人生には山あり谷あり楽あれば苦あり
「ふんふんふーん、ふふんふん」
鼻歌交じりに開けた扉、その扉の奥で待っていたツヴァイは、嫌に機嫌の良いサクを見て僅かに息を飲んだ。
その仮面の奥では、恐らく、目を丸めていることだろう。
「な、何だ。随分御機嫌だな。足元見てなくて、階段でも転げ落ちたか?」
閉じた扉に閂を嵌めながら問い掛けるツヴァイだが、サクは鼻歌を止めずに首を傾ける。
その眉間には、小さなシワが生まれた。
何を言っているのか理解出来ていない顔だ。
「楽しみです。今日が命日かも知れません」
「何が楽しみなのかサッパリ分からないんだけど」
歪なリズムを刻み、危うい足取りのサクを見て、ツヴァイは仮面の奥で息を吐く。
額に当たる場所の仮面を撫で、道も分からない癖に先へ進もうとするサクの腕を取る。
「そっちじゃないから」
***
「女の子だ!」
同じようなコンクリートの廊下を歩き続け、歩き続けること三十分弱、サクとツヴァイは看守事務室にいた。
曰く、看守が仕事をするための部屋だ。
軽い扉を開ければ、直ぐに中にいた男女二人が振り向き、小さな女の子がサクを指差す。
桃色の長い髪を、二つに結い上げた女の子だ。
回転椅子から勢い良く飛び降り、足音を立てて駆け寄って来る。
ツヴァイは、サクの頭を軽く叩き、扉を閉めた。
「わぁ!新人ちゃんだよね!ノルちゃんが言ってた!初めまして!!」
てっ、と出された小さな手の平を見下ろし、サクはのんびりと握った。
身長百五十半ばのサクから見ても、その女の子の身長は低い。
ブーツでお互いに嵩ましをしていても、その身長差は見て取れるのだ。
「……小さいですね」
ハイライトが大量に入ったような、純粋無垢とも言える瞳がサクを見上げ、こてん、と小首を傾げる。
小動物みたい、と心の呟きをしているサクの斜め後ろでは、仮面の奥から生温い視線を向けるツヴァイ。
部屋の奥のデスクからは、溜息が聞こえてくる。
「小さくないよ!大っきいよ!」
「……そうです、ね」
ブンブンと上下に大きく振られる腕。
サク然り、目の前の女の子は、どう見ても未成年である。
何なら、女の子の方がサクよりも大分年下だ。
「私、エルバ!番号は11なんだけど。そっちはハジメで番号は1だよ」
エルバと名乗った女の子は、自分のデスクから離れない男の方を見た。
黒寄りの灰色に見える髪と黒縁眼鏡が印象的で、その顔を見て、サクは、あぁ、と細く呟く。
ほぼ無意識だった。
ハジメと呼ばれた男は、日本人だ。
生まれも育ちも日本人のサクにとっては、この場で最も親しみを持てる人間だろう。
ハジメの方もサクを見て、やっと、デスクから離れて近付いてくる。
「……日本人か」
「そうですね。貴方も、日本人ですね」
二人の口から溢れる言葉は日本語だ。
手を握ったまま、不思議そうな顔をしているエルバは、サクとハジメを見比べる。
「俺は看守番号1のハジメだ。この中で一番の古参だな。レイからは、お前の教育係を任されている」
問答無用でエルバの手を払い落とし、サクと握手をしたハジメ。
斜め下方向から向けられる刺々しい視線には、知らん顔をしている。
サクもまた、手を握りながら、ゆるりと事務室全体を見渡し、ハジメ、ツヴァイ、エルバと順に見ていった。
長い睫毛を揺らし、瞬きを一つ。
「日本、ドイツ、スウェーデン」
平坦な声に、今度はその場の三人が瞬きをする。
ツヴァイは全く分からないが。
「ノルとレイだから、ヌル」
一人納得するように言ったサクは、頷いた後に、後方からの拍手に振り向く。
振り向いた先には、白と黒の仮面があり、黒い革の手袋をしたまま、その両手を打つツヴァイ。
それを見たサクが、ハジメの手から力を抜く。
同時にハジメも手を離した。
「サクチャンは、賢いな」
「褒めてますか?何となく、何故でしょうか、馬鹿にされている気分です」
ハッハッ、と笑うツヴァイが「何でだよ」と言うが、サクからの答えはなかった。
緩やかな拍手も、笑い声も、サクには気に入らなかったらしい。
溜息を吐き、首筋を撫でるのを見たハジメが「良く分かったな」と言ったが、それは気に入ったらしく、素直に返事をしている。
「看守にまで番号が振られてる時点で、違和感は覚えますよ」
首筋を再度撫で、胸の下で両腕を組んだサクがそう言った。
看守番号は、監獄島で働く看守にのみ与えられる番号であり、それは制服と同時に着用を義務付けられる腕章にも印字されている。
サクにも、ツヴァイにも、エルバにも、ハジメにも、赤い腕章が手渡され、それぞれ自分の左腕に付けていた。
サクは39、ツヴァイは2、エルバは11、ハジメは1。
看守長もまた、0の腕章をしていた。
「本名は教えなくても、出身国は教えるんですね」
無表情で言ったサクに対し、三人が揃って視線を逸らす。
やはり、ツヴァイは仮面を付けているので分かりにくく、体ごと逸らしていた。
しかし、サクの言ったことが間違いではないと証明されることになる。
分かり易いところから、ツヴァイはドイツ語で数字の2を意味し、エルバはスウェーデン語で数字の11を指していた。
「ハジメは、漢数字の読みでハジメですか」
頷くハジメは眼鏡を押し上げて、サクを見下ろす。
因みに、サクは漢数字の三と九でサクの当て字方式である。
「日本語で0はレイ。同じように、ドイツ語ではヌル。スウェーデンではノル。……看守長だけが多種の呼び方となると、出身国は不明」
エルバは看守長をノルと呼んだが、ハジメは看守長をレイと呼んだ。
つまり、それぞれがそれぞれの出身国で得た数字の読み方を用いている。
数字だけと言っても、各国の言語に詳しくなければ、疑問に思うくらいで、自身で答えを導き出すことは出来ない。
看守長の出身国に首を捻るサクを見下ろすハジメも、それを理解し、目を細めていた。
元より鋭い目付きが、更に鋭くなっている。
「アイツの出身国はどこでも良いが、看守は看守長も合わせて七人。囚人は五十六人だ。初日からしっかり仕事を覚えてもらうからな」
腕を組んだまま、考えて込んでいたサクの目の前に出された紙の束。
軽く三桁はある。
そうして、紙の束を差し出したハジメの言葉に、サクの眉が歪められた。
七、とか、五十六、とか、数字を呟いている。
ツヴァイはその後ろで肩を竦めて、エルバはうげぇ、と言いたげに舌を突き出す。
「ブラック企業だ」
紙の束を受け取ったサクの呟きには、誰も何も言わなかった。