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境界堂へようこそ 〜壊れかけの観測者の日常〜  作者: 白鐘
第八章 勝った代償は、僕だった
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8‐10 あなたは、だあれ?


■境界堂


昼。

障子越しの光。

やわらかい。

部屋の隅まで、均一に満ちている。


カップから立つ湯気が、

ゆっくりほどけて、消えていく。

ちりん――

遠くで、風鈴が鳴った。


静かな書類整理。

いつもの仕事風景。

何も起きていない。

そう思わせるには、十分なくらい。


けれど。

掛け軸は、ほんのわずかに傾いている。

机の上のペンは、揃いすぎていて逆に不自然で。

コーヒーは、テーブルの縁からほんの少しだけ、ズレている。


整っている。

なのに、収まっていない。

違和感は、ある。

けれど。

誰も、まだそれを言葉にしていない。


こつ、

こつ、

こつ。


足音がする。

一定のリズム。

まっすぐこちらへ来る。


ファニー、顔を上げる。

……机。

マスターは、そこにいる。

書類。ペン。カップ。 いつも通り、仕事中。


「……え?」


その、すぐ後ろ。


「……私メリーさん」


空気が、すっと軽くなる。

何もなかったみたいに。

最初から、“そこにいた”みたいに。


ファニー、凍る。


「……は?」


耳元。


「今あなたの後ろにいるの」

「アイエエエエエッ!!」


反射。

ぶんっ。

振り向きざま、手が出る。


ぱしっ。

手首を掴まれる。

マスター。すぐ後ろ。

普通の顔。


「おお、危ない危ない」

「危ないのはそっちだよ!!?」


ファニー、半泣き。


「いやいたじゃん!?」

「机にいたじゃん!?!?」


マスター、首をかしげる。


「いたよ?」

「じゃあなんで後ろにいるの!?」

「歩いたから?」

「過程が無いんだってぇ!!」


シエル、淡々。


「視線誘導と認識遅延です」

「解説でなんとかなる現象!?」


「怖がり方が理想的だった」

「評価するなぁ!?」


「再現性が高い」

「分析するな!!」


マスター、満足げに頷く。


「いやぁ、ちゃんと“来る前に来た感じ”出てたねぇ」

「なにそれ!?日本語が怖い!!」


ファニー、まだ肩を押さえてる。


「寿命削れたんだけど!?」

「誤差だねぇ」

「誤差で済ませるな!!」


シエル、淡々と割り込む。


「原因は明確です」

「聞きたくない!!」


「マスターです」

「やっぱりぃ!!」


一拍。

空気が、元に戻る。

……はずだった。


けれど。

“さっきそこにいた何か”の名残だけが、

ほんの少し、遅れて残っている。

誰も、それを拾わない。


マスター、机へ歩く。

書類の束を置く。


「シエルの書類、やっといたよ」

「……ありがとうございます」


受け取る。ぱら、とめくる。


ぺら。

「……」


ぺら。

「……」


ぺら。

手が止まる。


静かに視線を上げる。


「……マスター」

「ん?」


「すべての枠が、1ミリずつズレています」

「逆にすごい!!」


即ツッコミ。


「揃える方向おかしいからね!?」


首かしげる。


「え、でも“全部同じズレ幅”のほうが綺麗じゃない?」

「“ズレ”を整えてどうするんですか」


「整ってるよ?」

「ズレがです」

「うん、いい感じ」


コーヒーを一口。


「よくないわ!!」


ファニー、机バン。

書類は美しい。

均一。正確。完璧に――

“間違っている”。


沈黙。


その整い方が、さっきの“後ろの気配”と、同じ種類の気持ち悪さを持っている。

