第八話 新しい生命
――あれから数カ月。
冬の厳しい寒さがようやく緩み、風の冷たさが少しずつ丸みを帯びてきた。
城壁近くにある、あの木の枝の先がほんのりと赤みを帯び、その小さな芽吹きはまるで春の訪れを告げているようだった。
この子がお腹にいるということが発覚してから今に至るまで、いろんなことが変わったように思う。
お腹が大きくなってきたのはもちろんだが例えば嗅覚、強い匂いを受け付けなくなってしまって、診療室に入れなくなってしまった。
治癒士が定期的にお腹の子の検査をしてくれていたのだけれど、必要なものが手元になかった場合は寝室と診療室を行ったり来たりしてくれていた。
それとこれは治癒士の助手から聞いた余談なのだが、前に私が怒って治癒士を放置した時の話だ。
治癒士は私が父に己の失態を報告するために出て行ったと思っていたらしく、血の気が引いてもはや青白くなった顔で、「『斬首から蘇生する秘術』を探してくるから、私が死んだらよろしく頼む。」と言って書庫に籠っていたとのこと。
そもそも秘術は王族にしか行使できないし、神聖文字も読めないはずだし、そんな秘術があったら私の蘇生の秘密は解明されていたはずだ。
話を戻すが食事に関しても同様で、味は平気だけど匂いがだめ、というものばかりが増えて給仕長にも多大なる迷惑をかけてしまっていた。
給仕長は試行錯誤を繰り返してくれたみたいで、今度は焼きりんごを搾って出た汁を、天草から煮出した汁で冷やし固めた菓子を作ってくれた。
焼きりんごに正直そこまでこだわらなくてもいいのだけれど、その菓子は今の私でもつるりと食べることが出来て、また私のお気に入りになった。
それと、侍女からは私の雰囲気が少し変わったんじゃないかと言われた。
寝室でお腹を愛でていた時、侍女が私のその仕草と表情を見て、「なんか、急に大人になったわね。あんなにちっちゃくて可愛らしかったのに、からかう隙が無くて残念だわ。」と。
お姉ちゃん、私は大人になっても可愛いはずです。
そして、何より一番変わったのは国王である父だ。
私が公務の途中、少しでも疲れたさまを見せたりしたものならすぐに、「大丈夫か?無理はするな。わしにまかせて休んでいいのだからな。」と、いつにも増して心配してくれるようになった。
それに加えて、「今が一番大事な時期だからな。仕事より何より孫だ!」と、少しずれた気遣いをしてくれている。
まだ生まれてもいないのにこの状態ならば、いざ生まれたらどうなってしまうのだろう。
それに私、あなたの娘なんですけれども、娘よりもまだ生まれてもいない孫なのでしょうか。
……私の母もきっと、こんな風に城中から祝福を受けていたんだろうなぁ。
変わったことがたくさんある一方で、全く変わっていないことがある。
それは、相変わらず勇者を見つけることができていない、ということ。
捜索範囲はかなり拡げているはずなのに、一向に見つかる気配がないらしい。
こうも見つからないとなると……という意見も出てきているのだが、きっと大丈夫。
もちろん心配ではあるけれど、私には分かる。
彼は生きている。
「……あなたのお父様は、今どこで何をしているんでしょうね?早く帰ってこないと、この子にあなたは誰ですか?って言われちゃいますよ。……あっ、また蹴った。ふふ、今日も元気。」
寝室でお腹に話しかけていると、返事をするかのように反応が返ってくる。
たまたまなのだろうけれど、そんな風に思ってしまう。
「早く会いたいな……。」
そんな、お腹の子中心の日々を送っていたある日の朝のことだった。
なんとなく腰に違和感があるのと、妙にお腹が張っている。
……少し痛い気がする、なんだろう、ちょっと怖い。
