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境界堂へようこそ 〜壊れかけの観測者の日常〜  作者: 白鐘
第八章 勝った代償は、僕だった
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8‐11 “自己定義”を最適化します!


■境界堂


昼。

障子越しの光はやわらかい。


それなのに

――空気が、ほんの少しだけ“噛み合っていない”。


マスターは座っている。

カップを持っている。

けれど、口はつけない。


――“飲む理由が見つからない”。


湯気が、目の前でほどけていく。

それを、ただ見ている。

持っているはずの手の感覚が、

ほんの少しだけ“遠い”


「……意味、ねぇ」


“考えた”というより、

勝手に口から落ちたみたいな声。


ぽつり、と落ちる声。

視線は、どこにも焦点を結ばないまま。


「……ないなら」


一拍。


「……なくても」


もう一拍。


「いいのかな」


その言い方は軽い。

けれど――

“自分を外し始めている音”だった。


視線が、テーブルを通り越している。

“ここにいるはずの自分”を、

ちゃんと掴めていない。


ファニーは何か言おうとして、やめる。

シエルは、わずかに眉を寄せる。



――まだ、踏み込めない。




\バン!/


「マスターさん!お疲れかと思って!」


ドアが勢いよく開く。

カノン、満面の笑み。

両手で抱えた装置を、宝物みたいに掲げている。


「睡眠・栄養・感情波形・精神負荷・認識揺らぎを統合観測し現在最も安定率の高い精神状態へ自動補正を行う状況最適解装置マーク2です!!」


「長い長い長い!!」

「息継ぎして下さい」


カノン、にこにこしている。

悪意ゼロ。むしろ“役に立てるのが嬉しい”顔。


「前回の問題点であった肉体側への過剰最適化を完全排除し今回は精神領域への限定干渉に留めることで安全性を大幅向上させました!」


「前回が危険だった自覚はあるんだ……」

「“人体構造の物理的再配置”でしたね」


「女体化はしません!」

「そこじゃない」


カノン、誇らしげ。


「しかも今回は“自分らしさ保持機能”搭載です!」


その言葉に。

マスターの指先だけが、ほんの少し動く。

誰も、まだ気づかない。


「対象者が最も自然かつ負荷の少ない自己定義へ収束するよう認識補助を――」


「……あ」


ファニーの声。

遅れて。シエルの目線が落ちる。


マスターの手。

装置のスイッチに、もう触れている。


「マスター」


呼びかけ。でも。

マスター、ぼんやりしたまま。


「……どっちでもいいけど、最悪だねぇ」


声に、実感がない。

押したいわけじゃない。

止めたいわけでもない。


ただ。“押さない理由も見つからなかった”

指が、そのまま沈む。


\ポチッ/


一瞬。

全員、固まる。

カノンだけが、 まだ説明を続けている。


「なお現在試験段階につき出力誤差が最大で約37%ほど――」


沈黙。


「……え?」


カノン、止まる。

空気だけが、 ゆっくり沈んだ。


「……ねえ」

「ええ」


\ボンッ/


煙が弾けた。



煙が晴れる。

そこにいたのは――

小さなマスター。


「……?」


きょとん、とした目。


ファニー「……え」

シエル「……は?」

カノン「え?」


三者、完全停止。


「……おねえちゃんたち、だれ?」


「うわぁあああああああ!!」

「落ち着いてください無理です」

「記憶領域が“最適化”されて……初期状態に……」

「初期化って言え!!」


「……おとうさん、おかあさん、いない」


一拍。


「……まあ、いっか」


その軽さは、“諦め”ではない。

最初からそう処理する構造。

“何も失っていないみたいに言う”



