3 距離
おねがい
もうこの手を
離さないで
………
……
…
きっかけは、ほんの些細なことだった。
ファニーが言う。
「……甘いの、食べたい」
三秒の沈黙。
シエルが横から補足する。
「体力回復には糖質も必要だ」
理屈をつけた。
マスターは書類から目を上げる。
「外、行く?」
二人が同時に警戒する。
「追手は」
「監視は」
「今日は静かだよ。たぶん」
“たぶん”が不安。
それでも。
十分後。
三人は並んで歩いている。
距離はまだ微妙に空いている。
真ん中にマスター。
左右に二人。
自然に守る形。
小さな定食屋。
古い木の引き戸。
湯気と味噌の匂い。
カラン、と入店。
店主が言う。
「いらっしゃい。三名さん?」
一瞬、三人が固まる。
“三人”。
その響きが、妙にくすぐったい。
席に着く。
ファニーはメニューを凝視。
シエルは周囲の動線確認。
マスターはお茶をすすっている。
「パフェ、ある」
ファニーの目が輝く。
「ここ定食屋だよ?」
「でもある」
勝利の顔。
注文。
しばらくして、料理が来る。
味噌汁。焼き魚。唐揚げ。
そして場違いなほど背の高いチョコパフェ。
ファニーが静かに言う。
「でか……」
その瞬間。
ぐらっ。
パフェ、傾く。
三人の視線が同時に動く。
倒れる。
マスターが反射的に言う。
「定義、そのパフェは倒れない」
固定。
時間が一瞬、粘る。
だが。
がちゃん。
普通に倒れる。
完全敗北。
沈黙。
テーブルに広がるチョコの海。
マスター、鼻血。
「……軽い物理現象には効きにくいんだよね」
言い訳が遅い。
ファニーが吹き出す。
「なにそれ!!」
シエルも、口元が崩れる。
「万能ではないと」
マスターは紙ナプキンを渡しながら苦笑する。
「僕は神様じゃない」
店主が笑いながら新しいパフェを持ってくる。
「若いねぇ」
その一言で。
ふ、と。
力が抜ける。
ファニーが笑う。
今までの強がりじゃない。
警戒でもない。
腹の底から。
シエルも、声を殺さず笑う。
マスターもつい笑いが零れた。
三人の笑い声が、店の木壁に跳ねる。
その瞬間だけ。
追手も、機関も、学園もない。
ただの三人。
ただの外食。
チョコまみれのテーブル。
ファニーがスプーンを差し出す。
「ほら、最初の一口」
マスターが少し驚く。
躊躇。
受け取る。
甘い。
「……うん、美味しい」
シエルが静かに言う。
「次は倒れない方法を研究する」
ファニーが即答。
「まず手で支えろ」
また笑う。
距離。
自然に、触れそうなくらい近い。
誰もそれを意識しない。
野良猫はまだ完全には懐いていない。
でも。
今日は、逃げない。
そして。
初めて。
心から笑った。
夜の空気はやわらかい。
パフェの甘さがまだ舌に残っている。
三人で並んで歩く。
会話は途切れ途切れ。
でも沈黙は痛くない。
ファニーがふいに笑う。
「倒れないって言ったのに倒れたのウケる」
マスターは肩をすくめる。
「だから言ったでしょ、僕は神様じゃない」
「言ってない」
「心の中で言った」
小さなやり取り。
交差点で信号待ち。
人混みが少し押し寄せる。
その瞬間。
くい。
マスターの袖が、引かれる。
無意識。
ファニーの指が、ぎゅっと布を掴んでいる。
自分でも気づいていない。
ただ、人波に押されて。
ただ、離れたくなくて。
マスターは何も言わない。
視線も落とさない。
ただ歩幅を少しだけ合わせる。
信号が青になる。
人波が流れる。
それでも。
袖は、離れない。
数歩進んでから、ファニーが気づく。
固まる。
ぱっと手を離す。
「ち、違うから! 迷子防止!」
誰も何も言ってないのに弁解。
シエルが横から静かに言う。
「迷子になるのはあなたでは」
「うるさい!」
耳まで赤い。
マスターは軽く笑う。
「安心して。取って食べたりしない」
「誰がそんな心配!」
でも。
さっきより距離は近い。
少し後ろを歩きながら、シエルは考えている。
ここにいる理由。
最初は生存。
次は様子見。
その次は――
今日、笑った。
無防備に。
あんな風に。
あの人の前で。
思い出す。
“選ばせたい”
“所有しない”
あれは演技じゃない。
