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恋バナ大好き、恋ヶ淵さん  作者: 彩珠那由正
第一部:得恋のジンクス
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004話:恋ヶ淵さんと雨の日

 放課後、気が付けば降り始めた雨が廊下の窓を叩き、鈍色の雲が空を覆っていた。


 五月も中旬。もうすぐ中間考査ということもあり、放課後の過ごし方は人それぞれだ。教室に残って勉強する生徒もいれば、足早に帰宅する生徒もいる。部活動が休みなのをいいことに、これから遊びに行こうと盛り上がっている生徒たちもいた。


 帰宅部の俺はといえば、特に予定もない。それなら学生らしく本分に時間を捧げようと、帰宅する生徒たちに混じって昇降口へ向かった。


 ふと足が止まる。昇降口の入り口に、帰っていく生徒たちをぼんやりと眺める恋ヶ淵さんの後ろ姿があった。


 高校に入学し、同じクラスで隣の席になった恋ヶ淵さんとは、会話らしい会話をまだ一度もしたことがない。


 彼女にとって俺は、ただのクラスメイト。その距離は、これからも変わらないのだろうと、なんとなく思っていた。


 その筈だったのだが……気まぐれだったのか、それとも別の何かだったのか、自分でもよく分からない。靴へと履き替えた俺は、彼女の背中に声をかけていた。


「恋ヶ淵さん」


 呼びかけに応じて、恋ヶ淵さんが振り返る。


 透き通った瞳が、まっすぐこちらへと向けられた。ただそれだけで現実感が薄れていくような気がしたのは、やはり彼女の持つ透明感のある独特な雰囲気のせいかもしれない。


 恋ヶ淵さんの唇が、そっと開く。


 初めて呼んだ彼女の名前に、どんな言葉が返ってくるのだろう。そんなことを考えながら、俺は彼女の声に耳を澄ませた。


「愛葉くん家の、伊織くん」


 肩にかけていた鞄が、ずるりと二の腕まで落ちた。思わず口元が引きつる。


「……昼休みの話、聞いてたんだ」

「うん。隣の席にいたら、聞くつもりはなくても聞こえちゃうよね。大変だったんだから」

「え? 大変? 何が?」

「笑いを堪えるの」


 俺と陽大のやり取りを思い出したのか、恋ヶ淵さんは口元に手を当ててクスクスと笑った。


 彼女のこんな笑顔が見られたのだから、陽大もたまには役に立つな……なんて感想が浮かんでくる。


「愛葉くんから声をかけられるなんて思ってなかったから、驚いちゃったよね。正直、私に興味なんてないんだろうなーって思ってたから」

「え……それは、どうして?」

「愛葉くんって、割とクラスのみんなと分け隔てなく喋ってるでしょ。右隣の席にいる照沢さんにもたまに声かけてるし……でも、私には今まで一度も声をかけてこなかったから」


 言われてみれば、確かにそうだ。右隣の席にいる照沢は同じ中学出身で話しかけやすいというのもあるが、恋ヶ淵さん以外のクラスメイトとも、一度くらいは会話をしたことがある気がする。


「たまたまだよ。話しかける機会がなかっただけだ」

「同じクラスで、隣の席になったのに?」

「……そういうこともある」

「私って話しかけづらいのかなーとか、もしかして嫌われてる? とか考えちゃったよね」


 まさか、そんなふうに考えられていたとは思わなかった。


 綺麗すぎて話しかけづらかったというのは確かにある。けれど、嫌っているわけではない。むしろ俺にとって恋ヶ淵さんは、気になって仕方がない存在なのだから。


「いやいや、そんなんじゃないって。いま、こうやって話しかけたじゃん」

「うん。だからね、驚いたなーって話。なんで声をかけてくれたの?」


 透き通った瞳でじっと見つめられ、俺は照れ臭くなって視線を逸らした。


 昇降口の向こうでは、色とりどりの傘を手にした生徒たちが校門へ向かって歩いている。その中には、一本の傘に身を寄せ合いながら帰っていく、カップルの姿もあった。俺はその光景をぼんやりと眺めながら答える。