でも。

誰も、そこを繋げない。


ちりん――

風鈴が鳴る。

さっきと同じ音。

同じ、はず。


なのに。

ほんのわずかだけ、“タイミングが合っていない気がする”。


ファニー、ちらっと天井を見る。


「……ねえ」

「はい」

「今の、ちょっとズレてなかった?」


「気のせいです」

「即否定!?」


くすっと笑う。


「ズレてたほうが面白いよ?」

「面白さ優先で世界いじるな!!」


一拍。

静寂。


何も起きていない。

本当に。

何も。

――“まだ”。



……



夕方。


光が赤くなり、

室内の輪郭を曖昧にしていく。


鏡の前に、マスターが立つ。


「鏡よ鏡」

「やめなさいその導入」


シエルの声は即座だった。

マスターは気にせず、鏡へと顔を近づける。


「僕はだあれ?」


鏡の中の自分が、こちらを見返す。


――その一瞬だけ。

口元だけが、笑っていた。


目は、遅れて――

それを“真似た”。

瞬きのタイミングだけ、合っていない。


『ぼくで遊ばないでほしいねぇ』


声が重なる。

同じ音のはずなのに、どこか噛み合わない。

世界が、わずかに鈍る。


……


『……まだ認められないんだねぇ』


マスター、笑う。


「なんのことかな?」


軽い。 いつも通り。

――のはず。


『混ざってるのにさ』


一歩。

距離は変わらないのに、

“近づいた感じ”だけがある。


沈黙。

マスターの思考が、わずかに止まる。

言葉の前で、一度だけ“選び損ねる”。


「……」


呼吸。

そして。


「……混ざってないよ」


その言い方。

一瞬だけ。

――“借りている”


その瞬間だけ、声の主が“二つに分かれて聞こえた”

抑揚。落とし方。間。

自分のものじゃない。


空白体、笑う。


『ほら、それ』


すっと手が伸びる。

頬に触れる。

温度はある。現実はない。


マスターの視線が、揺れる。

否定する前に。

理解が、先に来る。


沈黙。

指先が、わずかに震える。

前髪に触れる。

まだ、上げない。


『混ざってない?』


やさしい声。

逃がさない声。


『無理しなくていいよ』

『もう、分けなくていい』


一拍。

マスター、息を吐く。

小さく。


マスターの手が動く。

額にかかる前髪を、片手でかき上げる。

乱暴に。


そして。

睨みつける。

その目は。

さっき鏡の中で見た“ズレた表情”そのものだった。


『ほら、それ』


くすり、と笑う。

視界が揺れる。


鏡の中の自分と、見ている自分。

どちらがどちらか、曖昧になる。


「……僕は僕、のはずだからね」


低く、押し出すように言う。


空白体は、まだ頬に触れたまま。

親指で、わずかに撫でる。


『うん、そうだね』


“一拍遅れて、同じ頷きが重なる”


その仕草は、あまりにも自然で。

あまりにも“いつものマスター”だった。


一拍。


『“どっちも”ね』


言葉が、止まる。

視線だけが、ぶつかる。


「……違う」


かすかな否定。

息のように、こぼれる。


空白体は、少しだけ首を傾げる。

優しく。

受け入れるように。


『違わないよ』


その声は、穏やかで。

逃げ場を奪う。


『大丈夫』

『君はもう、“一人分じゃない”』


マスターの手に、力が入る。

前髪をかき上げたまま。

指が、わずかに震える。


わずかに、笑う。


「……ハッ」


――“やめろ”と、“面白い”が同時に浮かぶ。


言葉を選ばない。

選ぶ前に。

“もう決まっている”。


視線が、合う。


「……お前も」


一瞬、同じ呼吸。

“どちらが先か分からない”


