ぶつかり合うことすらままならない
鉄拳制裁、という言葉を思い浮かべるサクは、自分自身の反射神経に振り回されるように動き回っていた。
しかし、どの動きをとっても素人同然だが、紙一重で最小限に止めようとするものだ。
振るわれる拳の風圧には、時折ギュッと強く目を瞑る。
「生きるってことは、素晴らしいこと、よ!」
ヒュン、と空気を切り裂く拳。
真っ直ぐにサクの鼻っ柱を叩きおろうと突き出されるそれに、言動の不一致、という言葉を続け様に思い浮かべることが出来た。
「……はぁ」正面から迫る拳を、腰を引きながら避けるサクの相槌は、輪郭が薄れており気のないものになっている。
「どんなに可愛らしく、丁寧な挨拶が出来たからと言って、私は貴女のその考えは許せない」
「……此処に居る人は、大抵そう言いますね」
「当たり前よ。ドイツもコイツも、生きる死ぬって言うのを身近で見て実感してる」
「……ボクも実感して、死にたいと思って実行してるんですけどね」
淡々と会話を続けているが、その合間合間に拳が飛び、それを避けるということを延々繰り返されている。
寝癖で大きく外側に跳ねた黒髪を揺らすサクは、徐々に面倒臭そうな、うんざりとした顔付きになっていく。
形の良い眉が眉間へと寄り、小さなシワを作っていた。
ふっ、と短い息と共に突き出される拳を、腰を大きく逸らすことによって避けたサクは、そのままの状態で「あー」気だるげな唸り声を上げる。
背中を反ったままのサクは、腰に手を当てて言葉を続けた。
バサリと重力に合わせて下を向いた後ろ髪も前髪も、サクの表情をはっきりと見せていたが、ニーナからは確認出来ない。
「ニーナ先輩は生きたいんですね。生きて、いたいんですね」
長く深い溜息が吐き出される。
「何でですか?」
起き上がり小法師のように勢い良く背筋を戻したサクは、長い前髪の隙間から黒目を覗かせてニーナを射抜く。
顎を斜め上に突き上げるように首を傾ける。
薄らと唇の開いた様子は、挑発的にも見えた。
「『何で』?」
「……ボクが死にたいと思い立ったのに理由があるように、ニーナ先輩にも理由があったのでは?ボクの理由に納得出来ないように、ボクもニーナ先輩の理由に納得出来るか出来ないか、考えてみたって良くないですか?」
首が座っていない赤子のように首を、カクン、音を立てて傾けるサク。
瞬きを長く二回。
返答を待っていたが、輝く翡翠の瞳を見開いたままニーナが固まっていた。
完全に動きを止め、静止している。
足裏を地面に固定でもしたかのようにびくともしない姿に、片眉を上げたサク。
「ニーナ先輩?」訝しげなサクの声。
動いたのはサクの方で、片腕を首に引っ掛けて近付く。
名前を呼びながら、下から覗き込もうとするサクの目の前に、白い手袋が映る。
「……御早う御座います」
深い黒の瞳がゆらりと上を向く。
鏡のように目の前の手袋から、その手袋の持ち主を映す。
かっぽり、相変わらず間の抜けた音がする。
「看守長」感情を削ぎ落としたような声音で吐き出されたそれに、兎の被り物が僅かに浮き上がり、そして沈む。
首を竦めた看守長は、ニーナと同じで早朝から看守服を着込んでいる。
詰められた襟を見るサクの目は細くなり、唇も真横に引き結ばれた。
しかし直ぐに「ハジメ先輩も、御早う御座います」体を大きく横へ傾けて、看守長の後ろに控えていたハジメを見付ける。
揺れる前髪を見たハジメは短く「あぁ」と頷き、挨拶を返すが、その格好はジャージだ。
日本では有名なブランドのジャージを着込んでおり、首元には真っ白なタオルが引っ掛けられている。
完全に早朝ランニングの途中だ。
「オイ、ニーナ」
ハジメが前に出る。
額には僅かに汗が滲み、それをタオルで拭いながらニーナを見た。
ニーナの目はハジメを映し「何」短く返す。
「検診。あるだろ」
ハジメもまた短く告げると、有無を言わせずにニーナの襟首を引っ掴む。
シャツも上着も皺になっているが、掴んだ状態から引っ張って行く。
抵抗もなしに引き摺られるニーナの視線は、未だサクに固定され、サク本人は眉を寄せて首を捻っていた。
「……」
「……」
ぐりん、ホラー映画さながらの勢いで首を捻ったサクが看守長の方を振り返る。
自分よりも背の高い看守長を見上げる形だ。
口から浅く息を吐き出し、目を逸らしたサクが身を翻そうとし「じゃあ、ボク、もッ」言葉の最後が濁る。
ニーナと同様に襟首を掴まれたサクが、顔を歪めて再度振り返った。
「……何ですか?」
「うん」
兎の被り物に埋め込まれた赤い瞳が輝く。
無機物の輝きは冷たさを孕む。
「……ニーナ先輩のことですか?」
「あぁ、まぁ、うーん」
兎の後頭部に手を当てた看守長。
髪も何もあったもんじゃないそれを、ガシリと爪を立てて揺らす。
「……言っておきますけど、ボク、別に喧嘩売ったりとかしてませんよ。買ってもいないし」
「え?あぁ……」
襟首に引っ掛かったままの腕を払う。
弾かれた手は宙を漂い、ゆっくりと落とされる。
「でも、仲良くする気もサラサラありませんよ。死にたいと生かすって、水と油じゃないですか」
気怠げに首の骨を鳴らしたサク。
絶対嫌だ、無理だ、と口にして立ち去ろうと片足を下げるが、代わりと言わんばかりに兎の被り物が近付く。
グン、突然突出された頭に、サクの喉が引き攣った音を立てた。
「違うよ」
「……はい?!」
「ニーナは、生かせなかった子だ」




