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境界堂へようこそ 〜壊れかけの観測者の日常〜  作者: 白鐘
第十章 ひと時の安寧
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10-1 海辺の怪異


■海辺


昼。

照り返し。白い砂浜。波音。


パラソルの下。

マスター、完全にくつろぎモード。

長袖、黒ズボン、サンダル。海に来た人間の格好ではない。


ファニーは水着姿で仁王立ち。


「ねえ」

「んー?」


「なんでその格好なの?」

「日焼け対策」


「海に入る気ゼロじゃん!!」


シエルもサングラス越しに海を見る。

こちらも水着だが、妙に隙が無い。


「そもそも、泳ぐ気が無いのでしょう」


マスターは麦茶を飲む。


「……僕は定義の実という物を食べてから、海に嫌われてしまったんだ」

「異能の代償みたいに言わないで」

「カナヅチということですね」


静かに水平線を見る。

風に前髪が揺れる。


「違うんだよ。昔はちゃんと浮いたんだ。だけど“定義”を扱うようになってから――」

「はいはい続きどうぞ」


「“沈むもの”として、世界に認識された気がするんだ」

「物理法則にポエムを混ぜないでください」


「というかその理論だと、今頃地面にも沈んでるでしょ」

「陸には好かれてるからねぇ」

「海だけピンポイントで嫌われている設定なんですね」


「まあ、試してみようか」



波打ち際。

ファニーは容赦なくマスターの腕を引く。


「ほら行くよー!」

「待って待って冷たい冷たい」

「子供か!!」


シエル、少し後ろから監視。


「無理そうなら即座に回収します」

「信頼が無い」

「実績がありますので」


ざぶざぶと波が打ち寄せてくる。

そして、マスターは膝まで浸かったところで停止。


真顔。


「……ここまでが限界かな」


「早い早い早い!!浅瀬の王じゃん!!」

「まだ幼児の方が沖へ進みます」


「海って怖いんだよ。底が見えないだろう?」「今見えてるよ!?膝下だよ!?」


マスター、静かに一歩進む。


沈む。


「………え?」


バシャバシャではない。抵抗も無い。ただ自然に、“下へ”。


「「マスター!?」」


二人は慌てて引っ張り上げる。

マスター、普通に回収される。


びしょ濡れ。


「……だから言ったのに」


「怖っ!!!沈み方がホラーなんだよ!!!」

「人体が持つ浮力を放棄しています」

「僕も不思議なんだよねぇ」


ピィィィィーーーッ!!と鋭いホイッスルが響く。


完全武装ライフセーバー姿のクロード。

焼けた肌。サングラス。無駄に似合う。


「なんで居るの!?」

「監視だ」

「完璧に馴染んでいますね……」


クロード、マスターを見る。


「そこ。今、溺れる前の顔をしていた」

「そんな顔ある?」


「ある」

「断言した」


クロード、浮き具を差し出す。


「装着しろ」

「浮き輪ってさ、浮けない人間用だろう?」


「また始まった」

「つまり僕がそれを受け入れるということは――」


「では沈んでください」

「シエルが辛辣」


「装着しろ」

「……命令?」


「保証だ」

「………じゃあ、従おうかねぇ」




数分後。

マスター、ぷかぷか浮いている。


「浮いてる!!文明の勝利!!」

「科学とクロードの勝利です」


「人類は浮力を獲得した」

「急に進化論みたいになるじゃないか」


でも、少しだけ穏やかな顔。

空を見る。

波に揺れる。


「……なるほど。浮くって、こういう感覚だったか」

「忘れるな。人間は本来、浮く」


「……そうだね」


静かな時間が流れる。


その時。


バシャァッ!!と大波。


