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何がきっかけだったのかは、定かではない。誰かが足元を駆けていった振動か、或いは周囲を埋め尽くす喧騒か、そのどちらかが、瞼を開かせた。
目が覚めた時には白い天井が視界に広がっていて、ベッドでもなんでもないただの廊下に横たわっていた。戸惑いながらも顔を横に向ければ、手足を包帯で覆われた怪我人が、自分と同じように並べられている。数十にも及ぶ人間が、呻き声を上げているその光景は、どことなく、野戦病院を彷彿とさせた。
そこまで思考が至って漸く、十条九は自分が死なずに生きているという事を自覚した。
件の飛行機事故の後、救助隊の活動により命をとり止めた彼は、他の生存者たちとともに近くの総合病院へ搬送されていたのだ。喧騒に包まれる病院には、腕や足のない人々が次々と運び込まれ、ブルーシートの上に寝かされただけの、生きているのかどうかわからない人たちが廊下にずらりと並んでいる。痛みを訴える絶叫。親を呼ぶ子供の泣き声。声を張り上げて指示を飛ばす医師の怒号。何があったのか、今何が起きているのかを把握するのには過多な情報量に、十条九は無意識のまま、耳を塞いでいた。
その、直後の事だった。ふと、救助隊員らしき二人の男性が足早にやって来たかと思うと、十条九のすぐ横に屈み込む。そして、手早く何かを確認した後で、その内の一人が、首を横へと振った。それから彼らは人間大の『何か』を毛布に包むと、どこかへと運んでいく。その後に目を向ければ、そこにはちょうど、人が一人横たわれるだけのスペースが残っているだけだった。自分は耳ではなく、目を塞いでいるべきだったのだと気付いたのは、その時だった。この光景を今後一生忘れることができないのだという漠然とした予感が、彼の胸の中に巣食っていた。
右肩の亜脱臼と、右耳の鼓膜が破れている、というのが、後に医者の下した診断だった。今は鎮痛剤が効いているらしく、違和感こそあれ、特に痛みを感じはしない。幸い、煙を吸い込んだ量がわずかだったため、一酸化炭素中毒になることもなかったそうだ。無論、たったそれだけのことを聞き出すのに、何時間もかかったのは言うまでもない。どの医師も看護師も、他の患者の対応で寝る間もなかったのだという事は、足元のおぼつかない彼らを見ていれば、嫌でも分かった。
むしろ、他人と比べて軽度の怪我の自分が、数分でもその時間を割くのですら、彼には耐え難かった。故に、自らの体の状態を確認した彼は、妹の安否さえ分かればすぐにでも病院を出て行きたいという旨を、簡易的な診察の際看護士に告げた。脱臼なら整骨院でも診てもらえるし、鼓膜だって耳鼻科に行けばいい。何より、そんなものは今すぐ命に関わるものではない。
もっとも、こんな場所にいることなんてできない、というのが、本音ではあった。どこに行こうが、患者やその家族の悲壮な声が聞こえてくる。それが、五体満足で生き残ってしまった自分を非難しているかのようで、耐えられなかったのだ。
看護士はその申し出に対して、誰か親族の人はいるか、連絡はつくか、という問いを返してきた。無論、彼にはそんなものはいないし、叔父夫婦の乗った飛行機は恐らく別の空港に着陸したことだろう。あの夫婦が、自分や朝陽のためにすっ飛んで来てくれるというのは、考えづらかった。
「……十条くん?」
彼がその問いに答えあぐねていた時、ふと、後ろから声をかけられた。今自分が置かれている状況に、この世で自分の知人なんて存在していないのではないかと自棄になりかけていた彼は、不意に呼ばれた自分の名前に、慌てて振り返る。
「あ……」
十条九の少し後ろに、驚きに目を見開く少女が立っていた。こんな状況で、クラスメイトを見かけるなどと思ってもみなかったのだろう。彼女は紛れもなく十条九と同じクラスの一員であり、彼の隣の席に座る生徒であり、そして彼のクラスの学級委員長を務める少女だったのである。昨日二、三度ほど言葉を交わしたのは、記憶に新しい。十条九としては、彼女が自分の名前を覚えている事すら意外に感じてしまったが、それでも、自分を知っている人間が一人でもいるということに、とても安堵した。
「十条くん!なんでここに……」
