暴かれた虚偽と、正当なる対価
石造りの床を無遠慮に擦る靴音と、ヴォーン卿の取り乱した悲鳴が、重厚な鉄扉の向こうへと遠ざかっていく。
扉が鈍い金属音を立てて完全に閉じられると、アイゼンフェルス要塞の謁見の間には、針が落ちても聞こえるほどの静寂が戻っていた。
周囲に控える帝国の近衛兵たちは抜いた長剣を鞘へと納めたものの、その身に纏う警戒の色を解いてはいない。
彼らの鋭い視線は、壇下の冷たい床に跪いたままのミレーヌへと集まっていた。
「立ち上がるがよい、ルベルの王女」
頭上から降ってきたのは、低く、一切の感情を排したレオンハルトの声だった。
ミレーヌは無言で会釈し、スカートの裾を乱さないよう注意しながら、ゆっくりと立ち上がった。
薄い靴底を通して凍てつく黒石の冷たさが足裏へと伝わってくる。
十日余りの過酷な馬車の旅による疲労と、先ほどまでの極度の緊張から、膝がわずかに震えそうになったが、彼女は奥歯を噛み締めて背筋を正した。
「そなたの申した通り、この条約文には巧妙な変造が施されていた」
レオンハルトは身を翻し、再び黒鉄の玉座へと腰を下ろす。
机上には、帝国主席魔導書記官が広げたままの羊皮紙が置かれている。老齢の書記官は額に冷や汗を滲ませながら眼鏡の縁を押し上げ、震える指先で下段の文字をなぞっていた。
「陛下……恐れながら、これほど悪質な古代構文の偽装、近年類を見ない規模でございます。第七行の屈折文字は、一見すると我が帝国の『永続不可侵』を謳う定型句に見せかけておりますが、文末の補助母音が意図的に脱落させられております。これにより、条約の魔力指向性が完全に反転し……」
「貴様の解説は不要だ、書記官。先ほどこの女がすべて言い当てた」
レオンハルトの冷徹な一言に、老書記官は小さく息を呑んで口を閉ざし、恐縮したように頭を下げた。
皇帝の冷ややかな黄金の瞳が、再びミレーヌへと注がれる。
その視線には威嚇の意図は微塵も含まれていなかったが、眼前の対象を余すところなく検分しようとする、冷徹な光が宿っていた。
「ミレーヌ・ルベル。そなたは先ほど、この文字を『誰にでも読める簡単なもの』だと申したな」
「はい……」
「ならば問う。我が帝国の学府において、古代帝国文字の原典を正確に判読し得る者は、帝国全土を探しても十指に満たん。文字の形をなぞる程度の学者ならば幾ばくかいるが、構文の歪みと契約効果まで一目で看破できる者など、宮廷学術院の長ですら怪しい。それでも、そなたはこれを『簡単なもの』と言い切るのか」
問い詰められているはずのその声音は、ただ事実の確認を求めている。
ミレーヌは一瞬戸惑い、自身の細く荒れた指先を見つめた。自らの知見が稀有なものであるという事実が、すぐには信じられない。
「私には……学術的な序列や、宮廷の先生方の水準は分かりかねます。私はルベル王宮におりましても、公式な教育や魔導の講義を受けさせてもらったことはございません……」
「教育を受けていないだと?」
レオンハルトの形の良い眉がわずかに微動した。
ミレーヌは淡々と、しかし嘘偽りのない事実だけを口にする。
「はい。私は母の身分が低く、王宮では公式の系図にも名が載らない存在です。祝祭や儀礼に出ることも許されず、家庭教師を付けてもらうことも叶いませんでした。ただ、旧離宮の最下層にある第一資料保管室――誰も寄り付かず、数百年分の古い書類や石板が埃をかぶったまま放置されていた部屋で、一人過ごすことが私の役目でした」
謁見の間に、かすかなざわめきが走った。
王族の血を引きながら、公式記録から抹消され教育すら与えられず、古紙の山に放置されていたという告白。
ルベル王国の使節団が見せた傲慢な態度と、あまりにもかけ離れたその境遇に、周囲の帝国将校たちも怪訝な表情を浮かべた。
「あの部屋には建国期からの古い記録や、帝国との過去の外交書簡、ひび割れた契約板が山のように積まれておりました。他にすることもなかったので、文字の形をノートに書き写し、似た単語を並べ、前後の文脈を照らし合わせているうちに……自然と文字が語りかけてくる意味が解るようになったのです。私にとってあの文字を読むことは、時間を消費させるための退屈しのぎに過ぎません」
「……独学で原典から体系を復元したというのか……」
老書記官が信じられないものを見るかのように呟いた。
魔導学において、師を持たずに失われた言語の文法体系を独力で再構築するなど、天賦の才という言葉ですら生温い。