「うわっ」


即転覆。


「あはははは!!落差ァ!!」

「予測通りです」


クロード、即回収。

片手で引き上げる。


「だから言った」

「……やっぱり海、ちょっと機嫌悪いねぇ」


「違う違う!マスターが不器用なだけだから!」

「ええ。海は平等です。沈む者にも」

「フォローが鋭利なんだよなぁ」


笑い声。夏の風。


ふと。


沖あいの波の動きが、 一瞬だけおかしくなる。


規則的。

何かが泳いでいる。

人ではないリズム。


ファニー、笑みを止める。


「……来たね」


シエル、視線を細める。


「ええ。“呼んでいる”」


遠く、微かに、誰かの声。


おいで

おいで


波が少しずつ沖へ引いていく。誘うように、足元の砂まで吸い寄せるように。


クロードはホイッスルを外す。


「任務開始だ」


マスター、濡れた前髪をかき上げる。

そして、海へは入らず、砂浜へ片膝をつく。指先で砂へ線を描く。


「さて。海に嫌われた男でも、やれることはある」


「――定義する。“あれは、この浜へ上がれない”」


沖の波が、突然、牙を剥いた。

巨大な波が浜へ向かって走る。


ざぁぁぁっ!

打ち寄せた波頭が、境界線へ触れる。


その瞬間。

ざ、と。

波が、見えない壁に触れたように止まった。


ファニーは浮き輪を外し、表情を切り替える。


「数、多いね」


シエル、海面を観察。


「個体というより……群体ですか」


クロード、周囲確認。

既に一般人の避難は完了。


「沖から誘導している。“呼ぶ声”の本体だ」


微かに聞こえる。


おいで

もっと奥へ

深いところへ


聞いているだけで、足が前へ出そうになる声。

思わず耳を押さえる。


「うわ、これ普通の人危ないって……」

「精神誘導系ですね」


マスターは砂浜に座ったまま海を見ている。


「正確には、帰巣本能に近いかな」

「なんで帰巣?」

「海ってさ、人間にとっては昔の故郷みたいなものだから」


静かに波を見る。


「“戻っておいで”って呼ばれると、案外抗えない」


その時、ざぷん。


沖合に、黒い影が浮かぶ。

人の上半身。魚の尾。

だが、その顔には目も鼻も無い。あるのは、歌うように開閉する口だけ。

波間に揺れる。一体。二体。十。何十。


「うげぇ……」

「人魚の模倣ですね」

「本体は下だ」

「うん。上は餌」


声が響く。

今までより、はっきりと。


『おいで』

『君も沈もう』

『楽になるよ』


ファニーの足が、一歩だけ海へ動く。

すぐにシエルが腕を掴む。


「ファニー」

「……っ、ごめん」


シエル自身も、視線が僅かに揺れている。

クロード、舌打ち。


「長時間は危険だな」


全員、 少しずつ引っ張られている。

でも一人だけ、全く反応していない。

マスターはぼんやり海を見たまま。


「……マスター?」

「ん?」


「聞こえてないの?」

「聞こえてるよ」


普通に。


「でも僕、泳げないからねぇ」

「は?」


「いや、“おいで”って言われても、行けないだろう?」

「……は?」


「沖に行くには泳力が必要なんだよ。つまりこの怪異、対象選別が甘い」

「まさかの仕様不一致!?」


マスターは立ち上がる。


「多分、“海へ行ける者”を前提にしてる。だから、僕には効きが薄い」


シエルが少しだけ目を見開く。


「……適性外」

「うん。悲しいことにね」

「こんな形でカナヅチが役立つとは……」


ざばん!!

海面が、盛り上がる。

巨大な波。

その波が、人の顔を形作る。

目は無い。口だけが、海そのものに裂ける。


『おいで』


直接、頭へ響く。


「来るぞ!!」


クロードが最初に踏み込む。餓狼。砂浜を砕く勢いで拳が突き刺さる。


ドゴォッ!!