近くで待機していた侍女に声をかけ、治癒士を呼んでもらうことにした。
駆けつけた治癒士曰く、出産が近いとのことだった。
いよいよこの子と対面出来るのか、と思うと嬉しい気持ちが湧き上がってくる。
でも、それと同時にこの違和感がこれからどうなっていくのかという不安が高まってきた。
「……お姉ちゃん。私、大丈夫かな?元気に産んであげられるかな?」
「ええ、何も心配いらないわ。あなたなら大丈夫よ。」
侍女はそう言って、私の手を強く握りしめてくれた。
それがとても心強くて、温かかった。
出産が近づくにつれて、周りが慌ただしくなっていく。
途中、父も様子を見に来て、「いよいよか。何も心配するな、わしもついているからな。」と声を掛けてくれたのだが、あまりの慌ただしさに寝室の外に追い返されてしまったようだ。
この時ばかりはさすがに、父に同情せざるを得なかった。
少しでも気を紛らわせるために侍女と他愛もない会話をしていたのだが、時が経てば経つほど痛みが増していき、押し寄せては薄れていく、ということを繰り返していた。
大丈夫、私は大丈夫、この子もきっと大丈夫……。
自分にそう言い聞かせる。
息を大きく吸い、ゆっくり吐き出す。
次の痛みに堪える準備だ。
「……そろそろ、来る……っ。」
お腹の奥に鈍い痛みが響き、思わず身体に力が入る。
「王女様、大丈夫ですよ!」
侍女の手を力いっぱい握りしめる。
女神様……どうかこの子をお守りください。
「また、来る……!」
――何度、痛みの波に耐えたか分からなくなった頃、突如として生温かいものが太腿を濡らし、ベッドを侵食していくのを感じた。
「……!お姉ちゃん、わ、私……。」
痛みと共に、恥ずかしさや申し訳なさが湧き上がってくる。
「心配しないで、大丈夫よ!これ、破水したんだわ……治癒士様!」
私の手を握りながら侍女が声を張り上げた。
「ふむ。王女様、いよいよだと思います。ここからが本番ですよ。」
光を帯びた手のひらをお腹に当てながら、私にそう告げた治癒士。
「お腹の子の状態は問題ないようです。王女様、安心してくださいね。皆、いよいよ出産が近づいているぞ。飲み水やお湯、清潔な布の準備をしっかり頼む。」
治癒士は助手にそう指示し、私の出産に向けて意識を集中しているようだった。
周囲の時間が慌ただしく流れていく中、私は必死に痛みに耐えていた。
時折侍女に差し出された吸い飲みで水を口にしながら、その時が来るのを待っていた。
どれほど時間が経ったのか分からないけれど、先ほどまで朝だったはずの空は赤みを帯びているように見えた。
痛みの間隔は徐々に短くなってきている。
「……お姉ちゃん、私の手を握っていてね。」
侍女にそう伝えた瞬間だった。
突如としてお腹を絞られているような感覚が襲ってきた。
「痛い……っ!痛い、助けて……勇者様っ……!」
「王女様!気をしっかり!私に合わせて呼吸を!」
そんなの、無理……。
「王女様!」
誰かが私を呼んでいるのにもう分からない。
言われた通りにしようとしても、痛くて上手く呼吸が出来ない。
「うぅ……はぁっ、はぁっ……。」
あと何回……。
あとどれくらい……。
この痛みに耐えなくてはいけないの……?
お願い……。
お願いだから、早く……。
早く出てきて……。
苦しい、辛い、早く解放されたい……。
内側から無理やり身体を押し広げられる感覚と、誰かの声がする。
「王女様、私の呼吸に合わせていきんでくださいね!はい、せーの!!」
いきむ?いきむってなに?勝手に力が入ってしまう。
「うぅ、んっ……んーーーっ!」
息、息を吸わなきゃ……。
痛い、痛い、身体が裂けちゃう。
まだ?まだなの?
「……さま!お……様!あ……たよ!」
誰?お姉ちゃん?何と言っているの?
