうな時は、その冷たい手を温めたい。あなたが孤独な決断を下す夜には、ただ隣で寄り添ってお茶を淹れたい。帝国の未来を拓く文字をあなたと一緒に読み解き、嬉しいことも、苦しいことも、すべて二人で分け合って生きていきたい。それが、私自身のたったひとつの望みです」


 飾りのない魂の底からの言葉。

 誰の手順でもない、フィリア・ルベルという一人の少女が、自らの意志で選び取った愛の告白だった。

 レオンハルトの黄金の瞳が激しく揺らぐ。

 大陸最強の覇王と恐れられ、幼き頃より血みどろの宮廷闘争と戦場を生き抜いてきた男。

 裏切りと打算に囲まれ心を鋼の鎧で閉ざし、「皇帝」という冷徹な機構として生きていくことだけを自らに課していた男の胸の奥で、最後の防壁が音を立てて粉々に砕け散る。


「そなたという女は……」


 レオンハルトの声が震えていた。彼は椅子の背から身を乗り出し、フィリアの手を自らの両手でしっかりと包み込む。


「いつも私の想像を遥かに超えていくな」

「レオンハルト様?」

「私も、言わねばならんな」


 レオンハルトは小さく息を吸い、自らの胸の内に抱えていた想いを、飾らぬ言葉に変えて解き放った。


「私はかつて、この帝国を維持することだけを己の存在理由だと思っていた。民を生かし国境を守るためならば、己の命も感情も、すべてを炉にくべる燃料に過ぎんと割り切っていたのだ。貴族たちが勧める婚姻も、ただの同盟の道具、血統の維持に過ぎぬと冷笑していた」


 レオンハルトの大きな掌がフィリアの頬へと添えられた。

 ざらりとした武人の指先が、彼女の白く滑らかな肌を震えるほど愛おしそうになぞる。


「だが、そなたが来てくれた。文字を愛し、真実を求め、誰よりも純粋に世界を見つめるそなたが、私の凍りついた執務室に現れてくれたのだ」


 その瞳に燃えるような熱と底知れぬ慈愛が宿る。


「そなたが笑えばそれだけで胸が温かくなった。そなたが防衛費に回せと言って首飾りを突き返してきた時は、呆れると同時に、これほど愛しい人間がこの世にいるのかと瞠目した。そして、そなたを北方へ送り出した十二日間、私は狂いそうなほどの恐怖と孤独の中にいたのだ」


 レオンハルトの額がフィリアの額へと重ねられた。

 至近距離で交じり合う、二人の熱い吐息。


「帝国の至宝だからではない。文字が読めるからでもない。他でもない、フィリア。そなたという一人の女性を私は心の底から愛している。私の魂のすべてをかけて、生涯をかけて、そなたを愛し守り抜くと誓おう」

「……レオンハルト様……」


 フィリアの目から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。

 それは悲しみの涙ではなかった。

 凍てついた過去の孤独がすべて報われ、至上の幸福となって溶け出していく歓喜の涙。


「泣くな、フィリア。……いや、泣いてもよい。そなたの流す涙はこれからはすべて私が拭う」


 レオンハルトは低く囁き、親指の腹で彼女の涙を優しく拭い去った。そして迷うことなく、自らの唇をフィリアの震える柔らかな唇へと重ね合わせた。

 互いの想いを言葉にした上で、深く、優しく、互いの愛を確かめる口づけ。

 温室のガラス屋根を透過する初夏の月光が、寄り添う二人の影を銀の光の中にくっきりと浮かび上がらせていた。

 

   ◇


 やがて唇が名残惜しそうに離れた後も、二人は額を寄せ合い、互いの体温を確かめ合っていた。


「ふふ」


 フィリアが涙の痕を光らせながら、小さく吹き出す。


「どうした?」

「いえ……あの日、侍女の方から借りた怪しい指南書に書いてあったのです。『視線と吐息で殿方を翻弄せよ』と」

「あの奇怪な上目遣いの本か」


 レオンハルトが渋い顔をして眉根を寄せると、フィリアは満面の笑みで首を横に振った。


「はい。あの本には、たくさんの手順が書かれていましたけれど、本当の想いを伝えるのに、あんな手練手管なんて何ひとつ必要ありませんでしたね」


「当たり前だ。あのような無駄な小細工などなくとも、そなたがただ、その澄んだ瞳で私を見つめ笑ってくれるだけで、私はとうの昔にそなたの虜になっていたのだからな」


 真面目な顔でそう言い切るレオンハルトに、フィリアは今度こそ顔から火が出るほど真っ赤になり、彼の広い胸元へと額を埋めた。

 その背中をレオンハルトの大きな腕が、慈しむようにしっかりと抱きすくめる。


「……明日からはまた忙しくなるぞ」


 レオンハルトが彼女の柔らかな髪に唇を寄せながら、穏やかに言う。


「そなたたちが持ち帰ってくれた資料の受領検査を継続し、各省庁による長期解析へ進める。そして、すでに動き出している帝都の三施設の代替機構研究にも、新資料を踏まえた試作計画を組み込んでいく。帝国が抱えるインフラの課題を克服するまでには、まだ何年もの歳月と、幾多の困難が待ち受けているだろう」


「はい。でも、もう誰も一人ではありません」


 フィリアは胸元から顔を上げ、凛とした眼差しで頷いた。


「現場には、命を懸けて技術を支える技師長や魔導士の皆様がいます。そして文字の向こうには、私たちを信じて言葉を遺してくれた先人たちがいます。何より、私の隣にはレオンハルト様がいてくださいますから」


「ああ。その通りだ」


 レオンハルトは力強く頷き、フィリアの手を固く握り締める。

 温室の外では夜の風が梢を優しく揺らし、帝都オイレンベルクの街並みには、平和な人々の営みを示す無数の灯火が瞬いていた。

 失われなかった古代の知恵。

 そして、暗闇の中で結ばれた決して揺らぐことのない二人の絆。


 夜明け前の青い空の向こうに、帝国の、そして二人の新しい明日が希望の光を湛えて静かに昇り始めようとしていた。




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