怪異の身体が大きく仰け反る。

その隙へ、ファニー。


「せぇぇぇい!!」


赤い衝撃が拳から炸裂する。爆ぜるような連打。肉片が波へ散る。


さらに上空。

シエルが掌を向ける。


「穿て」


青白い霊弾が幾筋も降り注ぐ。傷口へ吸い込まれ、内側から怪異を焼いていく。


マスターは岸。出れば沈む。

砂浜にしゃがみ込む。指先で線を書く。


境界。


「マスター!」

「少し時間稼いで」


海を見る、怪異を見る、波を見る。


「……なるほど」


マスターが目を細める。


「違うな」

「え?」

「お前、海じゃない。寄生してるだけだ」


マスターは指を鳴らす。


「じゃあ簡単だ」


砂浜へ、最後の線を引く。


「――定義する」


ギィン。


怪異を包んでいた海水が、わずかに離れる。

再生速度が落ちる。


マスターの左耳でカフスが熱を持つ。


「……ここまでだね。これ以上は制限に引っ掛かる」


一歩下がる。


「後は皆、頼んだよ」


怪異の身体が止まる。波が怪異を拒み、海水がその巨体を沖へ押し返していく。


「うわっ!?」

「海が……排除している……!」


怪異が暴れる。だが、海へ溶け込めない。再生しない。


「今だ」


クロードの拳が怪異を砕く。

赤い衝撃が重なり、青白い霊弾が貫く。

三つの力が同時に炸裂した。


怪異が砕ける。


『かえりたかった』

『みんな』

『うみへ』


波に溶ける。

静寂。


ファニーが砂浜へ倒れる。


「つっかれたぁぁ……」


シエルは座り込む。


「塩分で髪が酷いですね……」


クロードは装備を片付ける。


そして、マスターは砂浜でへたり込んでいた。


「マスター?」


「……いや」


乾いた笑い声。


「今日は、本気で怖かった」

「え?」

「もし海に流されたら死ぬなって、ずっと思ってた」


沈黙。

ファニーとシエルが止まる。


「カフス中って、不便だねぇ」


でも、その言葉で二人は初めて理解する。

今までこの人は、“死なない側”だったのだと。


「昔はさ、自分が死ぬって感覚、あんまり無かったんだ。怪異相手でも、人間相手でも最悪どうにかなるってどこかで思ってた」


シエル、目を伏せる。


「でも今日は普通に、流されたら終わるなって考えてた」


少しだけ困った顔で笑う。


「人間って感じだろう?」


ファニー、少しだけ唇を尖らせる。


「……今さらだし」

「ん?」

「マスターが死ぬとか、普通に嫌だから」


シエルも静かに頷く。


「ええ。非常に困ります」

「そっか」


短い返事。でもどこか安心したような声。


その時、クロードが戻ってくる。


「片付け終わった」

「おつかれー」


クロード、マスターを見る。

そして無言で缶コーヒーを投げる。


「優しいねぇ」

「熱中症対策だ」

「心配の仕方が昭和なんだよなぁ」


クロード、鼻を鳴らす。


「次からはライフジャケットを着ろ」

「えー」


「返事」

「……はい」


「アハハハ!!マスター怒られてるー!」

「完全に保護者ですね」


「放置すると沈む」

「人を大型犬みたいに言わないでほしいねぇ」


「水難犬」

「語感最悪だな」


夜。

帰り道。四人並んで歩く。波音が遠ざかる。


その時、背後の誰もいない海から。


――おいで


微かに声。


マスターの足が、一瞬だけ止まる。


「マスター?」

「……いや、なんでもないよ」


海を見ることなく、歩き出した。

波音、夜風。


そして海は、まるで何事も無かったように、静かに揺れていた。


マスター 「あ、浜茶屋のまずいラーメン食べ忘れた」

ファニー 「なんでまずいって知ってて食べたがるの!?」

マスター 「夏は一回くらい、そういうラーメンを食べたくなる日があるんだよ」

シエル 「情緒の方向性がおかしいですね」

クロード 「来年は先に食え」

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