第1話 悪役令嬢の最初の仕事は、子どもの鎖を外すことでした
「この子なら、よく働きます。泣き声も出しません」
叔父は、上等な猟犬を買ってきた日のように言った。
その後ろに、少年が立っていた。
銀の髪。大きすぎる灰色の上着。七歳、と書かれた受入書を、私は机に置いた。
左の手首に、半月の跡があった。
見覚えがある。
そう思った瞬間、知らない本の表紙が、頭の中に開いた。
白い冠。朝焼けを背にした王子。最後の巻の、黒い城。
その玉座にいた男には、同じ跡があった。
――黒冠のフィン。
彼は、この国を滅ぼす。
私は彼を道具として育て、王家を害そうとする女。
アデル・ヴェルナー。第一部の終わりで断罪される、悪役令嬢。
息を吸えなかった。
私はこの世界で、二十四年間を生きてきた。春楡領の伯爵家に生まれ、父を亡くし、叔父の用意した書類に署名することを覚えた。
その記憶は、消えていない。
そこへ、もう一つの人生が重なった。
日本で、子どもの本を作っていた。
三十二歳。最後に見たのは、事故で止まった電車の窓。
『暁の聖冠』は、入院していた友人に勧められた二部作の小説だった。
主人公たちの恋愛より、後半の魔王が好きだった。
あの男が、今、私の机の前にいる。
小さい。
挿絵にあった大きな手も、恐ろしい角もない。
指先が、青白い。
「アデル? 今日はおまえの誕生日だ。少しは嬉しそうにしなさい」
叔父が、私の顔を覗いた。
少年の足が半歩下がった。上着の下で、鎖が鳴った。
「……その鎖は」
「逃げるのでね。孤児院の者も困っていた。魔力はあるが、しつけが足りない」
私が半年後に断罪されること。
彼が十二年後に魔王になること。
今すぐ思い出したいことは、山ほどあった。
けれど、机の向こうで少年が倒れかけた。
私は椅子を蹴るように立った。
腕をつかむと、彼は頭をかばった。
「叩かない。座って」
答えはなかった。
立ったまま、私の顔を見ている。
「……椅子へ座っていいのよ」
もう一度言うと、ようやく膝を曲げた。
座面の端に、ごく浅く。
私は呼び鈴を押した。
入ってきたミラに、水と医師を頼む。
叔父の笑みが、細くなった。
「大げさだ。まず仕事を覚えさせないと」
「今日は覚えさせません」
「おまえが受け入れると署名した子だぞ」
確かに、私の字だった。
屋敷で暮らし、教育を受ける子を一人。そう説明された書類を、詳しく読まずに返した。
その結果、彼がここへ来た。
前世の記憶がなかった自分に、責任を押しつけて逃げることはできなかった。
「署名しました。だから、私が引き受けます。まず、鎖を外します」
叔父は、少し黙った。
「その子を気に入ったのなら、好きにすればいい。ただし、魔力の扱いは私に――」
「鍵をください」
私は手を出した。
今日で、父の遺言による管理委託は終わる。
伯爵位は、すでに私のものだ。叔父の指図を受ける理由を、私は今まで考えたことがなかった。
沈黙の後、鍵が掌へ落ちた。
鎖を解くと、少年は手首を握った。
押さえていなければ、また何かにはめられてしまうように。
「名前を、聞いてもいい?」
「……フィン」
その声で、知っていた結末が、急に遠くなった。
魔王の台詞ではなかった。
喉の乾いた子どもの声だった。
「私はアデル。今日は、何もしなくていい」
少年は、初めて顔を上げた。
「役に、立たなくても?」
私は受入書を見た。
金額も、魔力量も、身長も書かれていた。
好きなものは、どこにもなかった。
「ええ。まず、水を飲みましょう」
半年先の処刑台より、この子の乾いた唇のほうが近かった。
私は運ばれてきた杯を受け取り、両手で持てる位置へ置いた。




