全ての行動の意味は心の深い所に沈んでる
けたたましいアラーム音に、掛布団と敷布団の間から手が伸びる。
白く細い手は、小刻みに震え、音の出処を探す。
指先にぶつかった端末は、アラーム音と共にバイブレーションが機能していたが、その指先は迷うことなく端末を掴み、画面を見ることなく音を切った。
「っ……体、痛い」
掛布団から顔を出したサクは、乱れた前髪の奥で眉を寄せていた。
枕の上には癖の強い髪が広がっている。
見上げた天井には見覚えがなく、低くくぐもった声が漏れた。
関節という関節が軋み、筋肉という筋肉が引き攣る感覚に、奥歯を噛みながらも起き上がるサクは、画面が真っ黒な端末を見下ろす。
ぼんやりと焦点の定まっていなかった黒目が、ゆっくりと時間を掛けて焦点が合わさる。
「あぁ、監獄島」
噛み締めるように吐き出し、端末を手に取る。
画面の電源を点ければ、明るくなった画面に大きく現在の時刻が表示された。
六時半を回った頃で、サクは小さく息を吐く。
昨日から住み込みで看守の仕事をすることになり、監獄島へやって来た。
迷子になったり、常軌を逸したような歓迎ゲームもしたが、監獄と呼ぶには施設が充実している。
住み込む場所は軽いマンションのような造りで、家具まで備え付けられていた。
天蓋付きのベッドの上で胡座をかいたサクは、軋む体を上へ伸ばす。
疲れではない。
もっと根本的な、原始的な痛みだ。
「……運動不足だな」
関節痛と筋肉痛。
普段使わない部位を使えば、自然と翌日に持ち越されるであろう痛みだ。
原因は自分自身で良く理解していた。
どれだけ反射神経が良いとしても、本人の体力や筋力などには限界があるのだ。
サクの場合には、翌日にその限界が襲い掛かる。
体力も、それに同じだった。
軋む体を動かし、ベッドから降り立つサクの顔色は、いつも以上に優れない。
元々白い肌が、今日は青白かった。
一歩足を踏み出すだけで、筋肉という筋肉が悲鳴を上げ、膝を折り曲げれば崩れ落ちそうになる。
久々の感覚に、清々しい朝とは真逆の、深い溜息が部屋に響いた。
***
「あー、サクチャン?」
看守事務室のデスクで、突っ伏すようにして動かないサクを見て、ツヴァイが声を掛けた。
おずおず、と言えばいいのだろうか。
そんな気の使い方だったが、サクは顔を上げない。
真っ黒な髪がデスクの上に広がっている。
「昨日看守長が言ってたのは、こういうことか」
一人納得したような声が、サクの頭上で響く。
昨日、歓迎ゲームと称して自分を殺してみろと煽ったサクだが、見事全ての攻撃を避け切ったが、全ての仕事終わり、看守長からは「湯船に浸かって、マッサージをしてから寝なさいね」と声を掛けられていた。
つまりは、翌日の今日、こうなることを見越していたのだ。
サク自身もそれを思い出したのか、ゆっくりと首だけでツヴァイの方を見て、ソーデスネ、と言う。
抑揚のない声は平坦で、何を考えているのか分からないものだ。
眉根を寄せるサクを見るツヴァイは、枕にしていた腕を突っつこうと手を伸ばす。
ガタッ、ガタタンッ、と大きな音を立て、サクは回転椅子から転がり落ちんばかりに、ツヴァイから距離を取る。
長い前髪の隙間から覗く瞳は、剣呑な色を映していた。
「……何をしているんだ、お前達は」
ひたり、と壁に背中を付けたサクが、声に反応してそちらを見れば、出入口にはハジメとエルバがいた。
呆れ顔のハジメは眼鏡を押し上げ、腰を低くしているサクと、指先を突き出した状態で固まるツヴァイを見比べる。
「いやぁ、ここまで拒絶されるとは思わなかった」
「痛いんです。触られたら痛いんです」