『うん』


空白体の瞳が、ほんのわずかに細くなる。

そのまま。


――音が消える。


言葉が落ちる。


「せいぜい足掻きなよ」


内側だけ、深く沈む。

空白体の動きが、止まる。

ほんの一瞬だけ。


『……いいねぇ』


くすり、と笑う。

今度は。

完全に同じ笑い方。


『その言い方』


一拍。


『ちゃんと“こっち”だ』


頬に触れていた手が、離れる。

ゆっくりと。

名残を引きずるように。


『ほらね』

『やっと揃ってきたね』


『…最初から、そうだったけどね』


視界が、揺れる。

鏡。自分。もう一人。

境界が、一瞬だけ消える。

――戻る。






……


―ちりん。

止まっていた風鈴が、遅れて鳴る。

空気が、戻る。


マスター、鏡から目を離す。


「……ん、戻った」

「戻ってない!!」


ファニーが即座に叫ぶ。


シエルは無言で鏡を見る。

そこには、最初から一人しか映っていない。

まるで、“増えていた瞬間そのものが存在しなかった”みたいに。


沈黙が落ちる。

三秒。

風鈴の音が、止まっていることに気づく。


空気が、少しだけ重い。


「……ねえ」


ファニーが、小さく言う。


「ええ」


シエルは視線を外さない。


「マスター、無理してない?」

「していますね」


一拍。


「無意識でしょうけど」


マスターはコーヒーを持ち上げる。


「うん、いい感じだねぇ」


笑う。

けれどその表情は、

ほんのわずかに遅れて切り替わった。


「……ほんとに?」

「ん?」

「それ、“あなた”ですか?」


マスターは、わずかに止まる。

考える間が入る。

ほんの一瞬。


そして、笑う。


「……僕は僕、だからね」


その言い方は、どこか確かめるようだった。


『……曖昧だねぇ』


ノイズの混じる声が、内側で響く。


「うるさいなぁ」

『混ざってるよ、もう』


沈黙。


ファニーの手が、ぎゅっと握られる。

シエルの目が、わずかに細められる。


「……調整が必要ですね」

「うん」


「ちゃんと、戻そ」


マスターは、窓の外を見た。

夕焼けが広がっている。


その瞳が。

ほんの一瞬だけ、揺れる。

紫が、縦に滲む。


一本。……いや。二本。

次の瞬間には、もう重なっている。




………

……



廃校。

内部。

空気が、重い。


境界堂フルメンバーでの討伐依頼。


息を吸うたびに、わずかな“抵抗”がある。

視界が、微妙に歪む。

まっすぐなはずの柱が、ほんの少しだけズレて見える。


「……来ます」

「今回、変な感じする」

「データ上も不安定ですね……!」


マスター、少し遅れて歩いてくる。

周囲を見て、ぽつり。


「うん、ズレてるねぇ」

「……何がだ」

「全部」


空間が――“正しくなる”。

同時に。

声が、混ざる。


『あなたは――だあれ?』


少しだけ、柔らかい声。


『大丈夫よ』

『ちゃんと見てあげるから』


「……は?」

「……教師型の干渉」


『名前は?』

『いい子ね、ちゃんと答えられるでしょ?』


『役割は?』

『あなたには、きっと向いている場所があるわ』


『意味は?』

『無駄な子なんていないのよ』


「うるさーい!!」

「……押し付けです」

「これ、肯定の形を取っていますが違いますね!」

「ええ。“定義の強制”です」


怪異、視線を向ける。

少しだけ、優しい声で。


『あなたは……』

『何になれるの?』


マスターの肩が揺れる。

思考が滑る。


「……何に…?」


床。壁。柱。

空間に、見えない線が走る。

まるで、世界そのものへ“区切り”を引くみたいに。


ぴし。

遅れて、廊下の端が、静かに滑り落ちた。

切断面は、異様なほど綺麗だった。


「……空間切断!?」

「“定義した位置”を切っています!」


教師の声が、近づく。


『努力すれば、ちゃんと意味がある子になれるわ』



■内側


『合理的な問いだ』

「……やめてよ」

『答えられないだろ?』



■外側


『役に立つ子よね?』

『ちゃんと価値、あるわよね?』


「……あ」


その瞬間。

視界の端で、“自分の輪郭”が、わずかに固定される。


名前。

役割。

意味。

曖昧だったものが、一つの形へ“決まりかける”。


空間に線が走る。

今度は、マスターの肩口へ。


『あなたはここ』

『ここからここまで』

『だから、切れる』



■内側


『ほら』


空白体の声。


『決められる』

『“どっちか”に』


「……っ」



■外側


呼吸が、浅くなる。

何かが、噛み合っていく。


曖昧だった輪郭。

揺れていた境界。

それが、“正しい形”へ押し込まれていく。


『役に立つ子よね?』

『ちゃんと意味がある子よね?』


「……や」


視界が、狭まる。


立っている位置。

肩の幅。

名前。

役割。

“ここにいる自分”だけが、急速に固定されていく。


胸の奥が、軋む。

息が吸えない。

いや。“吸い方が、一つに決められていく”


