第三期に起きたこと
帝都オイレンベルクを吹き抜ける風は初夏の薫りを日増しに深め、黒曜宮を取り囲む並木道には瑞々しい若葉が青空に映えていた。
だが、帝室図書院の地階に位置する『特殊史料比較室』の空気は、外界の陽光とは隔絶された、張り詰めた静寂と冷気に包まれている。
石造りの頑丈な閲覧台には柔らかな羊毛フェルトが敷かれ、前日に黒曜山脈の旧鉱山管理区から搬入された青銅板の断片が、保存修復技師による安定化処置を終えて静かに安置されていた。
その傍らには、専門の分析班から届いたばかりの『初期材質所見書』が添えられている。
そして台の反対側には、図書院の地下深層金庫から厳重な手続きを経て運び出された数点の羊皮紙――帝都が所蔵する、極めて稀少な「第三期」の既知史料が並べられていた。
「倍率を一段上げます。ベルンハルトさん、斜光の角度を少しだけ調整していただけますか」
「はい、了解いたしました」
フィリア・ルベルは、レオンハルトから贈られた白銀の特注ルーペを右手に構え、青銅板の表面へ静かに視線を落としていた。
レンズの縁に刻まれた古代帝国文字の標準尺が、金属の溝に彫られた文字の輪郭と精密に重なり合う。
歪みのない硝子越しに見る文字の線幅や文字の並びは、極めて規則正しい。
「やはり、筆写による墨書ではなく、たがねによる直接刻印ですね。線の太さは一定ですが、終筆の払いがかなり荒い。……ベルンハルトさん、こちらの『旧帝国公約断簡・第二十二号』の筆写特徴と見比べてみてください」
「承知いたしました」
助手のベルンハルトが手袋をはめた指先で極めて慎重に別の羊皮紙を開く。
比較対象として置かれたのは、八十年ほど前に帝国領内の古城跡から発見され、これまで「出所不明の乱雑な記録」として分類保留にされていた、第三期の羊皮紙断簡であった。
「……なるほど。文字の屈折、特に母音を示す補助ルーンの傾きが酷似していますね」
ベルンハルトが眼鏡の縁を押し上げ、文字を追う。
「古代の第一王朝や第二王朝の流麗な神聖帝国文字とは異なり、儀礼的な装飾が削ぎ落とされ、直線的で速記性を重視した字形です。動詞の活用語尾に現れる短縮形……これは、平時における公文書の作法とは明らかに異なります」
「ええ。平時であれば、神々への奉告と皇帝の権威を示す長大な前置きが必ず記されます。しかし、この青銅板にも、保存されていた断簡にも、残存箇所にはそうした儀礼的定型句が見当たりません。読み取れる冒頭には発令者の識別番号と、受領者に対する緊急の命令条項が記されています」
フィリアはルーペを一度台の上に置き、手元の控え帳に対照表を書き込んでいく。
昨日提示した「戦時特例第十二条」という暫定訳。
それを検証するため、彼女は図書院に残るあらゆる同時代の語彙断片を洗い出し、法制局の古代法規集の語根と突き合わせていた。
「専門分析班から届いた、初期調査の報告書を確認しましょう」
フィリアが羊皮紙の報告書をめくると、ベルンハルトが要点を補足した。
「はい。青銅板の合金組成や微量成分、および共に出土した粘土板の焼成技法の詳細な分析については、専門の分析班が現在も試験を継続中です。ただ技師たちの初期観察によれば、青銅板の鋳造技術そのものは極めて高い水準にあり、粗悪な戦時代用品ではないとのことでした。詳細な鑑定結果が出るには数週間を要しますが、確かな製造基盤を持つ工房で作られたことは推測できます」
「ありがとうございます。材質や製法の物理的な確定は分析班の先生方にお任せするとして……私たち古文書班は、文字体系と文法の側から証拠を積み上げましょう」
フィリアは羽ペンを走らせ、手帳に考察を整理していく。
「青銅板に刻まれた『基幹技術台帳の供出命令』。そして、断簡二十二号に見られる『主要幹線道路における軍用物資の優先通行令』。帝都工務局に残る古い水路日誌の余白にあった『資材調達の途絶による改修中止』の走り書き……」
三つの異なる伝来を持つ記録。
フィリアは手元でそれぞれの成立条件を慎重に比較した。
