願うだけでは叶わないので行動すべし
「看守七人に対して囚人五十六人って。そもそも、ボクの番号39ですけど。他は」
此処がお前のデスクだからな、と座らされた回転椅子の上で、紙の束を抱えたままのサクが言う。
エルバも回転椅子に座り、ゴロゴロと音を立てて椅子に座ったままサクの元へやって来る。
ツヴァイは、自分の席から様子を眺めていた。
サクの真横のデスクを使っているハジメは、回転椅子に座り、眼鏡を押し上げる。
その間に、選んだ言葉を吐き出す。
「辞めたな」
「後は殉職だね!二階級特進!」
ハジメの言葉に、半ば被せるように言い放ったのはエルバだ。
真横から伸びてきた腕は、サクの鼻先を掠った。
二階級特進は、殉職の別称として使われることがあるのだが、少なくとも、看守に二階級特進という制度はないだろう。
目を細めたサクは、目の前の紙の束を見下ろす。
「じゃあ、これは何ですか」
ぺろり、と捲り上げた紙の束は、看守長で見たものと酷く似ていた。
それに応えるのは、勿論、教育係に任命されたらしいハジメであり「覚えろ」の一言だ。
中身は見れば分かるもので、全囚人のデータである。
囚人番号順に並んだそれは、ハジメがまとめたものであり、その際には、エルバから「日本人って勤勉よね!」と言われた。
そんなことを知らないサクには関係の無い話ではあるが、捲っていけば、その後に出てくるのは、囚人の生活スケジュールや元看守のデータだ。
「ここから、取り敢えず選んでお相手してみる?」
エルバが紙の束を覗き込みながら首を捻る。
囚人五十六人に対して看守は七人。
一人当たり八人を担当することになる。
「でも、サクチャンもう担当一人いるだろ」
なぁ?というツヴァイの声に、はた、とエルバとハジメが目を瞬かせる。
声を掛けられた本人は、そうですねぇ、なんて気のない返事を返しながら、囚人データを見詰めていた。
熱心に見つめる項目は、囚人の罪状とそれに関してのものだ。
気になった囚人がいれば、そのページを指の間に挟み込みながら、また次のページを捲る。
真っ黒で光のない瞳は、真剣だ。
横からはエルバが「誰の担当してるの?」とツヴァイに問い掛けている。
「囚人番号0046」
ツヴァイの言葉に、ガタリと音を立ててエルバが回転椅子から飛び降りる。
ハジメも自分の仕事をしていたが、勢い良く首だけでサクの方を見た。
そんな中で、サク本人だけが、静かに一定のペースで紙の束を捲っている。
「アイツ?!この前看守辞めさせたばっかりなのに、新人に任せるの?!」
「もう任せてるから確定だな」
「日本人なら他にもいただろう」
エルバ、ツヴァイ、ハジメ、と口々に言うが、その言葉の意味が分からなかったサクが、やっと紙の束から顔を上げた。
揺れる黒髪の間から覗く瞳は、キョロキョロと三人の顔を見渡す。
パチクリと音がしそうな瞬きの後に、緩やかに細い首が傾けられた。
「別に日本人とか何でもいいですけど。取り敢えず、殺傷率が高そうな人を……」
「え?何?殺傷?何?」
エルバの手が伸びてきて、サクの肩を掴む。
ガクガクと揺らされるまま、紙の束を再度捲り、あれ、と手を止める。
揺らされたままだ。
「この人良いですね。後は、ここら辺」
ホチキス止めがされている紙の束を引きちぎり、はい、とハジメに手渡される。
いきなりの行動に、眼鏡の奥の瞳が丸くなった。
差し出された引きちぎられた紙を見て、丸まった目が急激に細くなる。
いつの間にか近付いていたツヴァイも、ハジメと一緒になって覗き込んでいた。
次の瞬間には、その怪しい仮面の奥で、肺にあったであろう息を全て吹き出す。
サクは未だに揺らされている。
「サクチャンってあれだろ」
ガクガク、前後左右に揺すられ続けるサクに向けられた指先は、黒い革の手袋で包まれている。
残像を生み出し続けるサクの黒目が、指を差しているツヴァイに向けられた。
「あぁ、だってボク……」
「みーつけたっ」
語尾に音符でも付きそうな声が、気だるげなサクの声を掻き消した。
そうして、エルバがその声にいの一番に反応したがために、勢い良く手が離される。
後方に倒れる体は、ハジメが支えた。
無気力に無抵抗に支えられた状態のサクが見たのは、回転椅子から飛び降りて、人影に飛び付くエルバと、その歪な人影だ。
主に頭部が歪だった。
ぴょんと天井を向いた長い耳に、ぴんと真横に伸びたヒゲ。
頭部も顔面も白一色の被り物は、数時間前にサクが見たものと変わらない。
無機質な赤い目が、サクに向けられているような気がして、黒目を閉じては開く。
「ノル!どうしたの?暇なの?知ってる!」
無邪気にその兎の被り物をした人物――看守長に抱き着くエルバは、可愛らしい桃色の唇からはやけに辛辣な言葉を吐いている。
エルバからはノルと呼ばれている看守長は、そんな言葉を気にした様子もなく、カラカラと笑う。
「暇じゃないさ。私はいつだって忙しいし、今日はサクちゃんを紹介するために……」
「自己紹介なら済んでるが?」
サクの体を支えたままのハジメが、もう片手で眼鏡を押し上げれば、快活だった笑い声が消える。