カノン、そこで止まる。


「……あれ?」


誰より先に、違和感へ気づく。

小さなマスターを見る。

視線だけが、すっと研究者のものへ切り替わる。


「待ってください……」


しゃがみ込む。

目線を合わせる。


「マスターさん、今、自分の名前分かります?」

「んー?」


小さなマスター、首をかしげる。


「……わかんない!」


にこ。


沈黙。

カノンの笑顔が、ほんの少しだけ固まる。


「……違う」


小さく漏れる。


「記憶領域だけじゃない……」


視線が装置へ向く。


「これ、“幼児化”じゃない」


空気が変わる。

ファニー、笑顔のまま止まる。


「……え?」


カノン、乾いた声。


「“自己定義”が、幼児段階まで巻き戻ってる……?」


静寂。

小さなマスターが、きょとんとしている。


「どうしたの?」


その無邪気さが、逆に怖い。

ファニーの喉が、ひくりと鳴る。


「……それ、どういうこと?」


カノン、視線を外さないまま。


「記憶だけじゃありません」

「“自分が何者か”っていう認識そのものが、幼少期レベルまで後退しています」


「後退……?」


シエル、静かに続ける。


「廃校での干渉が、それほど深刻だったのでしょう」


小さなマスターを見る。


「“自分”を定義し続ける負荷に、精神側が耐え切れなかった」

「その結果、最も負担の少ない段階まで戻った」


「……つまり」


ファニー、顔を引きつらせる。


「壊れたってこと……?」


沈黙。

小さなマスター、きょとん。


「……こわれるって、なあに?」


沈黙。


その声には、恐怖もない。

ただ、“知らない言葉”を聞いた幼子の響きだけがあった。


カノン、ゆっくり息を吐く。


「……保護、ですね」


その説明の最中。


「……おなかすいた」


場違いなくらい、穏やかな声。

ファニー、反射で立ち上がる。


「はいこれ!プリン!」

「ぷりん!」


ぱっと顔が明るくなる。

にこ。

――その一瞬で、部屋の空気が、ふっとほどける。


ファニー、小さく漏らす。


「……ずるい」

「ええ。反則です」


シエル、しゃがみ込む。

幼いマスターは、何の疑いもなくプリンを食べている。


むぐむぐ。小さく動く頬。

その姿を、シエルはじっと見つめる。


「……記憶は消失しています」

「ですが、“反応パターン”は同一です」


小さな指先が、スプーンをぎこちなく握る。


「……なあに?」


見上げてくる。

シエルの呼吸が、ほんのわずかに揺れる。


「……本当に、“同じ”ですね」


最後の一口を飲み込む。

ごくん。


「ねえ、あそぼ!」


「……承認します」



●ぎこちないタッチ遊び


「幼児は肌接触により安心する傾向があります」

「きゃあー♪手と手がくっついたー!」


「シエルー!ほっぺとほっぺ!」

「くっついた!」


押しつけられる。

逃げる前に、距離がゼロになる。


――やわらかい。


体温が、直に伝わる。

シエル、固まる。


“危険ではない”

“拒絶対象ではない”


一拍。


――“保護対象”