「ただし、書体や語彙の傾向が近いからといって、これらすべてが同一年、あるいは同一の戦乱で同時に書かれたと確定することはできません。出土地も伝来経路も異なりますし、後世の筆写による揺らぎも考慮する必要があります。……それでも、同一系統の簡略化された言語書式を用い、軍事優先の措置を伝えている点において、無視できない共通項を持っています」
「……つまり何が言えるとお考えですか、フィリア様」
「これらの史料から推測できるのは……第三期の少なくとも一部地域において、組織的な戦時統制や軍事的混乱が存在した可能性が、極めて強く裏づけられたということです」
フィリアは断定を避け、証拠が示す範囲を正確に言葉にした。
「ただし、それが大陸全域を巻き込む規模の戦争であったのか、それとも特定の地域にとどまる紛争であったのかは現段階では判断できません。交戦相手が誰であったのか、どのような理由で争いが起きたのかも、これら帝国内で確認できる数点の断片だけでは未確定のままです」
「なるほど……。争乱の存在自体は濃厚だが、規模や原因までは確定できないと」
ベルンハルトが腕を組み、深く考え込む。
「しかし、フィリア様。現在、帝室図書院で把握できている範囲においても、第三期以前のまとまった技術資料や歴史書は、不自然なほど現存数が少ないですね。第一王朝の神話や第二王朝の版図拡大の記録はあれほど丁重に保管されているというのに……この空白はやはり気になります」
「ええ。それこそが、解き明かすべき大きな謎です」
フィリアは視線を落とし、青銅板の千切れた断面を静かに見つめた。
「考えられる仮説はいくつかあります。一つは、戦乱の勝者が技術や知識を独占するために、意図的な破棄や統制を行った可能性。もう一つは、長引く混乱によって書庫や工房が失われ、教育や筆写の継承が途絶えてしまった可能性。あるいは……何者かが戦火による略奪から守るために、意図的に記録を一括してどこかへ移送し、隠匿した可能性」
どれも推測の域を出ない。
青銅板は確かに「戦時特例」と「台帳の供出」を命じているが、その命令を下した統治主体が誰であったのか、何を意図して集めたのかまでは、ここには記されていないのだ。
「原因を一つに決めつけてはなりません。私たちが今手にしたのは、『組織的な戦時統制を示す有力な証拠』と、『技術台帳が何らかの意図をもって集められた』という記録の痕跡です。焦らず、周辺の記録を一つずつ突き合わせていきましょう」
「はい、フィリア様」
ベルンハルトが敬意を込めて一礼する。
未知の謎に直面したとき、安易な物語に飛びつかず、史料が語る限界を正確に見極めるフィリアの誠実な姿勢こそが、助手を務める彼にとって最大の信頼の拠り所であった。
そして、作業が一段落したところで、比較室の重い樫の扉が控えめにノックされた。
顔を出したのは宮内府の給仕係だ。
「フィリア顧問官、失礼いたします。皇帝陛下より言伝を預かってまいりました」
「レオンハルト様から……?」
フィリアが目を瞬かせると、給仕係は恭しく一通の私的な書簡を差し出す。
上質な紙には、レオンハルト自らの手による簡潔で力強い筆跡が並んでいた。
『明日は公務の非番日である。
天気が良ければ、帝都近郊の湖畔離宮へ赴こうと考えている。
風が心地よい季節だ。そなたの好きな野薔薇の群生も見頃を迎えている。
終日、静かに二人で過ごさないか』
端正な文字の向こうに、彼が執務机に向かいながら、少しだけ逡巡しつつこの文面を認めた情景が目に浮かぶようであった。
昨夜の夕餉をふいにしてしまった負い目もあり、フィリアの胸に温かな申し訳なさが広がる。
彼は皇帝として多忙を極める身でありながら、婚約者である自分との時間を大切に作ろうとしてくれているのだ。
(レオンハルト様……わざわざ、非番の日を合わせてくださったのね)
湖畔の離宮。穏やかな木漏れ日の中で彼と並んで歩き、静かな風の音を聞く。想像するだけで胸が甘く疼くような、魅力的な誘いだった。
行きたい。
しかし――その時、フィリアの脳裏に先刻図書院の学士たちと交わした約束が勢いよく蘇った。
(……あっ!)