気の遠くなるような観察眼、並外れた記憶力、そして魔力の微細な揺らぎを捉える知覚が揃っていなければ、到底不可能な領域であった。
「使節の男は貴様を『無能な紙食い虫』と呼んでいたな」
レオンハルトの低い声が静寂を裂いた。
「その紙が古代書物のことだったとはな……王国の者たちは、そなたのこの才を知らなかったのか」
「才能と呼べるようなものではございません」
ミレーヌは静かに首を横に振った。
「王国の魔導士様方が重んじるのは、火炎や氷雪を放つ実戦魔導の威力や、結界の出力でございます。文字の染みを眺めているだけの行為は、王宮では『無為に古紙を汚すだけの奇癖』とみなされておりました。……婚約者であったユリシーズ様からも、第一王女のエレオノーラ姉上からも、私はただの無能で、王家の恥さらしであると常々言われておりました……」
ミレーヌの言葉には恨みがましい響きは一切なかった。
ただ、それが自分が生きてきた世界の絶対の理であったかのように、淡々と受け止めている。
その乾いた諦観が、かえって彼女が受けてきた冷遇の深さを雄弁に物語っていた。
「愚かなことだ」
レオンハルトは吐き捨てるように言った。
その黄金の瞳に宿ったのは、ルベル王国という国に対する底冷えのするような侮蔑であった。
「真贋を見抜く知性を『紙食い虫』と蔑み、自らの首を絞める罠の仕掛けられた羊皮紙を誇らしげに掲げる。小国の為政者どもが盲目であることは知っていたが、これほどまでに節穴であったとはな」
レオンハルトは肘掛けから背を離し、まっすぐにミレーヌを見据えた。
その威厳ある面持ちには、先ほどまでの「観察」を終え、明確な決断を下した統治者の光が宿っていた。
「ミレーヌ・ルベル。そなたの身柄について、直ちに決定を下す」
「はい……」
ミレーヌは覚悟を決め、静かに頭を垂れた。
ルベル王国の使節団は拘束された。条約偽造という重大な背信行為が暴かれた以上、王国から人質として送られてきた自分もまた、同罪として地下牢へ送られるか、あるいは国境の露と消えるのが道理である。彼女はそう考えていた。
しかし、レオンハルトの口から発せられた言葉は、彼女の予想を根本から覆すものであった。
「本日この時をもって、そなたの『人質』としての身分を完全に解く」
「え?」
思わず、ミレーヌは間抜けな声を上げて顔を上げた。
レオンハルトは動じることなく冷徹に、しかし淀みなく言葉を続けた。
「そなたは我が命を狙った条約偽造の共犯ではない。むしろ、その卓越した眼力によって謀略を未然に防ぎ、我が身と要塞の危機を救った功労者だ。ガルディニア帝国は、実力ある者に正当な対価を支払う国だ。国を救った者を地下牢へ叩き込むような真似は、我が法が許さん」
「で、ですが……私はルベル王国から差し出された身です。そのような……」
「王国がそなたを切り捨てたのだ。ならば、我が帝国がそなたを拾い上げることに何の問題がある」
レオンハルトは玉座の脇に控えていた近衛副官へ視線を向けた。
「副官。直ちに帝都の宮内府へ急使を走らせよ。ルベル王国第三王女ミレーヌを、当面は我が直属の『帝室臨時古文書顧問』として迎える旨、正式に登録させろ」
「はっ! かしこまりました!」
副官が胸に手を当て、一寸の躊躇もなく敬礼を返した。
帝室臨時古文書顧問。
恒久の高位職ではないが、皇帝の命によって原典の鑑定と翻訳に参加できる、期限付きの専門職であった。
「お、お待ちください、皇帝陛下!」
ミレーヌは慌てて両手を胸の前で振った。
長年、存在を無視され、無価値であると刷り込まれてきた彼女にとって、その処遇はあまりに突拍子もなく恐れ多いものであった。
「私のような社交の礼法も知らぬ者が、帝室の顧問など務まるはずがございません! 私は文字を読めるだけで……何かの魔導を行使できるわけでもないのです!」
「文字が読める。それだけで十分だ」
レオンハルトはミレーヌの狼狽を一刀両断にした。
「帝都の書庫には歴代の学者が匙を投げ、埃をかぶったまま放置されている古代神聖碑文が数千点と眠っている。そのすべてが、帝国の法や結界の根幹に関わる重要機密だ。そなたがそれらを解読し、真贋を正すだけで、帝国にとっては万の軍勢に匹敵する価値がある。己の知性を過小評価するな。そなたの価値を決めるのはルベルの無能どもではない。この私だ」
有無を言わさぬ絶対的な肯定。
それは甘い言葉ではなく、冷徹な統治者としての実利的な評価であった。