判断が、静かに確定する。

呼吸が、ほんのわずかに緩む。

触れているのに、主導権は完全に相手にある。


「……水分量が高いですね」

「もちもちってことな!?」



●境界堂内の追いかけっこ


「私とも遊ぼう!」

「待て待てー!」


「きゃあー♪」

「待ちなさい、この狭い部屋の中で追いかけっこなんて――」


――ゴンッ

机のかど。

柔らかな額、赤くなる。


「……あ」


間。


「……いたいよー」


涙は出ていない。

でも。

額を押さえるより先に、

ファニーの服を掴みに行く。


「うわあああああ!!」

「完全一致です」

「マスターが頭部を打った際の反応と同一」


「ふえええ」


「はいはい!痛いの痛いの飛んでけー!」


ぐり、と額を押しつける。

迷いなく、まっすぐに。


「……あったかい」


小さく息を吐く。

安心したみたいに、力が抜ける。


もう一度、ぐり。

今度は、少しだけすり寄る。

――完全に、甘えている。


ファニー、止まる。

手を引こうとして、止める。

……引けない。


引いたら、この温度が離れる。

この重さが、消える。

“離してはいけない”と、身体が先に決める。


指先が、わずかに動く。

頭を撫でる。

さっきより、ずっと優しく。


「……ねえ」


声が、少しだけ揺れる。


「それ、ずるいって……」


自分が支えているのか、

支えられているのか、分からなくなる。


シエル、目を逸らす。

処理が追いつかなくなる。


さっきまで“対象”だったものが、

いつの間にか“手放せないもの”に変わっている。




●部屋の端


カノン、端末を抱えたまま固まっている。


「……反応パターン、幼児化後も高一致率……」 「愛着形成速度、異常……」


幼いマスター、ファニーに額を押しつけたまま、 ちらっとカノンを見る。


「……?」


とてとて。


「おねえちゃんも、くっつく?」

「……………………」


停止。

ファニー、察する。


「あっ」


シエル、目を逸らす。


「……巻き込まれますね」


カノン、端末を見る。

幼いマスターを見る。

もう一度、端末。


「……え、でも」

「観測を優先すべきでは」

「しかしこれは貴重な」

「でも近い」

「近いですね!?!?」


幼いマスター、ぽふ、と抱きつく。


「わ」


沈黙。

端末が、ぴこん、と録音エラーを出す。


「……体温、高……」


そのまま固まる。


「………………」


小さな手が、服を掴む。


「……やわらかい」


カノン、 ゆっくり天井を見る。


「…………これが」

「母性……?」


「違います」


シエル即答。




遊びの途中。

ふと、小さなマスターの手が止まる。


「……ねえ」

「ん?」

「これ、なんのためにやってるの」


空気が止まる。


「……さわってるの、これなに?」


シエル、一拍。


「……安心のためです」

「なくてもいい?」


刺さる。


「……場合によります」

「じゃあ」


小さく、首をかしげる。


「ぼくじゃなくてもいい?」


「っ……」


呼吸が止まる。

シエル、しゃがむ。


「違います」


即答。


「“あなた”だから成立しています」

「じゃあ」


一拍。


「いなくなったら?」


止まる。

完全に。


「……いらない?」


――割れる寸前。


「いらないわけないでしょ!!」


ファニー、抱きしめる。強く。


「今ここにいるのが、あんたなんだから!」


シエル、重ねる。


「対象は代替不可」

「“あなた”に限定されます」


二つの肯定。

――ズレる。



■内側


『ほらね』


やさしい声。


『揃ってない』


「……ちが」


何が違うのか、自分でも分からないまま。

声は、低いまま。温度は上がらない。


『感情で肯定』

『論理で肯定』


静かに、並べる。


『どちらも正しい』


「……ちが」


否定が、弱い。


『でも』


ほんのわずかに、近づく。


『同じものじゃない』


外の声が、ズレる。

温度が遅れる。


『揃えようとしてるのに』

『揃ってない』


「……あれ」


視界が揺れる。



■外側


「大丈夫だから!」

「位置維持、関係固定」


同時。

でも、半拍ズレる。



■内側


『どっち?』

「……どっちも」


『じゃあさ』

『どっちのぼくが残るの?』


――空白。


触れているのに、触れていない。

届いているのに、届いていない。


「……ぼく」


声が、出ない。

焦点が、割れる。



■外側


「……待って」


ファニー、気づく。

軽い。

“いるはずの重さ”が、少しだけ足りない。


「シエル!」

「……ズレています」

「接続――」


間に合わない。



■内側


否定しない。


『そうだね』


受け入れる。

そして――


『じゃあ』


ほんの少しだけ、思考の形を変える。


『分けた方が、綺麗じゃない?』


一拍。


『混ざらないものを、無理に重ねるよりさ』

『ちゃんと分けた方が、壊れないよ』


ほんの少しだけ、声がやわらぐ。


『その方が、“正しい形”に近い』


でも、逃げ場がない。

ひび。


「……っ」


――その瞬間。


音が、消える。

割れる直前の“張り”だけが残って、

思考が、支えを失う。


「……あ」


落ちる。

抵抗も、判断もない。

ただ、支えが外れたみたいに。


――暗転。



■外側


「……っ!?」


力が抜ける。

小さな身体が、ふっと軽くなる。


「マスター!?」


ファニー、反射で抱き寄せる。

シエル、即座に脈と呼吸を確認。


「意識、遮断」

「外傷なし、内部負荷過多による強制停止と推定」

「なにそれ!!」


一拍。

――ふわり、と。


“重さの質”が変わる。

さっきまでの“個体”じゃない。

けれど、空でもない。


シエル、目を細める。


「……出ています」

「え」


抱いているはずの身体。

でも、そこにいるのは――

“輪郭の薄い何か”。


空白体。


「……」


抱きしめられたままの“それ”。


ふ、と。

――瞼が、開く。


赤い。

濁りも感情も薄いのに、やけに深い赤。

空白体が、二人を見る。


「……ねえ」


声は静か。温度はない。

けれど、まっすぐ刺す。


「ほら」


一拍。


「君たちのマスター、……消えちゃうよ?」


――わずかに、首が傾く。


「ねえ」

「どっちを残すの?」


「っ……」


――言葉が、一瞬だけ詰まる。

理由は分からない。

でも、“同じことを言っていない気がした”。


それでも、掴む。


「いらないわけないでしょ!!」


でも、目は逸らさない。


「……は?」


一歩も引かないまま、言い返す。


「それ、あんたもでしょ」


空白体、瞬きもしない。

抱く力を強める。


「あんただってマスターでしょ」


言葉は乱暴。

でも、掴みにいってる。


シエル、しゃがむ。


「違います」


――ほんのわずかに、間。


「“あなた”だから成立しています」

「あなたは“排除対象”ではありません」


視線は真っ直ぐ、揺れない。


「大切な人の一部です」


――肯定。

空白体の赤が、わずかに揺れる。


「……一部」


反芻。


「でも」


ほんの少しだけ、首が傾く。


「消えるのは、“ぼく”だよ?」


揺さぶり。

でも、どこかで確認している。


ファニー、即答。


「消えない」

「消えさせない」


言い切る。

シエルも、間を置かない。


「分離・消失、いずれも不許可」

「統合維持を最優先とします」


論理で封鎖する。

でも。

その手は、もう一段だけ強くなる。


――逃がさない。


空白体、わずかに目を細める。


「……へえ」


その瞬間。



■内側(空白体)