指先が、わずかに震える。

曖昧でいられない。

ズレていられない。

世界が、“正しい位置”へ合わせようとしてくる。


『はっきりしなさい』

『分からない子は、困るの』


『ちゃんと区別しなきゃ』

『ちゃんと見分けなきゃ』

『だって』


『曖昧なものなんて、存在してはいけないでしょう?』


目から、光が落ちる。

膝じゃない。

“存在の重心”が、沈む。


空間に線が走る。

今度は、マスターの肩口へ。


『あなたはここ』

『ここからここまで』

『だから、切れる』


線が来る。

避けられない。


「避けられない!!」

「位置が固定されている!」


空間ごと、 “そこにいる”と定義される。

だから、斬れる。

でも同時に。


『分類しなきゃ』

『ちゃんと見ないと』

『この子は……この子は……』


マスター、顔を上げる。

ゆっくり。


口元だけ、笑みが浮かぶ。

立ち上がる。

軽い。


「……そうでもないよ」


一歩。

その瞬間。

“輪郭が、半拍遅れてズレる”


線だけが通る。

でも。

切れていない。

空白だけが、 遅れて揺れる。


『……え?』


教師の声に、 初めてノイズが混ざる。


「“当たる位置”ってさ」


もう一歩。

床へ引かれた線が、わずかにズレる。


「“正しく定義されてる前提”なんだよね」


怪異、再演算。

空間補正。

切断位置、再固定。


でも。

またズレる。


『……なまえ、は……?』

『やく、わり……どこ……?』


「でも僕」


にへら、と笑う。


「ちょっと曖昧だから」


肩へ走ったはずの線が、 空中だけを裂く。


「最適解、外れるんだよねぇ」


補正が通らない。

問いも“正しく刺さらない”。


「演算が破綻してます!?」

「……基準が適用できない」

「バグじゃん!!」


マスターにラベルが貼れない。


『違う……違う……』

『こんなの、いない』

『分類できない』


『何なのよ、あなた!!』


「ねえ」

「君の“正しさ”」

「ちょっとズラしていい?」


空間が歪む。

正しい配置はズレる。


でも整ってる。

なのに成立してない。

声も歪む。


『あなたは――だあれ?』


音程がズレる。


「……なんだこれは」

「矛盾した最適化……」


「“ズレたまま最適”ってさ」


手を軽く振る。


「結構便利だよ」


補正不能。

定義不能。

“正しさ”が維持できない。


怪異、自壊。


「……勝った?」

「……勝ちましたね」

「……危険です」


怪異の声が、途切れる。

静寂。


崩れた廊下だけが、

遅れて、ぱらぱらと落ちる。

誰も、すぐには動かない。

勝った。

……はずだった。


その時。


「……あれ」


マスターの声だけが、少し遅れて響く。


「今、何したっけ」


「ほら見ろ!!」

「制御できていません」

「……自覚なしか」



■内側


『あーあ』

『やっちゃったねぇ』


「……なにが?」


『“ズレ”を使った』

『…もう戻れないよ、前の精度には』


マスター、目を細める。


こめかみに手を当てて――

乱暴に、髪をかき上げる


「……うるさいな」


思考が、噛み合わない。