フィリアは固まり、手元の手帳を大慌てでめくる。明日の日課欄には、すでに大きな黒インクの囲み文字が躍っていた。
『明朝九刻:図書院学術講堂にて、第三期語彙対照および年代比定に関する合同検証会』
(ど、どうしよう……! 昨日の今日で新資料が見つかったから、図書院の先生方や法制局の古文書係の方々総出で、非番を返上して合同検討会を開くことにしてたわ……!)
帝国の最高学府の長たちや現場の古参司書たちが、新資料の発見に熱狂して集まることになっている。
提議者であり原文の構文を解読できる自分が欠席するなど、学術的に許されない。
「あ、あの……給仕係さん」
フィリアは血の気を引かせながら、恐る恐る顔を上げた。
「陛下は……今、どちらにいらっしゃいますか?」
「執務室にて、午後の決裁を終えられたところかと存じます」
「す、すぐに伺います!」
フィリアは羽ペンを置き、手帳を抱えて立ち上がった。
ベルンハルトが「あ……」と声を漏らし、眼鏡の奥で何とも言えない同情と困惑の混ざった視線を向けたが、今のフィリアにはそれに気づく余裕はなかった。
◇
黒曜宮の中央翼、皇帝執務室。
午後の日差しが斜めに差し込む広大な部屋で、レオンハルトは執務椅子の肘掛けに身を預け、手元の羊皮紙を静かに捲っていた。
刹那、遠慮がちな、しかし切迫したノックが響く。
「入れ」
扉が開かれ、入ってきたのはフィリアだった。
濃紺の顧問服の裾をわずかに揺らし、両手で抱えた手帳を胸元に押し当てながら、申し訳なさそうに歩み寄ってくる。
その楚々とした姿を目にしただけで、レオンハルトの峻厳な眉間から、無意識のうちに険しさが消えていく。
「フィリア。手紙は読んだか?」
「は、はい、陛下……!」
フィリアは机の前に立つと、深々と頭を下げた。
「あの……大変、申し上げにくいのですが……明日の湖畔離宮のお誘い……お受けすることができません……!」
室内の空気が、ふっと止まった。
レオンハルトは捲りかけていた羊皮紙の手を止め、静かに顔を上げる。黄金の双眸が瞬きもせずにフィリアを見つめた。
「……体調でも悪いのか」
「い、いいえ! 体調は万全です! 至って健康で食欲もございます!」
「ならば……急ぎの公務か」
「はい……公務というか研究会でございまして……!」
フィリアは額に冷や汗を浮かべながら、必死に事情を説明し始めた。
「昨日の青銅板の発見を受けまして、図書院の先生方や法制局の専門官の方々と、第三期の語彙と年代比定を早急に突き合わせる合同検証会を、明朝から開くことになってしまいまして……! 皆様、滅多にない新資料の出土に大変興奮されており、休日を返上して史料を持ち寄ってくださることになったのです! 私が解読の基準を示さなければ議論が進みませんので、どうしても……外せなくて……」
フィリアは消え入りそうな声になりながら、手帳をぎゅっと抱きしめる。
二日連続で皇帝からの誘いを断ってしまうことへの申し訳なさが、胸いっぱいに募っていた。
「本当に申し訳ございません……! 私の都合でせっかくの休日のご予定を台無しにしてしまって……」
今にも泣き出しそうな顔で謝罪するフィリアを、レオンハルトはただ無言で見つめていた。
沈黙が重く執務室に落ちる。
レオンハルトの胸の内には、様々な感情が渦巻いていた。
皇帝の権限を行使すれば、そんな研究会など今この場で中止させられる。だが、そんなことをして何になるというのか。
フィリアは命じられれば従うだろう。しかし、その瞳から、あの青銅板を前にした時の爛々とした輝きが消えてしまうことは目に見えていた。
彼女が生き生きと文字に向き合い、自らの知性で世界を拓いていく姿にこそ、自分は心を動かされたのではなかったのか。
その情熱を奪い自分の都合で縛るような真似をしてしまえば、かつて彼女を冷遇したルベル王国の者たちと変わらない。
