遺伝もトラウマも自分自身を支配していないと気付ける時まで
水よりも重みのある、ぬらりとした水滴が頬を伝って落ちていく。
鼻の奥を刺激する死の匂い。
ただ日々、時間の浪費の如く生きていたサクにとっては、決して慣れるはずのない匂いだった。
見開いたサクの黒目に映り込んでいるのは、精悍な顔立ちをした男だ。
真っ赤に光る目が、サクの目を射抜く。
男が伸ばしている手は、サクの頬を汚す赤色に濡れている。
その汚れた手で、サクの頬の赤を広げようとする指が、弾かれるように離れた。
汚れた頬を拭うような一陣の風が、サクの直ぐ横で起こる。
「無粋な獣もいるものだ」
「君、意識はあるかい?」
二つの声が部屋に響く。
方や、サクの視線の先、一足飛びに距離を図った男が廊下の奥で漏らした呟き。
方や、サクの直ぐ横、聞き覚えのないこもった声。
ゆらりと首を軽く傾けるようにして横を見たサクは、揺れる黒目を見せたり隠せたりする。
薄く開かれた唇からは、存外、整った呼吸が漏れていた。
「あぁ。意識もあるし、呼吸もしっかりしてる。脈拍も、うん、正常だ」
随分と毛並みの良いライオンの被り物が、無機質な瞳でサクを見、かっぽかっぽと間抜けな音と共に頷く。
脈拍を取る手は、真っ白な綿手袋に包まれている。
脈を取りにくい状態であるにも関わらず、その手は迷いなく脈を探り当てた。
状況処理を出来ていないサクだからこそ、常軌を逸した状況で、未だ正常な状態を保てている。
それは、そのライオンの被り物をした妙な人物にも理解は出来ているだろう。
それでも、変に取り乱されるよりはマシだと感じている。
「さて」ライオンの被り物が、スッと前を向く。
精巧に作り上げられたヒゲは、それこそ本物のように気ままに揺れていた。
それを、男は気に入らないように片眉を上げてみせる。
「本当にしつこいな」
男が溜息を吐いた。
軽装の男に対して、被り物の人物はやけに凝った正装をしている。
真っ白な軍服に、汚れを跳ね除ける白いマントに白い綿手袋と、正直やり過ぎなくらいだ。
清潔感のある格好と言えば聞こえはいいが、かえって仰々しさが残る。
その真っ白な上着の懐から、するりとナイフを二本取り出した。
マンゴーシュと呼ばれる短剣の一種だが、本来ならば、利き手ではない方で持ち、相手の攻撃を受け流すために使われる。
それを、被り物の人物は、迷うことなく両手で構えた。
「私は別に、お前だけを追っているわけじゃないさ」
腰を低くし、いつでも斬り合えるという雰囲気を醸し出す被り物の人物。
サクを庇うように前に出ており、玄関から廊下へはロングブーツのまま――土足のまま上がり込んでいる。
「私は基本、多忙の身だからね。お前一人に時間を掛けてるわけにも、いかなくてね!」
先に動いたのは、被り物の人物だ。
一度廊下を蹴り上げると、そのまま飛ぶように男の目の前まで距離を詰める。
ほぼ同時に二つの軌道から襲う刃物に対して、男は至極冷静に、そして最小限の動きで避けていく。
まるで曲芸でも見ているような気分になるが、ぼんやりと立って見れば見るほど、それが異常な光景だと脳が理解していく。
一度動きを止めていた脳が動き出せば、処理し切れないほどに大量の情報を得る。
決して長くない廊下の奥で、被り物の人物と男が攻防を続けていた。
殴り合いの喧嘩すら見る機会の少ないサクでは、二人の動きを全て見極めることが出来ない。
男の方が飛び退いて、廊下の奥、ダイニングキッチンの方へと向かう。
被り物の人物も、流れるように飛び込んでいく。
それを見ながら、靴を脱ぎ捨てたサクが、その二人を追いかけるようにダイニングキッチンへと雪崩込む。
自分の足に逆足を引っ掛けたサクが、タイツに包まれた膝を、床へ強かに打ち付ける。
ダイニングの中央では、残像が生み出される攻防が続く。