「別に……困ってないでしょ」


『困ってるよ』

『もう、“戻る側”が残ってない』



■外側


マスター、小さく笑う。


「……まあいっか」


でも。

その直後。


笑いが、続かない

口元だけが止まる。

目が、空白になる。


ほんの一瞬。

“鏡の顔”が混ざる。



埃っぽい、

崩れた空間の奥。

黒板が、溶けるみたいに歪んでいる。


廊下の輪郭も、天井の線も、

“教師”だった形を維持できていない。

スーツの袖だけが浮き、

次の瞬間には、それもノイズみたいに崩れた。


なのに。

“声だけ”が残っている。


『だって……』


誰もいない場所から、言葉だけが滲む。


『わからないと……』

『どう教えればいいの……?』


壁に染み込むみたいに、声が残る。


『ねえ……』


輪郭は、もう無い。

目も、顔も。

“教師”だったものは、ほとんど空間へ溶けている。

なのに。


『正解になってよ』


その一言だけ、異様にはっきり届く。


マスター、ぴくりと反応する。

空間が、わずかに軋む。


『お願いだから……』


今度は、近い。

耳元じゃない。

頭の“内側”で鳴る。


『“ちゃんとした子”になって……』 


声が、落ちる。

黒板の文字が、

意味もなく増殖して、崩れ、消える。


『あなたは……だあれ?』


その問いだけが、 最後まで形を失わない。


時間が、止まる。

マスターの呼吸が、一瞬だけ消える。


「……っ」


その問いは、“音”じゃない。

定義要求。

逃げ場がない。


「……違う」


先に出る。反射で。

でも、その“違う”に中身がない。


視界がブレる。

足元が“自分のものじゃなくなる”。

立っている感覚が、消える。


「……あ、れ」


手を見る。

指が、他人みたいに見える。


頭の中に

“答え”が流れ込む。


・名前

・役割

・関係

・記憶


既に知っているはずの順番で、並ぶ。

なのに。

“誰のものか”が決まらない。


でも

全部、一致しない。


「……違う」


一つ掴む。

崩れる。


「これ……じゃ……」


また別の答え。

それも違う。

どれかを選べば、“それ以外”が消える。

でも。

どれも、自分だった。


声が増える。

怪異は消えかけているのに。


『役に立つ子よね?』

『ちゃんとして』

『期待してるから』


マスターの瞳が揺れる。


「……やめろ」


『正しくなって』

『間違えないで』


「……うるさい……!」


身体の感覚が、バラバラになる。


視界だけ先に進む。

声だけ遅れる。

思考が重なる。


「……なに、これ……」


『ほらね』

『基準がないと、こうなる』


マスターの輪郭が“揺れる”。

立っている位置がズレる。

さっきまでいた場所と

今いる場所が一致しない。


「……どこ……」


自分の声が

自分のものに聞こえない。


「……誰が……喋って……」


怪異、もう一度。


『あなたは、だあれ?』


今度は

逃げ場ゼロ。


マスター、口を開く。


「ぼ……」


止まる。


「……」


何も出ない。

瞳から、光が消える。


「……わかんない」


その一言は

完全な敗北。


“どれを選んでも嘘になる”