(違う……そうではない)
レオンハルトは内心で自嘲の息を吐いた。
自分が苛立ち、物足りなさを感じている根底にあるものは、そんな権力行使の是非などではない。
(彼女を束縛したいわけではない。ただ……)
ただ、彼女のほうから「陛下と過ごしたい」と求められたいのだ。
「研究も大切ですが明日は貴方とお話ししたいのです」と、彼女自身の意志で選んでもらいたかった。
統治者として感謝され、尊敬されることには慣れている。
だが、一人の男として、愛する女性に純粋に恋い慕われ、求められたいという感情をレオンハルトはこの生涯で抱いたことがない。
自分の内側に芽生えたこの切実な欲求の扱いに、どうしようもなく戸惑っていた。
(……私が、彼女に構ってほしいだけだ……)
その事実に気づいた瞬間、レオンハルトの頬に微かな熱が上った。
大陸最強の覇王と恐れられる自分が、古文書の影に隠れて、婚約者の関心を引こうと右往左往している。
あまりの滑稽さに、思わず深くため息が出た。
「……陛下?」
恐る恐る見上げてくるフィリアの澄んだ瞳。その瞳には嘘偽りのない敬愛と、純粋な申し訳なさが満ちていた。
彼女は決してレオンハルトを軽んじているわけではないのだ。ただ、職務への責任感と学問への熱意が、あまりにも純粋すぎるだけであった。
「……構わん」
レオンハルトは短く、低く言った。声音には努めて普段通りの冷徹さを保たせる。
「研究会の中止を求める筋合いはない。新資料の出土直後は、初動の検証が極めて重要であることは私も理解している。図書院の学士たちと存分に議論を深めてくるがよい」
「へ、陛下……! お許しくださるのですか……?」
「許すも何も、そなたは正当な職務を果たそうとしているだけだ。それを阻む理由がどこにある」
レオンハルトが淡々と応じると、フィリアの表情がパッと明るくなった。
「ありがとうございます、レオンハルト様……! 明日の検証結果は、必ず真っ先に陛下へご報告いたします! どのような新しい史料比較が得られたか、詳細な写しを添えて……」
「……うむ。報告は楽しみに待っている」
(また、古文書の報告書が増えるのか……)
内心でそう思いながらも、レオンハルトは口元を引き締め、小さく頷いた。
満面の笑みで一礼し、足取りも軽やかに退室していくフィリアの背中を見送りながら、皇帝は机の上に置かれた湖畔離宮の滞在計画書を、静かに引き出しの奥へと仕舞い込んだのだった。
◇
翌日。
図書院の学術講堂で行われた合同検証会は、熱気に満ちたまま夕刻まで続いた。
フィリアが提示した構文基準と語彙対照表を軸に、歴史学士、法制局の記録官、そして図書院の司書たちが議論を交わし、第三期の年代比定と戦時統制の性格について、有益な中間整理が整いつつあった。
会合が散会し、参加者たちが満足げな面持ちで退出していったのち。フィリアとベルンハルトは、講堂の演卓に散らばった羊皮紙の束を整理していた。
「皆様の知見が集まると、やはり視野が広がりますね。第三期の公用文書において軍事優先を示す定型表現が複数確認できました」
「ええ。フィリア様の構文解析があったからこそ、学士たちも迷わずに自説を検証できました。本日の成果は実に素晴らしいものです」
ベルンハルトが書類を揃えていると、講堂の開け放たれた扉から、ドスドスと無骨で力強い足音が響いてきた。
「失礼するぞ! 図書院の講堂はここか!」
現れたのは白髪交じりの短髪に、作業用制服を着込んだ老人であった。
頑丈な体躯に、鋭い眼光。
手には何枚もの分厚い設計図面を抱えている。
「ヴァルター技師長!」
フィリアは顔をほころばせ、思わず演卓から歩み出た。
帝国工務局の技師長、ヴァルター。
アウグスタ大水門の危機において、フィリアの読み解いた古代碑文の指示を信じ、非常放水路の解放を共に成し遂げた、現場の最高責任者であった。