委員長は十条九の元に駆け寄ると、不安げな表情で彼を見上げる。思わず、というより無意識の内に、十条九は視線を逸らしていた。別段、気まずい何かがあるわけでも、彼女を拒む理由があったわけでもない。
ただ、彼女との距離が近くて動揺してしまっていたのだ。
こんな状況下においても、十条九のコミュニケーション力不足はぶれなかった。半径一メートル以内で女子と向き合った経験など、十条九にはあまりに乏しい。故に、不用意な緊張をしてしまったというか、彼は無駄に身構えてしまっていたのだ。
「あ……ご、ごめん。聞くようなことじゃ、なかったね……」
それを、悪い意味合いに誤解したらしく、委員長は申し訳無さそうに目を伏せた。弁明するように、十条九は慌てて首を横に振る。
「い、いや!べ、別に……」
もごもごと口ごもりながら、彼は委員長の様子をチラチラと盗み見る。どうやら、どこにも怪我の類は見えず、事故の被害にあったというわけではなさそうだった。しかし、無関係の人間がこんなところにいるということも考えられない。恐らくは、知人か身内の誰かが巻き込まれたというところだろう。
「あの……怪我は、大丈夫なの?」
委員長の視線が、チラリと彼の右腕に向けられた。包帯でグルグルと巻かれた右腕が、三角巾で首から下げられているのを、十条九は自分でも改めて確認する。
「うん、まぁ……大した事は、ないよ」
十条九はやっとのことで答えると、小さく頷く。その様子を見て彼の心情を察したのだろう、無理をしないよう、彼女は十条九を案じて言葉をかけていた。
「私はね、お父さんが事故に巻き込まれたって聞いて、ここに来たんだ」
「……そ、そっか。えっと……その……」
言いづらそうに、十条九は口ごもる。彼が、父親の怪我の具合について案じてくれている事を悟ると、「大丈夫、捻挫だけだって」と、委員長は小さく微笑みながら告げた。
「そう……よかった。本当に」
安堵と共に、本心からの言葉が溢れる。例え僅かな接点しかなくとも、自分の知人が苦痛に歪めた顔を見る事に、耐えきれる気がしなかったのだ。そんな十条九の様子に何か気付いたのか、委員長が言葉を選ぶように視線を泳がせていると、その間に、彼女の後ろから松葉杖をついた人物が近づいてくる。頭頂部の禿げた中年男性は息を切らしながら、ようやく追い付いた委員長の肩に手をかけた。
「紅葉、置いていかないでくれ。いくら軽傷でも、さすがに……」
気心の知れた口振りに、恐らくはこの人物こそ彼女の父親だろうと、十条九は察する。不意に、その人物と目が合う。するとその瞬間、何かに気付いたように大きく目を開きながら、驚嘆に口元を押さえた。
「紅葉、この子だよ!お父さんを助けてくれたのは!」
そう言って、困惑している十条九に、危なっかしい足取りで駆け寄る。何がなにやら彼にはさっぱり分からず、十条九は委員長へと、困惑した視線を向けていた。
その後、改めて委員長の父親を名乗ったこの男性が、興奮しながら話した内容を簡潔にまとめると、あの人混みの中で、十条九が彼の事を庇ったとの事だった。
仕事の取引先の人間を空港まで出迎えに行った彼は、たまたまあのロビーに居合わせたそうだ。そこで事故に巻き込まれ、逃げ惑う人の波に押し倒された彼のことを、十条九が上から覆いかぶさって、守ったらしい。そういえばそんなことをしたような気もするが、何しろ土壇場での出来事だ。当の本人は、あまりその時の事を覚えていなかった。
「瓦礫で閉じ込められても酸欠にならなかったのだって、君のおかげだ。本当に、感謝しかない」
そう言いながら何度も頭を下げる彼に、十条九は非常に困惑していた。人から、頭を下げられるという経験に──もとい、人から感謝の意を伝えられる経験に、乏しかったのだ。
「もう、お父さん。その辺にしときなよ。十条くん困ってるよ」
病院の廊下で恥ずかしげもなく大声で礼を言う父親に、彼女は顔を赤く染める。十条九も、他人から感謝されるというむず痒い感覚に、目を泳がせていた。
「しかし、本当に君には感謝してもしきれない。一歩間違えれば……」
彼は頭を上げると、チラリと視線を走らせた。その先を、患者を乗せたストレッチャーが通り過ぎていく。十条九は、知らぬうちにそれから目を逸らしていた。
「十条くん、ご家族は……一緒じゃないのかい?」
「えっと、妹が一緒だったんですけど、まだ安否が分からなくて……」