しかし、生まれてからただの一度も、己の行いを誰からも肯定されたことのなかったミレーヌの胸に、その言葉はかつてないほどの熱を帯びて染み透っていった。
「……私に価値がある……?」
呆然と呟くミレーヌに対し、レオンハルトは無表情のまま淡々と実務的な指示を下した。
「そなたの居室を手配させる。まずは長旅の埃を落とし、体を休めよ。帝都への出立は明朝だ」
皇帝が立ち上がり、大股で謁見の間を退出していく。近衛兵たちが一斉に敬礼し、扉が再び開かれた。
取り残されたミレーヌのもとへ、先ほどまで厳格な表情を崩さなかった老書記官が、深々と頭を下げながら歩み寄ってきた。
「ミレーヌ顧問官。不躾ながら、先刻の解読の手腕、誠に見事でございました。帝都の皇宮図書院には、貴女のお知恵をお借りしたい文献が山積みとなっております。どうぞ、これからは存分にその才を振るってくださいませ」
「あ……あ、ありがとうございます……」
生まれて初めて、他者から「敬称」をつけられ、深々と礼を捧げられた。
ルベル王宮では、最下級の使用人ですらすれ違いざまに嘲笑を浮かべていたというのに。この国の者たちは、皇帝の言葉一つで彼女を「敬意を払うべき相手」として遇している。
戸惑いと気恥ずかしさに頬を赤らめながら、ミレーヌは案内役の侍従に従い、謁見の間を後にした。
案内された客室は要塞の迎賓館の一室であった。
華美な金銀の装飾こそないものの、隙間風一つない頑丈な石造りの部屋の中央には、大きな暖炉が赤々と薪を爆ぜさせていた。
部屋全体が芯から暖かく、何より机の上には真新しい羊皮紙と上質な黒インクの壺。そして、丁寧に毛先を整えられた鳥の羽ペンが整然と並べられていた。
「顧問官様。お荷物はこちらへ置かせていただきます。衣服の採寸や日用品の手配は帝都へ到着次第、宮内府が手配いたします。何か現時点で不足しているものはございますでしょうか」
給仕の侍女が恭しく頭を下げて尋ねてくる。
ミレーヌは自分の小さな革鞄を両手で抱きしめながら、首を横に振った。
「い、いえ……十分すぎます。こんなに暖かいお部屋をいただけるなんて……」
「滅相もございません。陛下より顧問官様のお身体を最優先で休ませるよう厳命をいただいております。お食事もすぐにお持ちいたしますので、どうぞお寛ぎください」
侍女が音もなく一礼して退出していく。
一人残された部屋でミレーヌは暖炉の前に歩み寄った。
パチパチと薪が燃える音を聞きながら、暖かな熱気に冷え切った指先をかざす。凍えて強張っていた体が、じんわりと解けていくのを感じた。
(……人質ではなく、顧問……)
まだ夢を見ているようだった。
明日には処刑されるか、暗い牢獄に送られるはずだった自分が、暖かい部屋で温かな迎えを受け、机とペンを与えられている。
あの冷徹な眼差しをした皇帝の言葉が耳の奥に蘇る。
――『己の知性を過小評価するな。そなたの価値を決めるのはルベルの無能どもではない。この私だ』
ミレーヌはそっと胸元に手を当てた。
薄いドレスの奥で、冷え切っていたはずの心臓が力強く脈打っていた。
◇
その頃。
ガルディニア帝国から西へ数百里離れた、ルベル王国の王都ルベルハイム。
豪奢を極めた白亜の王宮、その一角にある外務卿執務室には上機嫌な笑い声が響き渡っていた。
「ふふ。今頃はちょうど、アイゼンフェルス要塞で条約の調印式が行われている頃合いですわね」
長椅子に優雅に腰掛け、細工の施された銀のフォークで洋梨のコンポートを口に運びながら、第一王女エレオノーラが甘い声を漏らした。
その向かいの執務机には、外務卿代理ユリシーズが満足げに書類に目を通しながら座っていた。
「ああ。計算通りだ、エレオノーラ殿下」
ユリシーズは冷ややかな美貌に、傲慢な勝利の笑みを浮かべた。
「かの傲慢なる冷酷皇帝レオンハルトめも、我が国が提出した不可侵条約の更新文を疑いもせず署名しているはずだ。まさか、共通語の条文の真下に、帝室の防壁権能を切り離す古代構文が隠されているとは夢にも思うまいて」
「ええ、本当に。ユリシーズ、貴方の策は完璧でしたわ」
エレオノーラは誇らしげに目を細めた。
「帝国の要塞結界炉に負荷がかかれば、皇帝自身の魔力経路が蝕まれ、長期の療養を余儀なくされる。そうなれば、我がルベル王国が国境の関税交渉で圧倒的に優位に立てますもの。あのミレーヌという厄介払いも、生贄として素晴らしい働きをしてくれましたわね」
