ただいまの温度
地下第四層の静謐な闇の中、出立から七日目の朝。
回収作業を完了した調査隊の撤収は、進入時と何ら変わらぬ厳格な規律のもとで進められていた。
青銅書架が倒壊した一般保管区画の手前では、密閉搬送コンテナに収容された貴重な資料ケース群が、四重の保護緩衝材に包まれて頑丈な組立式運搬車へと慎重に固定されている。
回収を認めたケースは全七基。
狭い副坑道では車体を分解し、寸法と重量を確認済みのコンテナを一基ずつ担架へ移して運ぶ手順も整えられていた。
「最奥部。白銀の扉周辺の防護結界線、正常展開を確認」
地脈魔導士が、奥壁から距離を置いて固定された四本の警告杭を結ぶ青白い魔導結界を確かめ、低く報告した。
扉の中央に刻まれた『使用停止設備の全製造記録、および運用禁絶の中枢機構』という真紅の警告文は、結界線の向こうで冷たく沈黙している。
誰もその封印を暴こうとはしなかった。
人理を逸脱した災厄の記録は先人たちが定めた通り、永劫の眠りの中へ残しておく。それが、命を背負って現場に立つ専門家全員の一致した判断だった。
「全隊、補助隔壁の外へ後退せよ」
現場指揮を執る工務局筆頭副技師長の号令に従い、隊員たちは足元の破片に注意を払いながら、側道を通って人工封鎖壁の手前へと退出する。
工学班は、開放時に確認した機構と圧力状態を改めて点検したうえで、規定された閉鎖手順に従って補助隔壁をゆっくりと閉じられた。
隔壁の完全閉鎖を確認した後、物理ロックを復帰させ、通気圧調整機構を所定の待機状態へ戻していく。中央の巨大な主門は最初から最後まで一度も開かれることなく、頑丈な山の一部としてその場に鎮座し続けている。
「これより、地上への全面後退を開始する! 各班、退避隊列を組め!」
来た道を戻る行程も、慎重そのものだった。
排水副坑道を抜け、局所的な水圧異常が観測されていた第三層の中央回廊を大きく迂回。地底魔獣を足止めした大空洞には入らず、防護扉を設けた側路を警戒しながら通過する。
地脈の脈動を測り、空気の滞留を調べ、十メートルごとに足を止める確実な足取り。
三百頁の安全計画書が定めたルールを最後まで愚直に守り抜いた結果、調査団は誰一人として負傷者を出すことなく、漆黒の玄武岩坑道を抜け出していった。
坑道の出口に近づくにつれ、闇の彼方から青白い光が差し込み、冷涼ながらも瑞々しい地上の風が頬を撫でる。
「光だ……」
誰かが小さく呟く。
坑口を一歩踏み出した瞬間、初夏の眩い太陽の光が視界いっぱいに広がり、思わず全員が目を細めた。
見上げれば、どこまでも澄み渡る群青の空。足元には黒曜山脈の雄大な峰々と、眼下に広がる緑豊かな帝国の大地。
冷たい暗闇の深淵から無事に生還したという実感が、隊員たちの胸に熱く込み上げていた。
岩棚から山道を下り前線砦へ到着したのは、その日の夕刻だった。
「全隊、黒曜前線砦へ帰着! 負傷者なし。主要資料の保全回収、完了せり!」
砦の城壁から打ち鳴らされた歓喜の鐘の音が、山あいに高く、どこまでも澄み渡るように木霊した。
◇
前線砦で装備を解除し搬送コンテナの気密性を再点検した後、一行は一晩休息をとった。
翌朝、調査隊は護衛部隊とともに帝都への帰還の途に就く。
南下する四輪馬車の車窓には、初夏の柔らかな陽光を浴びて青々と波打つ麦畑や、活気あふれる宿場町の家並みが広がっている。
馬車の座席で、フィリアは手元に置かれた手帳の頁をめくっていた。
中には現地で模写した『施設目録碑文』の全文と、代表ケースの観察記録が几帳面に整理されている。
「フィリア様。少しお休みになられた方がよろしいですよ」
向かいの席に座るベルンハルトが、温かい麦茶の革水筒を差し出しながら苦笑した。
「洞窟内では張り詰めておられましたから。帝都に着けば各省庁への報告や資料の受領手続きで、また息をつく暇もなくなります」
「ありがとうございます、ベルンハルトさん」
フィリアは水筒を受け取り、一口喉を潤した。
香ばしい香りが疲れた身体の芯にじんわりと染み渡っていく。
「でも、不思議ですね。あんなに過酷で恐ろしい場所だったはずなのに、手帳を見ていると胸の奥がずっと温かいのです」
「それは、フィリア様が成し遂げられたからです。先人たちの言葉を正しく解き明かし、失われかけていた帝国の知恵を生きて持ち帰ることができたのですから」
「私だけの力ではありません。皆さんが、それぞれの役割を命がけで果たしてくださったからです」