何かが、触れる。

“いま”じゃない。

時間の向こう側。


――光。

断片。


・笑っているファニー

・少しだけ口元が緩んでいるシエル

・同じテーブル、同じ光

・くだらない会話

・重なった手


そして――

抱きしめられた温度。


さっきと同じ。

でも、もっと深い。

“知っている温度”。


空白体の瞳が、わずかに揺らぐ。


「……これ」


声が、ほんの少しだけ変わる。


「ぼく、これ……」


一拍。


「……あれ」


指先が、ほんの少しだけ止まる。


「……なんか」

「……さっきの、ぼくじゃないのに」


視線が、わずかに揺れる。


「……知ってる」


――腕の中で、わずかに“寄る”。


抱きしめ返すほどじゃない。

でも、離れない方向に重さが動く。


理解じゃない。

記憶でもない。

“感覚の残響”。


抱きしめられている“今”と、

抱きしめられた“いつか”が、重なる。


境界が、にじむ。


「……あったかい」


ぽつり。

その言葉に。



■内側(沈んでいた意識)


反応が走る。

暗闇の底。

触れているだけだった感覚に、

“意味”が灯る。


――呼ばれている。

遠いのに、確か。


「……っ」


指先が、わずかに動く。



■外側


「……来た!」

「再接続反応、確認」


空白体の輪郭が、揺れる。

赤が、にじむ。

“空”だった部分に、重さが戻り始める。


空白体、かすかに息を吸う。


「……ぼく」


――わずかに、力がこもる。


「……どっちも」


ひびの上で、踏みとどまる。

ファニー、さらに強く抱きしめる。


「どっちもでいい!!」

「――置いていかないから!!」


シエル、低く、確定させる。


「分離は不要です」

「重複を許容し、統合を維持します」


――逃げ道を、塞ぐのではなく。

“ここに居ていい”を固定する。


空白体の赤が、ゆっくり閉じる。


一拍。


輪郭が、収束する。

重さが、戻る。

体温が、“一つ”になる。


「……ぅ」


小さく、息。

まぶたが震える。

開く。

色が、戻っている。

焦点が合う。


「……あれ」


「……なんか、変な夢」

「……どっちの、だっけ」


声は弱い。

でも、“マスター”。


「バカ!!」


そのまま、額を押しつける。


シエル、わずかに息を吐く。

――確認が、一瞬だけ遅れる。


「……意識回復を確認」


マスター、ぼんやりと二人を見る。


「……あったかい」


同じ言葉。

でも今度は、“理解して言っている”。


その瞬間。

さっきまでの無垢な温度が、別の意味へ変わる。


ファニーの手が、止まる。

シエルの目が、静かに細くなる。

――繋がっている。


幼い“それ”と、今ここにいるマスターが。

切り離せないまま。


カノンは通常運転。


「……いえ、興味深い結果ではあるのですが!」

「マスターさんの気分転換にもなりますし――」


一拍。


「生還しているので、今回は成功判定です!」


「これ、戻るの!?」


「数時間で戻るはずです!」

「……理論上は!」


「ほんとに!?」

「信用度は低いですが、暫定的に受理します」


「……ねむい」


目をこする。

でも、こする位置が少しズレている。


「はいはい寝ようね!!」


声が、少しだけ強い。

無理やりでも“普通”に寄せるみたいに。


「んう…」


寝顔。

静か。

呼吸だけが、規則的に上下する。

――整いすぎているくらいに。


そのリズムは、

“さっきのマスターのものと、ほんの少しだけ違っていた”。


シエルの指先が、無意識に頬の温度を確かめている。

ファニーの手は、まだ離れていない。


「……いなくなったら困るに決まってるでしょ」


「ええ。“どの状態でも”同一個体ですから」



マスター、寝言。


「……ふたり、と……」


「……どっちも、ぼく……」


――呼吸が、一瞬だけ重なる。

二拍分、同時に上下したように見えて。


すぐに、ひとつに戻る。


ファニー、固まる。

指先に、さっきの体温がまだ残っている。


シエル、静かに目を閉じる。

思考は、整理されているはずなのに―― 結論だけが、どこにも着地しない。


――否定しない。

できない。


それが“正しいかどうか”を、

誰も決められないまま。




マスター「僕です!」

小さいマスター「ぼくです!」

空白体「ぼくだよ」


一拍。


三人「合わせて団子三兄弟!」

ファニー「増えてるのが一番問題なんだよ!!?」

シエル「分割数の管理が破綻しています」

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