そう答えながら、この状況であまりにも冷静な自分に気付き、十条九は内心で首を傾げる。当然、『安否を確認する』ということは、『安』ではない『否』の場合、つまり最悪の場合朝陽が死んでいるという状況もあるということなのだ。それにも関わらず、彼はいたって冷静だった。不思議と、まるで世間話でもするみたいに、妹の話をしている。恐らくは、自分が助かったのだから妹も同じだろうという、漠然とした予感があったのだ。
「そうか……なら、早いところ問い合わせたほうがいい。妹さんの方も、もう起きて十条くんを探しているかもしれないし」
委員長の父親は、娘に向かって「ここはいいから、十条くんについて行ってあげなさい」と提案した。それを聞いて頷く委員長を見て、十条九は「ちょっと待て」と心の中で突っ込みを入れる。どうして当人である自分を差し置いて、自分と委員長が共に行動する流れになっているのか。
無論、きっとこの親子に悪気の類などなく、むしろ厚意で、彼のことを気遣っての申し出なのだろう。しかし、本当に彼のことを理解している人間ならば──女子と二人きりになったら緊張のあまり何もできなくなるという、十条九の性質を理解していれば──そんな申し出はしなかったはずだ。
「じゃあ行こう、十条くん」
「あ、う、うん」
そんな話が出た時点で、それを断るという話運びが出来るはずもなかった。結局彼はされるがまま、委員長の後を追う事になる。時折、こちらの様子を不安そうに窺い見る彼女の目が、どこか印象的だった。
ナースステーションに着くと、大体の手続きを委員長がすませた。その間十条九が発したのは、妹の名前を尋ねられた時に答えた「十条朝陽」という単語のみで、後は首を縦に振ったり横に振ったりしていただけだ。その様子を見て、委員長は余計に心配そうな顔をする。無論それは、単にコミュニケーション能力が低い故の、いつもの自分らしい反応であった──少なくとも、十条九自身はそう思い込もうとしていた。
ナースステーションのカウンターの近くに二人で並びながら、彼女は口を開いた。
「十条くん、大丈夫?」
また一つ、十条九は首を縦に振った。それを見て、委員長はますます表情を曇らせる。
「……看護士さん、患者さんのリストを確認してくるって」
仮に、朝陽が先ほどの自分のように目を覚ましていなかった場合、身元は所持品で判断するしかないだろう。あの混乱の中では、それを紛失している可能性も高い。つまり、最悪の場合朝陽と再会できるのは、だいぶ後のことになる。
「あの……十条くん、不安なのは分かるよ……私も、お父さんが事故に遭ったって聞いた時、すごく不安だったし」
ふと、黙り込む十条九に耐えかねたように、委員長は口を開いた。
「今は、ひょっとしたら悪い方にしか考えられないかもしれないけど……十条くんが弱気になってちゃ、ダメだと思う」
静かな口調だが、委員長ははっきりと口にした。元より、誰かに励まされるという経験はおろか、他人に優しく接される機会に乏しい彼は、それが励ましの言葉であるということに気づくのに、少し時間を要した。
「何ができるってわけでもないけど……私もいるし、さ」
俯き気味に、真摯な表情で、彼女は告げる。それは、十条九にでさえ分かる程に、心底からの言葉だった。相手はただのクラスメイト、ろくな会話をした事もないはずだった。それにも関わらず、彼女は本気で十条九を案じ、深慮を向けている。そんな無償の善意は、十条九にとって、恐らく初めて受け取るものだった。
「……うん」
こんな時、まともな礼の一つも言えない自身の能力の低さが、ひどくもどかしい。思わずそれを呪いそうになるくらいには、十条九は彼女に対する感謝の念を抱いていた。ほんの僅かに、胸の奥が体温を取り戻したような感覚に、十条九がますます返す言葉を悩んでいると、先ほど応対したのとは別の看護士が、ちょうど二人の元にやって来る。
「えっと、十条さん。十条さんですね?あなたが……」
まだ若いはずの女性の看護士は、年齢の割に非常にやつれた表情で、十条九のことを目視した。きっと、何時間も同じような対応に追われていたのだろう。精神的に平気である方が、ずっとおかしい。彼女は十条九の前で一度頭を下げた後、辛そうな表情のまま口を開いた。
「……十条朝陽さんの、ご遺族の方で間違いありませんか?」
その瞬間、心臓が温度を失くしたような感覚と共に、何かが崩れる音が、自身の中で響いた気がした。