「おお、フィリア顧問官! 息災そうで何よりだ」
ヴァルターは豪快に笑い、無骨な手を上げて挨拶を返す。
「工務局の地下水路の拡張工事でな。建国期の配管台帳の原本を確認したくて図書院へ寄ったんだが……北方からとんでもねえ古代の金属板が届いて、図書院中が大騒ぎになっていると聞いた。お前さんが関わっているなら、挨拶のひとつでもしていこうと思って顔を出したんだ」
「わざわざありがとうございます。水門の節は大変お世話になりました」
「ハッ、礼を言うのはこっちの台詞だ。あの時の補修記録は、今や工務局の若い技師どもの必読書になってるぜ。……で、何だって? 第三期の戦時中の命令書が見つかったってのは本当かい」
「はい。こちらに、青銅板の表面に刻まれていた文字の転写控えと、暫定的な対訳がございます」
フィリアは演卓の上から、丁寧に清書された羊皮紙を一枚取り出し、ヴァルターへと手渡した。
ヴァルターは老眼鏡を鼻先に引っ掛け、指の腹で紙の端を押さえながら、何気なく視線を走らせる。
「ふむ……戦時特例第十二条……基幹技術台帳の供出か。物々しいこったな。戦乱の時代にゃ、どこの国でも似たような無茶をやるもん――」
そこまで読み進めたところで、ヴァルターの指先がピクリと止まった。
老技師の背筋が微かに強張る。
眼鏡の奥の眼光が羊皮紙の下段――千切れた断面のすぐ傍らに書き残されていた、保管官によるものかもしれない追記の箇所。そこで、釘付けになっている。
「……ヴァルター技師長?」
フィリアが怪訝そうに呼びかける。
ヴァルターはすぐには答えなかった。眉間に深い皺を刻み、羊皮紙に書き写された古代文字の原文の綴りをじっと凝視している。
そこに書かれていたのは、フィリアが言語上の仮説として注記を添えた、あの一文であった。
『……王命に従い台帳は引き渡された。しかし、心臓の記録だけは――』
「顧問官……」
ヴァルターの声から、先ほどまでの快活さが消えている。
低く、慎重な声音。
「この『心臓』って単語の横に写してある、古代文字の原文の複合語……それから、その横に添えられている設計記号のような図形……これ、写し間違いじゃねえよな」
「ええ。ルーペで確認し、標準尺で線の位置まで正確に写し取りました。古代帝国文字の初期における複合語で、生体の臓器ではなく、何か中枢となる構造物の比喩ではないかと推測しているのですが……」
「いや……比喩というより術語かもしれん」
ヴァルターは腕を組み、唸るように息を吐く。
「この綴りの一部、それから十字を囲む二重円の記号。工務局の古い設備台帳や、建国期の機械仕様書の覚書で見覚えがあるんだ」
「設備台帳にですか……?」
「ああ。我々現役の技師が重要設備の中枢部品を指すときに使っている技術用語や、古い設計記号と……どうにも共通点があるように思えてならねえんだ」
ヴァルターは顔を上げ、真剣な眼差しでフィリアを見つめた。
「もちろん、正確な機構名や、それがどの設備とどこまで一致しているのかは、現段階じゃ何とも言えねえ。だが、この記号の配置と語の並びは、現行設備の中枢部に関する記録と無関係とは思えねえんだよ」
「現行設備の中枢部……」
「ああ。もし、この追記が指している『心臓』が今も帝国の設備で使われている機構と繋がっているのだとしたら……話は穏やかじゃねえぞ。……顧問官、明日にでも工務局の現行設備台帳と過去の保守履歴を、突き合わせて確認させてもらえねえか」
「工務局の台帳と照合……」
「ああ。いま帝国の設備を支えている中枢と、この記録がどう関わっているのか。早急に確かめる必要がある」
静まり返った講堂に、老技師の低く重い声が落ちる。
それは過去の歴史の謎が、帝国の足元を揺るがしかねない現実の問題へと繋がり始めた瞬間だった。