ピタリと止まった声に、全員の視線が向けられていたが、聞こえたのは、被り物の奥から吐き出される深く長い吐息だった。
蛍光灯を見上げるように真上に向いた赤い瞳。
被り物から伸びた、人間らしい喉元が露出しており、歪を通り越して奇妙だ。
「まぁ、じゃあ、行こうか」
白い絹手袋で包まれた手を広げ、親指だけを立てた看守長は、またしても、はっはっと快活な笑い声を立てて身を翻す。
腰の上辺りではマントが揺れ、エルバは既に、看守長に抱き上げられていた。
黙っているサクに、溜息を吐くハジメに、笑うツヴァイと、三者三様の反応をしながらも、全員が示し合わせたように立ち上がる。
サクは猫背でマイペースに、ハジメはそんなサクを後ろから押すように背筋を伸ばしキビキビと、ツヴァイは更に後ろから後頭部で腕を組み笑いながら、そうしてカルガモの親子のように廊下を歩いている五人の看守の姿は、非常に奇妙なものだった。
***
RPGゲームにでも出て来そうな闘技場のような扉を前に、サクがほう、と顎に手を添えた。
木製で出来た扉をノックしてみても、その奥まで音が届いている気がしない。
擦れた拳を見て目を細めるサクに、ツヴァイが肩を竦め、ハジメが扉を押し開ける。
開けた視界の先は、やはり、RPGゲームの闘技場のようになっていた。
円形の広場に、その周りを円形の高い壁がそびえ立ち、壁の部分が客席になっていれば、より一層闘技場に近くなる。
「囚人同士で殺し合いとかするんですか?」
顎に手を添えたままのサクが、小首を傾げれば、ハジメが首を振る。
サクのように額に添えられた手は、頭痛を抑えているようにも見えた。
「する訳ないだろう。それこそ事件だ」
「そうですね。事件ですね」
壁が土色で、粉っぽく見えるのが、ファンタジーで、サクはふらふらと近付いていく。
足元は石畳になっている。
「ここで死闘を……」という独り言には、ツヴァイがカラカラと笑っていた。
「はいはいはーい。全員ちゅうもーく」
パンパンと両手を打つ音に、間延びした声。
壁を眺め、指先で感触を確かめていたサクは、首だけで声の方を振り返る。
声の主は看守長で、相変わらずその腕の中にはエルバがいて、その周囲にはサクが視界に入れていなかった複数人の人影。
ニ、四、六、分かるだけ数えたが、その場にいるのは二十人を超えた囚人だ。
それぞれが、黒や黒と白のボーダーの服を着て、鎖やら手枷やら拘束具やら鉄球やらを付けている。
異常な光景だが、サクは驚いた様子もなく、ぼんやりと様子を見ていた。
「うんうん、思ったより集まったかな」
満足そうに動く被り物は、いつの間にかライオンにすり替わっている。
囚人達も驚いた様子はなく、それぞれ、思い思いに話を聞いたり、聞き流したり。
「それじゃあ、いつも通り、新人看守歓迎ということで、ゲームをしようか」
新人看守、という言葉で、サクの眉が動く。
エルバを抱えたまま振り向く看守長は、片手をちょいちょいと手招きさせて、サクを呼び付ける。
囚人と看守の間に歓迎もクソもないだろう。
サクの心情はそんなものだった。
「私の時は大食いだったよ!勝った!」
「俺の時にはトランプの柄当てだったな」
「……俺は剣道の試合だ」
エルバ、ツヴァイ、ハジメ、と順々に自身が新人だった頃を思い出している。
何だそれは、と顔を歪めているのはサクだけで、長年いるような囚人に至っては悪い思い出なのか、一部、心做しか顔色が優れない。
「ハンデとしては看守の得意分野なんだけど」
被り物の瞳がサクに向けられており、距離を詰めたサクは、ぼんやりとそれを見上げる。
黒目が閉じたり開いたりを繰り返し、項を一撫でした後は、囚人の方を見た。
先程の紙束の中から、自身が看守として仕事をしたいと選んだ人物もいる。
サクはハッキリ言って控えめに生きてきたわけで、例えば、長所と短所を書く時には短所ばかりで長所が埋まらないような子供だった。
そう、よく言えば控えめで、悪く言えば端的にネガティブな子供だったのだ。
胸を張って得意と言えるのは、語学くらいなもので、現に此処に来ても常時使う英語も日本語訛りが存在しない。
数字にしろツヴァイやエルバ、ヌルやノルがドイツ語、スウェーデン語と直ぐに理解出来たことが証拠である。
しかし、やはり控えめ……ネガティブなサクは、出身国が広いこの場でそれはない、と首を振った。
少しばかり考えるように足元を見詰めるが、ネガティブで目的一つでこの場に足を踏み入れたサクには、出すべき答えも一つ。
「それなら、ボクを殺せた人が勝ちで良いですよ。ボクが生きてればボクの勝ち。闘技場みたいな場所には、ピッタリ」
口元を細い指先で抑えながら言うサクに、控えていた他の看守が驚く。
目を見開き、息を飲み、肩を揺らす。
囚人達も、それぞれが同じような反応をして、顔を顰めたり、恍惚とした笑みを見せたり。
ただ一人、看守長だけが冷静だった。
嫌に毛の艶が良い、タテガミが豊富なライオンの被り物の奥で、サクを見下ろしている。
指の隙間からは、細く釣り上がった唇が見え、看守長は、やはり被り物の奥で、同じように笑っていた。