フィリアは首元にそっと手を伸ばした。
探査服の内側に収められていたヘーゼル・トパーズの首飾りを引き出す。調査中は衣服の内側で守られていた石に今はこうしてゆっくり触れていられる。
(レオンハルト様……)
胸が甘く脈打つ。
前線砦から送った暗号書簡の余白に、自らの意思で書き添えたあの一文を思い出すたび、頬が熱くなるのを止められなかった。
『早く、陛下のお声が聞きたいです。
どうか、温室の約束を待っていてくださいませ』
かつての自分であれば、こんな個人的な感情を公務の書簡に添えるなど、想像もできなかっただろう。
皇帝の婚約者として相応しい成果を出さなければ、見捨てられるのではないかという怯え。
相手を喜ばせるための手順をなぞらなければならないという強迫観念。
それらの余計な殻は、過酷な暗闇の中で完全に剥がれ落ちていた。
いま胸を満たしているのは、ただ純粋にあの人に会いたいという想い。
あの人の声を聞き、その温もりを確かめたいという、一人の女としての素直な恋心であった。
(待っていてくださるかしら……私のあんな我儘な一文を……)
トパーズの滑らかな表面を指先でなぞりながら、フィリアは遠く南の空――帝都オイレンベルクの方向をじっと見つめていた。
◇
五日かけて慎重に南下し、出立から十二日目。
正午過ぎ。
調査隊の車列は帝都オイレンベルクの巨大な城門をくぐり抜けた。
初夏の風が吹き抜ける黒曜宮の北門前広場には、すでに大勢の出迎えの列が整然と立ち並んでいた。
馬車が広場の中央で車輪を止め、扉が開かれる。
フィリアが地に足を下ろした瞬間、出迎えの最前列から、待ちきれないといった様子で大股に歩み寄ってきた巨漢がいた。
「おう、お嬢ちゃん! 無事に戻ったな!」
工務局のヴァルター技師長だった。
帝都のインフラ監視と後方支援を統括していた老技師は、破顔一笑しながらフィリアの肩を豪快に叩く。
「筆頭副技師長からの速報を読んだぞ! 第四層の保管庫を開け、変圧中枢核の製造工程録と合金の組成表を回収したってな! でかした、大金星だ!」
「ヴァルター技師長! ただいま戻りました」
フィリアが笑顔で応じると、副技師長が進み出て敬礼を交わした。
「技師長殿。計画書の手順に従い、北天第四記録蔵より回収した資料ケース群、全七基を無事に搬送いたしました。現在、密閉コンテナ内にて不活性ガス環境を維持しております」
「よし! 直ちに工務局本庁の特殊保管室へ運び込め! 図書院の修復班と魔導院の材料工学班を総動員して、正式な受領検査と一次点検を開始するぞ!」
広場は一気に活気に包まれた。
工兵隊と技師たちが慎重にコンテナを荷馬車から降ろし、専門の研究室へと運び出していく。
ヴァルターは手帳の控えを検分しながら真剣な眼差しで呟く。
「もっとも、本当の戦いはこれからだがな。図面があるとはいえ、古代の耐魔合金が現代の冶金技術で再現できるか。魔導循環回路の幾何学パターンが現行の結界炉に適合するかは、何年もの試験と試作を重ねなきゃならん」
「はい。帝都の設備と完全同型かどうかも、これからの検証課題です」
「ああ。だがよ、手掛かりゼロの暗闇からすりゃ、天と地ほどの差だ。先人たちの知恵を俺たちの手で現代に繋いでみせるさ」
頼もしい技術者たちの背中を見送りながら、フィリアは深く息を吐き出す。
公務としての調査任務はここに最高の形で完遂されたのだ。
「フィリア顧問官」
背後から静かで威厳に満ちた声がかけられる。
振り返ると、そこに立っていたのは帝室総務長官ハルトヴィヒだった。老長官は温和な笑みをたたえ、恭しく一礼する。
「長途の遠征、まことにお疲れ様でございました。皇帝陛下がお待ちでございます。本庁舎の小謁見室へお越しいただけますでしょうか」
「あ……はい!」
胸が大きく跳ねた。
フィリアは手早く衣服の埃を払い、乱れた髪を指先で整えると、ハルトヴィヒの先導に従って宮殿の回廊を小走りに進んだ。
◇
初夏の柔らかな陽光が差し込む、黒曜宮中央翼の小謁見室。中庭の青々とした木々を望む窓辺には、黒檀の円卓と革張りの椅子が静かに置かれていた。
扉が開き、ハルトヴィヒが一礼して退室すると、部屋には二人だけの静寂が満ちた。
卓の向こうに、彼がいた。
黒の軍服の上着を端正に着込み、灰銀の髪を撫で付けた皇帝レオンハルト。