頭だけを持ち上げてそれを確認したサクは、ダイニングの空気を吸い込んで、噎せる。
「げほっ……っ、あ、おえっ」
死の匂い――鉄錆の臭い。
ダイニングいっぱいに広がるのは、溜まりに溜まった血の臭いだ。
異臭と呼べるそれの発生源を、確認しようと考えるよりも先に視線が動く。
動いていた黒目が、ダイニングの片隅を見て、その動きを止めた。
澄んだ黒目が映したのは、二つの折り重なった体だ。
異臭の原因はそれで、最早、体よりも死体と呼ぶに相応しい。
本来の可動域を超えた方向に、足や腕が捻られている。
赤い水溜まりは、未だ広がり、壁や家具に飛んだ血は、赤よりも黒に近い。
酸化が進んでいる証拠だ。
サクの存在に気付いていないのか、手を止めない二人を尻目に、サクが転んだ体制のまま、這うように死体との距離を詰める。
血の匂いに酔うように、視界が揺れていた。
重なった上の方の死体は、足が折れている。
肩口まで伸ばされた髪にも血がこべりついており、喉元から血が流れていた。
下敷きになっている死体は、腕が折れており、口から血が溢れている。
刺し傷や切り傷と言った外傷はほぼない。
喉元の傷も、酷く歪なもので、無理矢理爪を立てて掻き破られたようだ。
そして、両目は、まるで眠っているように閉じられている。
歪だ。
どうしようもない血の匂いには、未だ腐臭は混ざらない。
骨が折れ、流れる血の量が多いにも関わらず、その二つの死体は眠るような顔をしている。
相反するものを、無理矢理くっつけたような歪さがそこにはあった。
二つの折り重なった死体は、抱き合うような形になっており、上の死体を、下の死体が、生前、守っていたように見える。
陶器のような肌を見て、弛緩した体を見て、血の匂いを嗅いで、思考は止まった。
何故もどうしても、疑問は浮かばない。
そもそも、疑問を持って近づいた訳でもなく、最初から疑問すら浮かべられるような状況ではなかった。
とぷ、どぷ、腹の中が波打つ。
見慣れた顔が二つ、目を閉じて、まるで、眠っているようで。
顔、そう、顔だ――その死体はまるで顔だけを残すように傷一つ、返り血一つ付けられていない。
それがまた、歪だった。
「う、ぷっ」
顔をまじまじと確認して、限界だった。
揺れていた腹の中が、まるでひっくり返ったように、食道や喉を通って中身をぶちまける。
血と共に混ざる吐瀉物は、その異臭を強めた。
「うえぇっ、おえっ……げっ、ぇ」
俯いて、出せるものを出す。
昼に食べたもので、消化の済んでいないものが混ざっていた。
酸っぱい液体が流れ出ていく。
「なっ!……うぐっ」
異変に気付いたのは、被り物の人物の方だ。
ビチャビチャと吐瀉物を撒き散らすサクに気付き、男の手によって右手のナイフが弾かれる。
床に滑ったナイフを尻目に、男は転がるようにダイニングキッチンよりも先のリビングへ向かい、リビングに面したベランダへと飛び出していく。
「っ、待て!!」
弾かれたナイフを拾い、体制を整えて追いかけようとしたロングブーツが止まる。
ぎゅっ、と音を立ててブレーキを踏むように止まったと思うと、方向を変えた。
「っ、すまない。ごめんな、悪かった」
揺れる視界の中で聞く声は、酷く中性的で、男なのか女なのかも分からない。
静かな声だが、悲痛な色が滲んでいる。
手袋越しに背中に触れられ、抱き寄せられた体は、抵抗もなく傾く。
口端から流れ出るのは、胃液だけになっていた。
自身の吐瀉物に向けられていた視線が上がると、やはり、二つの死体が目に映る。
そうして、まるでそれを拒絶するように、暗転。
糸の切れた人形のように重くなるサクの体を、被り物の人物はしっかりと抱き止める。
謝罪は止むことなく、意識のないサクの聴覚には、確かに響き続けていた。