「……王女様!頭が見えてきましたよ!もうひと息いきましょう!はい、せーの!」
「はあっ……はあっ……はあっ、んんーーーーっ!」
耳鳴りで音がよく聞こえない。
誰かの手、低い声、圧迫感と激痛。
……もうだめ、意識が飛びそう。
お母様、どうか私にこの子を守る力を貸してください。
勇者様、私、十分頑張ったよね?
「王女様!もう一度です!もう一度!」
まだ足りないの……?最後まで頑張らなきゃ……。
「はあっ……はあっ……んんーー!んーーーっ!」
……あぁ、だめだ、視界がぼんやりしてきた。
また意識が闇に奪わ、れ――
「……ぁ……ぎゃぁ……ほぎゃあ!」
――えっ?今のって、赤ちゃんの声?生まれたの?生まれた?
あぁ、頼りないのに世界で一番まぶしい声。
「王女様!おめでとうございます!可愛らしい女の子ですよ!」
女の子だって。
勇者様、たくさん褒めてくれるかな……。
「あら、この子、瞳の色が……。」
「瞳?王族に相応しい翠眼では?そんなことより早く!清潔な布で身体を!」
「分かっています!でも……あら?綺麗な翠色だわ。先ほどは違ったような……。」
「疲れのせいで見間違えたのだろう。さぁ、その子を王女様の元へ!」
「は、はい!」
私の胸元にやってきた、純白の布に包まれた小さな生命。
その温もりに触れたとき、胸の奥から涸れることのない泉のような愛おしさが溢れ出してきた。
「はぁ……はぁ……あぁ、やっと会えた。はじめまして……私の赤ちゃん。生まれてきてくれてありがとう。」
……疲労のせいか、呼吸がなかなか整わない。
それに、この子がとても重たく感じる。
でも、そんな事が全部吹き飛んでしまうくらいに、なんて可愛らしくて愛おしいのだろう。
ふふ、一生懸命指を吸ってる。
ずっと見ていられる。
……早く勇者様にも会わせてあげたいな。
そんな風に感慨に浸っていると、突如として部屋の扉が勢いよく弾かれ、壁に激突する音が響いた。
開かれた扉の前に見えたのは、大臣の静止を振り切る父の姿だった。
「……へ、陛下っ!王女様はまだ処置中でございます!」
「ええい、やかましい!わしの孫の声が聞こえたのだ!大人しくなどしていられるか!わしの孫はどこだ!」
暴走する父を見るのは初めてだった。
「陛下!せめて王女様の処置が終わるまでお待ちを!」
侍女や治癒士を振りほどきながら、私たちの元へ向かってくる父。
そして、この子の姿を見るやいなや「ふおぉぉぉ……!これがわしの孫か!よくやった、我が娘よ!どことなくわしに似ている気がするな。鼻筋なんかそっくりではないか?」と、叫んだり喜んだり忙しそうにしていた。
でも父には似てません、私と勇者様の子ですもの。
いや、似るところもあって当然か、血が繋がっているのだから。
「孫というのはこんなにも可愛らしいものなのだな……ほら、わしがそなたのじぃじでちゅよ〜。」
……相手が孫というだけで、こんなにも威厳を損なうものなのか。
普段の厳格で鋭い目つきは、孫を目にした途端跡形もなく消え去っていた。
目尻がこれ以上ないほどに下がり、無数の笑い皺が刻まれている。
締まりのない笑みを浮かべ、口元は終始緩んだままだ。
「お父様、まだ生まれたばかりなのですから、この子は何も分からないですよ?」
「分からなくてもよいではないか、わしの孫には違いないのだから。」
「もう、お父様ったら。」
ここにもし勇者が居たのなら、どれほど幸せな空間だっただろう。
王城の皆、父と勇者とこの子と私。
もちろん今でも十分幸せだ。
でも、やっぱり……。
――いや、今はこの子に精一杯の愛情を注ぎ込もう。
勇者はきっと帰ってくる、そう信じて。