それだけが、はっきり分かる。


膝が落ちる。

でも今回は

“崩れる”音がする。


「……僕……」

「……違う……」

「……どれも……違う……」


答えがあるのに

全部、選べない


空白体、冷静に。


『決められないなら』

『何にでもなる』


「……ちがう」


でも

声に力がない。


「……ちが……」


言葉が、崩れる。

“自分”を掴もうとして、指の間から抜け落ちる。

呼吸だけが、浅い。


「……っ……」


もう、何を守っていたのか分からない。

指先が、宙を掻く。

何かを探すみたいに。

誰かを確かめるみたいに。


でも。

掴んだ感覚だけが、遅れて抜け落ちる。


「……誰でもいい……」


掠れた声。

伸ばした手が、

空中でわずかに震える。


縋る先が分からない。

でも、

“決めてもらわないと崩れる”ことだけは分かる。


「……決めてよ……」


焦点の合わない目のまま、

誰もいない空間へ手を伸ばす。


指先が、

ほんの少しだけ、

“何かに触れた形”で止まる。


「……僕を……」


一拍。


その手が、ゆっくりと落ちる。



「“これ”だって……言ってよ……」



ファニー駆け寄る。


「……マスターっ!」


怪異、揺れながら。


『ほら』

『空っぽ』

『だから、埋めてあげる』


“正しさ”が流れ込む。


「危険域です!!」

「……戻れ!!」


ファニー、腕を掴む。

荒い。


「意味とか後でいいから!!」

「今は立って!!」


シエルが顔を掴み、視界に入れさせる。

指が食い込む。

逃がさない。

顔の向きを“固定する”。


「今は定義不要です!!」

「その問いは無効です!!」


「こっちを見てください!」

「“今のあなた”を見なさい!」


マスター、引かれる。

でも

足がついてこない。


「……意味……」

「……いらない……?」


「……いらない、で……いい?」


クロード、一歩踏み込む。

床が鳴る。重い音。


「立て」


肩を掴む。

強い。逃げられない力。


「お前は“ここ”にいる」

「勝手に消えるな」


マスターの身体が、揺れる。


視界だけが遅れる。

声だけが先に届く。


シエルの言葉と

ファニーの引きと

クロードの力が


“同時に来ない”


それでも

“重なって”届く。


カノン、即座に切り替える。


「接続再構成」

「対象:マスターさん」


指先が空間をなぞる。

見えない線が、ほどけかけた輪郭に触れる。


「位置情報を接続」

「状態情報を接続」


空間とマスターの間に、細い“糸”が走る。

切れかけたものを、無理やり結び直すみたいに。


「“今のあなた”を、ここに繋ぎます」


一拍。


「完全でなくていい」

「切れなければ、それでいいのです!」


怪異の声、遠くなる。

でも

刺さったまま。


『正解になって』


――今度こそ、消える。



静寂。

引かれる力だけが残る。


ファニーの腕。

クロードの手。

シエルの視線。

カノンの糸。


全部、ある。

でも。

“自分だけが、そこにいない”


「……僕は」


口が動く。

音が、少し遅れて出る。


「……」


続かない。

視界が、ズレたまま。

呼吸が、半拍遅れる。


一歩。

踏み出したはずの足が、

“後からそこに来る”


「……あれ」


小さく。

自分で、自分に驚いてる声。


「……今……」


言葉が、ほどける。

沈黙。


手を見る。

ちゃんと、動く。

でも。

“これが誰の手か”だけが、まだ曖昧。


「……意味、かぁ」


ぽつり。

“考えた”というより、

“口から落ちた”みたいな声音。


一拍も置かず。


『答えは簡単だ』


迷いのない声。

“最初から決まっていた側”の響き。


即答。

だけどその否定、

ほんの少しだけ“遅れている”


息を吐く。

うまく吐けない。

浅い。


もう一度。

今度は、ちゃんと吐く。

そのあとで。

――ようやく。


「……まあ」


笑う。

目が先に細まる。

一拍遅れて、口元がついてくる。


「まあでもさ」


声は、いつもの調子。

でも。

“選んでる”


一語ずつ、慎重に。


「困ってないし」


「……いっか」


言い切る。


言い切ったあと。

ほんの一瞬だけ。

目が、空になる。

すぐ戻る。


何事もなかったみたいに。

――ただし、それは“そう見えるだけ”だ。


シエル、ほんのわずかに眉を寄せる。


「……いえ」


小さく。


「それは、困ります」


一拍。


「“戻る基準”が、失われます」


マスターの返事だけが、 少し遅れて届く。


「……ん?」



――“定義を失ったまま、日常は続く”



マスター「大変たいへーん☆僕のアイデンティティの危機だよー!?」

ファニー「軽すぎるよ!?!? さっきまで世界ヤバかったでしょ!?」

シエル「余韻を返して下さい」

カノン「ではこの最新作の装置をですね!」

二人「やめろ」

クロード「戻ってこい」


一拍。


マスター「大丈夫大丈夫、たぶん“どっちも僕”だからねぇ」

ファニー「それが一番ダメなやつ!!」

シエル「増えないで下さい」

クロード「増えるな」

カノン「増えますね!!」


マスター「もう一人くらいなら大丈夫だよねぇ」

ファニー「何人まで許容する気!?」

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