エピローグ
香術局の一角。
窓を開けると、柔らかな風が流れ込んできた。乾燥させた花弁と、蒸留した精油。幾重にも重なった香りが、室内に静かに満ちている。
ミアは調合台の前で小さく息を整えた。指先に神経を集中させる。ほんの一滴——それだけで、香りは変わる。慎重に、けれど迷いなく、滴を落とす。
次の瞬間、ふわりと空気がほどけた。
「……いい香り」
思わず声が漏れた。
やわらかく、あたたかく、どこか懐かしいような香りだった。
あの日、母が胸に抱いていた想い。
母が守ろうとした未来。
言葉にはできないものが、確かにここにある気がした。ミアは、そっと目を閉じた。
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夕刻の庭園には、長い影が落ちていた。白い石畳の小径に立つその影は、もう見慣れたものだった。
「レオン様」
名を呼ぶと、彼はわずかに視線を上げる。
「遅かったな」
「調合が、少しだけ長引いてしまって」
言葉を交わしながら、自然と隣に並んだ。
それがいつの間にか、当たり前になっていた。
「今日はどんな香りを作った」
「少し、試してみたいものがあって……」
説明しながら、ミアは小さく笑う。レオンは黙って聞いていた。時折、短く言葉を挟むだけだったが、それでも不思議と会話は途切れなかった。
風が吹き、花々の香りが二人の間をすり抜ける。ふと、指先が触れそうな距離になる。けれど、触れない。その距離が、今は心地よかった。
「……順調そうだな」
「はい。まだ未熟ですが、少しずつ……前に進めている気がします」
レオンは何も言わなかった。ただ、わずかに目を細める。
「そうか」
それだけだった。けれど、その一言に込められた温度に、ミアは嬉しくなった。
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ある日、ふらりと訪れる影があった。
「忙しそうだね、ミア」
柔らかな声に振り向けば、アレックスが立っていた。国王としてではなく、ただの"兄"として訪れるときの、あの穏やかな表情で。
「アレックス様……!」
「お兄様でも、いいんだよ」
アレックスは、からかうように笑う。
周りに人目がないときは、こうやって気さくな態度で接してくれる。
「無理はしていないかい?」
「はい、大丈夫です」
自然に言葉が返った。短い会話だったが、その時間はやさしくてあたたかかった。
「何かあったら、いつでも頼ってくれ」
「……はい」
もう、その言葉を遠慮なく受け取れる自分がいた。それが、少し嬉しかった。
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離宮から届く手紙は、決して多くはなかった。けれど、途切れることもなかった。端正な筆跡に、簡潔な言葉。それでも、そこに込められたものは確かに伝わってくる。今日の体調のこと、庭の花の様子、ほんの些細な日常のこと。
ミアはその一通を、しばらく胸に抱いていた。
それから筆をとり、返事を書く。
香術のこと、庭園のこと、自分が見た景色のこと。少しずつ言葉を重ねていく。離れていても繋がっていると分かる——その距離は、穏やかで、確かなものだった。
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夕暮れの庭園に立ち、ミアは目を閉じた。風が、香りを運んでくる。花の香り、土の匂い、遠くで焚かれる香の残り香。そして——自分が生み出した香り。いくつもの層が重なり合い、ひとつの世界を形作っていた。
人の心も、きっと同じなのだろうとミアは思った。迷いも、痛みも、選択も——すべてが重なって、今がある。
胸の奥に、あたたかなものが広がる。もう、迷わないわけではない。それでも、自分で選び、自分で歩いていく。その先にどんな未来が待っていたとしても。
ふと気配を感じて、ミアは目を開けた。振り向かなくても分かる。すぐそばに、同じ方向を見ている人がいることを。
ミアは、小さく微笑んだ。
夕陽が沈み、夜が訪れる。それでも、香りは消えない。やさしく、あたたかく、寄り添うように——まるで、幸せをそっと包み込むように。