「全くだ。あの女の唯一の価値といえば、王家の血を引きながら、死んでも誰も悲しまないことだけだったからな」
ユリシーズは鼻を鳴らし、机の上のグラスを傾けた。
「あの陰気な紙食い虫め。せいぜい帝国の地下牢で一生を終えるがいい。貴女のような完璧な淑女を我が妻に迎えられることに比べれば、あのような無能、道端の小石にも劣る」
「まあ、嬉しいことを仰いますのね」
二人は顔を見合わせ、さも愉快そうに笑い声を上げた。
その時。
執務室の豪奢な扉が、ノックもそこそこに乱暴に押し開かれた。
「――ユリシーズ閣下! エレオノーラ殿下!」
飛び込んできたのは、顔面を蒼白にした外務省の書記官長であった。息を乱し、身につけた正装の襟元が乱れていることにも気づいていない。
「無礼者! ノックもせずに飛び込んでくるとは、弁えを知らんのか!」
ユリシーズが不快そうに眉を吊り上げ机を叩いた。
だが、書記官長は叱責に縮こまるどころか、震える手で一通の緊急暗号電文を差し出した。
「も、申し訳ございません! ですが、国境のアイゼンフェルス要塞から……極秘の緊急急使が飛び込んできたのでございます!」
「何? 調印完了の報せか。ならばそう慌てることもあるまい」
「違います! 破綻……いえ、完全なる破綻でございます!」
書記官長の声が悲鳴のように裏返った。
「条約更新は中止! 我が国の全権使節ヴォーン卿をはじめとする使節団全員が、帝国側によって『条約文書偽造および国家元首暗殺未遂』の現行犯として、その場で一斉に拘束されたとのことです!」
「……は?」
ユリシーズの手にあった硝子のグラスが指の間から滑り落ちた。絨毯の上に赤ワインがぶちまけられ、暗い染みを作っていく。
「ば、馬鹿な! なぜだ! あの神聖古代文字の細工は、我が国の古文書から数十年前に発掘された門外不出の暗号術式だぞ!? 帝国の学者どもに読めるはずがない!」
「そ、それが……! 急使の報告によりますと、調印の直前、何者かが皇帝の御前で条約の古代文字の罠を詳細に看破し皇帝の署名を制止したとのことです!」
「何者かが看破した……帝国の主席魔導書記官か!? それとも宮廷魔導院の長か!?」
ユリシーズが机に身を乗り出し、激昂して怒鳴りつける。書記官長は恐れ慄きながら、信じがたい事実を絞り出すように告げた。
「……看破したのは、帝国の学者ではございません。同行していた、第三王女ミレーヌ殿下でございます」
「――な、何ですって!?」
優雅に洋梨を口に運んでいたエレオノーラが、悲鳴を上げて立ち上がった。銀のフォークが甲高い音を立てて床へ転がり落ちる。
「ミレーヌが……看破した!? 冗談はおやめなさい! あの無能な女が帝国の皇帝の御前で口を開けるはずがありませんわ!」
「そ、それが事実なのです! ミレーヌ殿下の一言によって使節団の謀略は白日の下に晒され、使節団は即座に地下牢へ投獄……! 帝国側はルベル王国に対し、条約違反と背信行為に関する正式な国家査問を準備しているとのことです!」
執務室の空気が一瞬にして凍りついた。
ユリシーズは額に大量の脂汗を滲ませ、わなわなと唇を震わせた。
「おのれ……おのれ、あの紙食い虫めが! 人質の分際で余計な口を開きおって!」
ユリシーズの脳裏に浮かんだのは、ミレーヌが自らの才能によって文字を読んだという現実ではなかった。
ただ、あの無能な女が、恐怖のあまり口走った出鱈目が偶然皇帝の疑念を呼び、自分たちの完璧な策を台無しにしたのだという、歪んだ逆恨みだった。
「……落ち着きなさい、ユリシーズ」
エレオノーラが扇を強く握り締めながら、引きつった笑みを浮かべて言った。
「あのような無能が、古代文字を本当に理解しているはずがありませんわ。使節団の誰かが裏切って情報を漏らしたか、ミレーヌが命惜しさに余計なことを喚き立てたに決まっています。帝国が査問を要求してこようと、我が国は『すべて使節団とミレーヌが独断で仕組んだこと』として突っぱねればよいのです」
「そ、そうですな、エレオノーラ殿下! あの女は公式記録にも載っていない者。最初から王家とは無関係の狂言者として切り捨てれば、帝国とて手出しはできまい……!」
ユリシーズは乱暴に汗を拭い、自らに言い聞かせるように頷く。
だが、彼らはまだ知らなかった。
ミレーヌがすでに帝国皇帝の庇護下に置かれ、「帝室臨時古文書顧問」として皇帝直属の保護下に入ったことを。