「別に。ただ、ここで立ち止まって何してるのかなーって思って、声をかけただけだよ」

「そっか」


 恋ヶ淵さんは納得したように小さく頷いてから続けた。


「未萌を待ってるの」

「ああ、B組の逢ヶ埼さん」

「うん。もうすぐ中間考査でしょ? 今日は私の家で一緒に試験勉強する約束をしてるから」

「そうなんだ」

「うん」


 そこで、会話が途切れた。何を話せばいいのか分からない。


 考えてみれば、今日初めてまともに言葉を交わした相手なのだ。共通の話題があるわけでもなければ、互いのことをよく知っているわけでもない。


 急に訪れた沈黙が妙に気まずく感じられた。ザーッという雨音が、昇降口の外から聞こえてくる。傘を開きながら楽しそうに談笑する生徒たちの声。濡れた地面を踏む靴の音。少し離れたところからは、誰かの笑い声も聞こえてくる。


 俺もそろそろ帰ろうか。そう思った時だった。


「私ね、雨の日って結構好きなんだ」


 不意に、恋ヶ淵さんが口を開いた。彼女の視線は、昇降口の向こう側へと向けられている。


 その先にあるのは、先ほど俺もなんとなく眺めていた光景。雨の中、相合傘をして帰っていく2人の姿。


「こういう日に学校から帰る人たちを見てると、たまにいるでしょ。ああやって相合傘して帰ってるカップル」

「ああ……いるな」

「二人で一本の傘に入って、くっついて歩いてるの。すごく幸せそうで、見ているだけで胸がキューってなって、こっちまでちょっと幸せな気持ちになれるの」

「……そういうもんか?」

「ならない?」

「ならないな。知らないカップルが相合傘してても、仲良いなーくらいにしか思わないし。公共の場であんまりイチャイチャしてると、ちょっとうっとうしいとさえ思うかも」

「ふふっ……未萌と同じようなこと言ってる」

「逢ヶ埼さんが?」

「うん。人がイチャイチャしてるの見て何が楽しいのー? って。愛葉くんと同じようなこと言ってた」


 恋ヶ淵さんは楽しそうにクスクスと笑ったあと、再び雨の向こうへと視線を向けた。


 その横顔を、俺はなんとなく見つめる。誰とも知らない他人の幸せを見て、自分まで幸せな気持ちになる。やはり、俺には理解できない感覚だった。


「……私って、ちょっと変なのかな?」


 恋ヶ淵さんが、ぽつりと呟いた。


「私ね、人の恋の話とかを聞くのもすごく好きなんだ。誰かに好きな人ができたとかね、付き合うことになったとか。そういう話を聞くだけでワクワクドキドキして、すごく興奮するの」


 それは知っている。恋バナを聞いて目をキラキラと輝かせ、頬を真っ赤にしていた姿を、俺は隣の席でもう何度か目にしているのだから。


「未萌にもよく笑われるし。自分のことでもない知らない誰かのことなのに、なんでそんなに喜べるのって」


 恋ヶ淵さんは少し照れ臭そうに笑いながら、こちらを見て首を傾げた。


「そういう私って、やっぱり変なのかな?」

「いや、変だとは思わないよ。俺にはよく分からない感覚だけど、他人の幸せを見て、自分まで幸せな気持ちになれるっていうのは……素敵なことなんじゃないか」


 それはきっと、俺にはできないことだ。相合傘の二人を見たって、俺には何の感情も湧かなかった。恋なんてしても傷付くだけだと、今でもどこかで思っている。


 恋ヶ淵さんという存在に目を惹かれたのは、俺が持っていないものを、彼女が持っているからなのかもしれない。


 恋ヶ淵さんは少し驚いたような顔で俺を見つめていた。やがて、その頬がほんの少し緩む。


「……そっか」


 小さく、それだけ呟いた。


 なんだろう。急に照れ臭くなってきた。そもそも俺は、今日初めて話した女子相手に何をこんなに真面目に語っているのだろう。


「じゃ、じゃあ俺、そろそろ帰るわ」

「あ、うん」


 逃げるように鞄から折り畳み傘を取り出す。


「逢ヶ埼さんとの勉強、頑張って」

「ありがとう。愛葉くんも試験勉強、頑張ってね」

「ああ。じゃあ、また明日」

「うん。また明日」


 傘を開き、雨の中へと一歩踏み出す。傘を叩く雨音を聞きながら、俺は校門へ向かって歩き始めた。


 ほんの数分。ただ、それだけの会話だった。


 それなのに、恋ヶ淵さんと初めて言葉を交わしたその時間が、なぜかいつまでも頭の中に残っていた。

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