肩を竦めながら残念がるように言うツヴァイだが、カラカラとした笑い声を漏らす。
サクの方は、威嚇するように眉を寄せ、口を真横に引き、犬歯を見せていた。
触られなくとも、勢い良く椅子から立ち上がり、素早く壁際まで移動した時点で、筋肉も骨も悲鳴を上げている。
仕事を中断して何をしているんだ、とも思うが、ハジメはそれを溜息一つで終わらせ、持っていたファイルをサクのデスクに置いた。
積み上げられたそれは、看守事務室の直ぐ脇にある資料室から持って来たものだ。
「何ですか、それ」
腰を元の位置に戻したサクが、置かれたファイルを指差し、小首を傾げた。
瞬きの回数も増える。
「昨日見せた資料は簡易的なものだからな。正規の資料を持って来た」
取り敢えず時間がある時にでも目を通しておけ、と言うハジメに、サクの瞬きが終わり、ゆっくりと歩いてデスクに戻る。
ハジメよりも遥かに多いファイルを盛っていたエルバもまた、それをサクのデスクに置いた。
これ全部読むんですか、とは言わない。
この場所に来るよりも前から、文字を読むこと書くことに苦痛を覚えたことはない。
知識を取り入れることにも、どちらかと言えば貪欲な方で、知的好奇心は多い方だった。
これくらいなら、と素直に受け取ることが出来る。
自身の部屋に一部ならば持ち帰ることも許可されれば、更に読み込むスピードは上がるだろう。
既にパラパラと開いているサクを見て、ハジメは満足そうに頷いている。
この場にいるツヴァイやエルバに、特別サボリ癖があったり、仕事が出来なかったりするわけではない。
だが、サク程の勤勉さはなかった。
ツヴァイならば、大体のことをそれなりにこなし、結果を出すことが出来る。
元来器用なタイプだった。
エルバならば、見た目よりも実際には一回り以上実年齢が上で、経験も豊富だ。
それ故に、それを生かしていける。
しかし、結果は残せど、実力はあれど、根が真面目なハジメからすれば、サクのようなタイプが一番好ましい。
知的好奇心だとしても、知識を得ることに貪欲で、過程と結果を天秤に掛けることなく両方を手に取れる。
同じ日本人として、性質が似ていた。
資料を捲るサクを見ていたエルバが、サクの制服の裾を摘み、ちょいちょいと引く。
開いたままの資料をそのままに、サクが自分よりも下にあるエルバの顔を見下ろし、はて、と首を捻って見せる。
傾いた方に流れる前髪が、その顔を明るみに出す。
「もうそろそろお昼だけど、サクちゃんはどうするの?」
大きなリボンを付けた二つ結いの髪を揺らしながら、疑問を投げ掛けるエルバ。
一緒にご飯を食べよう、と誘っているのだろう。
それがサクに正しく伝わっているのかは置いといて。
「そう言えば、囚人の食事配膳は専属の料理長さんがしてるんですよね」
「うん。調理から配膳、お片付けまで。食に対することならお任せあれって本人は言ってるよ」
まだ見たことのない料理長を思い浮かべ、サクは資料を閉じた。
話に聞けば、看守専用の食堂もあるようだ。
監獄内と寮内の両方に作られており、朝昼晩の食事の面倒を見てくれる。
何なら、時間外の夜食もおやつも用意してくれるくらいだと言う。
「サクちゃんも……」
食堂に行こう、と誘うはずだった。
未だ時間はあるものの、誘う分には問題がないと、自身の腕時計を見おろしていたハジメも、サクの行動には目を丸める。
ツヴァイに関しては、仮面で表情は分からないが、やれやれとでも言うように首を振った。
「じゃあ、ボクは0046の所に行ってきます」
デスクの引き出しから、いつ補充したのか疑問に思わせる簡易携帯食料を取り出したサクは、そう言って身を翻す。
看守事務室内にある、小さな冷蔵庫の中からは、水を取っていく。