卓の上には決裁を待つ書類の山が積まれていたが、彼の黄金の瞳は扉が開いた瞬間から、ただ一点、部屋に入ってきたフィリアの姿だけを射抜くように捉えていた。
「フィリア」
低く、掠れたような呼び声。
その声を聞いた瞬間、フィリアの足は無意識に前へと動く。
「レオンハルト様!」
絨毯を駆け寄り、円卓のすぐ手前まで進み出る。
フィリアの頭の中には、道中で何度も反芻していた学術報告の言葉が溢れ返っていた。
中枢機構の多重螺旋構造の断面図のこと、合金の熱処理手順のこと、二重構文の暗号が正しく機能したこと。
学者としての習性が、まずその成果を誇らしげに報告せよと背中を押しかけた。
「陛下! 地下第四層の保管庫より、変圧中枢機構の製造工程録と」
しかし。
早口で捲し立てようとしたフィリアの言葉は、そこでピタリと途切れた。
見上げたレオンハルトの顔。
いつも冷静沈着で、何事にも揺らぎを見せぬはずの覇王の相貌が、痛々しいほどに強張っていた。
その黄金の瞳の奥に宿っていたのは、成果に対する期待などでは微塵もなかった。
十二日間。遠い北方の危険地帯へ愛する者を送り出し、無事を祈り続けるしかなかった男の張り詰めた緊張の限界と、そして彼女の姿を視界に捉えた瞬間の震えるような深い安堵であった。
彼がどれほどの思いで帝都の留守を守り、自分を待っていてくれたのか。
その感情の重みが視線を通じて、フィリアの胸の奥底へと真っ直ぐに流れ込んでくる。
(あ……)
成果など二の次だ。文字の解読も図面の価値も。この瞬間の前にはすべて些事であった。
何よりも先に、彼に渡さなければならない言葉が他にある。
フィリアは手帳を抱える手をそっと緩め、胸元のヘーゼル・トパーズを両手で包み込む。
そして零れそうになる涙を堪えながら、満開の花が咲き誇るような、心からの笑顔を向けた。
「ただいま戻りました、レオンハルト様」
レオンハルトの喉が小さく詰まった。
皇帝の仮面が完全に剥落し、その相貌に泣き出しそうなほどに優しく、切実な光が広がっていく。
レオンハルトは円卓を大股に回り込むと、迷うことなく手を伸ばした。
次の瞬間、フィリアの華奢な身体は、逞しく温かな腕によって力強く引き寄せられていた。
フィリアの額がレオンハルトの硬い軍服の胸元に触れる。
包み込まれるような圧倒的な体温。
レオンハルトの大きな両腕がフィリアの背中をしっかりと抱きしめた。
「フィリア」
耳朶を震わせる、低く震えた囁き。
抱きしめる腕の力は強く、まるで二度と離すまいとするかのように彼女の存在を確かめていた。
「……成果など二の次だと言っただろうが……馬鹿者が」
悪態をつきながらも、その声には至上の慈愛と安堵が滲んでいる。
フィリアもまた、素手の両手をレオンハルトの背中へと回し、その引き締まった軍服をぎゅっと握りしめた。
「はい……でも皆様の命を守り、資料も無事に届けることができました」
「ああ。よく無事で帰ってきた。本当によく……」
心臓の鼓動が、互いの胸を通して重なり合うように響く。
洞窟の冷気や暗闇の恐怖も、すべてがこの腕の温もりの中に溶けて消え去っていくようだ。
ただいまの温度。
自分が帰るべき場所はこの人の隣なのだという確信が、フィリアの魂を甘やかな幸福で満たしていった。
数秒、あるいは数分。
二人は言葉もなく互いの生と温もりを確かめ合うように、静かに抱きしめ合う。
やがて、レオンハルトが名残惜しそうに腕の力をわずかに緩め、フィリアの顔を覗き込んだ。
二人の頬には、隠しようもない微熱が差していた。
「フィリア」
「はい、レオンハルト様」
レオンハルトは彼女の目尻に浮かんだ小さな涙の粒を、大きな親指の腹でそっと拭った。
そして悪戯っぽく、しかしこの上なく甘い笑みを口元に浮かべた。
「あの書簡の追伸、しっかりと読んだぞ」
「……っ!」
カアッと音を立てるように、フィリアの顔全体が耳の付け根まで真っ赤に染まる。
胸元を押さえ、思わず視線を泳がせた。
「あ……あ、あれは……その本当にそう思って……!」
「うむ。私もそなたの声が聞きたくてたまらなかった」
レオンハルトは小さく笑い、フィリアの額に自らの額をコツンと優しく合わせた。
「今夜、東離宮の温室で待っている。誰にも邪魔させん。二人きりで、そなたが見つけてきた面白い文字の話を朝までじっくりと聞かせてもらおう」
「はい!」
フィリアは赤くなった顔のまま、だが溢れんばかりの幸福を込めて、力強く頷いたのだった。