バタンと音を立てて閉じられた扉を見て、エルバが口を開いたままだった。
何とも言えない顔をして眼鏡を押し上げるハジメもいたが、唯一、ケラケラと笑い声を上げていたのはツヴァイだけだ。
***
もそもそと携帯食料を咀嚼しながら、昨日よりも早い時間で辿り着いた扉の前。
閂を外し、錠前を外し、暗証番号を打ち込む。
面倒臭い、という呟きは誰にも届かない。
暗い階段を降りる時には、上着のポケットに入れたライトを取り出して足元を照らす。
階段を下りていくサクの足取りは重い。
壁に手を当てて、一歩を噛み締めるように、踏み締める。
階段を下りるのに掛かった時間は、昨日よりも遅い。
関節痛と筋肉痛が尾を引いている。
「あれ、看守さん。どうしたの?」
カチャリと金属音が響く。
手の隠れた長い袖ごとスプーンを手にしていた囚人番号0046が、サクを見た。
足元を照らしていたライトが、0046に向けられれば、僅かに目が細められる。
サクは、未だにもさもさと携帯食料を口に含んでおり、何か言葉を発することはない。
唇に挟まれ、揺れる棒状の携帯食料を見て、0046は楽しそうに笑った。
その携帯食料は、サクが日本からわざわざ自分の手で持ち込んだもので、0046にも見覚えがあったのだろう。
「俺、それのチョコレート味が好きだけど。看守さんは?」
くすくすと鼓膜を擽るような笑い声に、サクは、鉄格子の前に腰を下ろす。
制服が汚れることには頓着しないのか、何を引くことも汚れを払うこともなく座った。
流石にタイトスカートなので、胡座はかかないが、横に流すように足を折る。
もそもそと噛んでいた携帯食料を、ポキッと軽い音と共に折り、口の中の残りを飲み込む。
ごくりと上下する喉を見て、0046が僅かに目を細めていた。
「ボクのはチーズです。チョコレートもありますけど、胃に入れば全部同じですよ」
「不健康な人の言い分だね」
「……放っておいて下さい。ボクからすれば、囚人がそんなご飯食べてることの方が驚きますし、マジかよって感想です」
持って来ていた水の蓋を開けるサクの言葉に、0046の視線が食事に向けられる。
未だに柔らかな白い湯気が立っているそれは、本日のお昼ご飯だった。
焼き立てらしい白パンに、シチューにサラダ。
三角パックの牛乳まで添えられている。
給食かよ、という突っ込みはサクの心の中だけで留まった。
「料理長さん、本当に料理だけが好きだからね。お陰様で、囚人でも料理長さんに手を出す奴なんていないよ」
へぇ、とサクが感心したような呟きを落とした途端、鉄格子の隙間から手が伸びて来て、千切られた白パンが、サクの口に突っ込まれる。
顎をこじ開けるような突っ込まれ方で、もふ、と妙な呻き声が出た。
何も言えずに、突っ込まれた白パンを咀嚼するサクには、眉間の皺が消えていく。
ふわふわとした食感のそれは、やはりまだ温かい。
噛み締めたそれを飲み込んだ後には、眉間の皺が戻り、細められた黒目が0046に向けられる。
「何するんですか」
「看守の人達は基本的に、俺達と同じタイミングでお昼を食べて、俺達が食べ終わる時に来るんだよ」
口元を拭うサクに、スプーンを向ける0046。
何が言いたいのか分からないサクは、手にした携帯食料をベリベリと音を立てて開ける。
「看守さんは変だね」
昨日と同じで、という声は、0046の心の中だけで呟かれたが、サクにはしっかりと聞こえていた。
0046の人好きのするような笑顔を見たサクが、静かに目を逸らしながら携帯食料を咀嚼する。
自分の食事が終わっても、0046が「ごちそうさま」と言うまでは、鉄格子の前に座り続けていた。