合理性が足りない。
でも。
不合理に、嘘がない。
シエルは気づく。
ここにいるのは、守られているからではない。
選ばれているからでもない。
自分が、ここを選び始めている。
足が止まる。
マスターが振り返る。
「どうした?」
ほんの少しだけ。
シエルは迷う。
そして、言う。
「……しばらくは、ここにいる」
宣言ではない。
確認でもない。
自分への決定。
マスターは頷く。
「うん」
それだけ。
条件も、期限も聞かない。
ファニーが横から言う。
「私も!」
「競うな」
三人でまた歩き出す。
事務所の灯りが見える。
小さな光。
帰る場所。
まだ家じゃない。
でも、拠点だ。
袖の感触が、少しだけ残っている。
事務所の灯りが、まだ消えていない。
………
……
…
コーヒーの湯気。
書類の山。
甘い匂いの名残。
その時。
コン、コン。
礼儀正しいノック。
ファニーの肩が跳ねる。
シエルの視線が窓へ走る。
マスターはカップを置く。
「来たね」
ドアを開ける。
そこに立っていたのは
機関の最高幹部
機関長・クロード
灰色のコート。
整えられた笑み。
冷たい目。
「久しいな、マスター」
「久しいね」
空気が薄くなる。
ファニーが小さく呟く。
「……機関」
クロードの視線が二人へ向く。
「保護対象を返してもらおう」
マスターは一歩前に出る。
自然な動き。
庇う形。
「保護? 追跡の間違いでしょ」
クロードは笑う。
「彼女らは我々の管理下にある。逸脱は修正する」
言葉が刃物。
沈黙。
マスターがゆっくりと息を吸う。
「僕たちはこれから探偵事務所を開く」
唐突。
クロードの眉がわずかに動く。
「干渉は不要」
一歩。
さらに近づく。
「もし二人に危害を加えるなら」
空気が震える。
マスターの瞳が、静かに冷える。
「……潰すよ?」
クロードは一瞬、笑みを消す。
「まだその力を使う気か?」
マスターは答えない。
ただ、指先を軽く鳴らす。
低く、静かに。
「定義、境界線」
世界が、止まる。
音が遠のく。
事務所の床に、淡い光の線が走る。
クロードの足元を囲む、見えない檻。
クロードが動こうとする。
動けない。
「定義、暴力は不許可」
圧がかかる。
空間そのものが拒絶する。
クロードの口元が歪む。
「……相変わらず厄介だ」
マスターは穏やかに言う。
「覚えてる?」
そして。
過去が、静かに開く。
………
……
…
三年前。
機関の地下実験区画。
暴走した能力者を“処理”する日。
命令は簡潔だった。
“全員排除”。
子どもも含まれていた。
実験体番号A-17。
震える小さな手。
泣き声。
銃声。
マスターは命令を拒否した。
そして、言った。
「定義、殺害は無効」
引き金は落ちた。
だが、弾は止まった。
空間に縫い止められた鉛。
続けて。
「定義、銃は機能停止」
機関の武装が沈黙。
あの日。
地下区画の一角だけが、別世界になった。
その結果。
機関は多額の損失。
実験データ消失。
部隊半壊。
それ以来。
マスターは“要注意人物”。
………
……
…
クロードが低く言う。
「あの件の再現をするつもりか?」
「違うよ」
微笑む。
でも目は笑っていない。
「僕は戦争をしたいわけじゃない」
一拍。
「ただ守るだけ」
光の境界線が、さらに淡く強くなる。
クロードは数秒黙り、
そして肩をすくめた。
「……条件を出せ」
拘束が解ける。
マスターは指を鳴らす。
「定義、通常空間へ復帰」
音が戻る。
時計がカチリと進む。
「干渉しない。監視も最小限。
彼女らは自由意思でここにいる」
クロードは二人を見る。
ファニーは睨み返す。
シエルは揺れない。
長い沈黙。
「……暫定的に承認しよう」
背を向ける。
「だが忘れるな。世界は甘くない」
扉が閉まる。
静寂。
ファニーが震える声で言う。
「本気だった?」
マスターは振り返る。
いつもの柔らかい顔。
「うん」
シエルが問う。
「潰す、と言った」
「言葉通りだよ」
でも、次の瞬間。
少しだけ、寂しそうに笑う。
「できれば使いたくないけどね」
ファニーが小さく言う。
「……バカ」
けれど距離は、もう離れない。
マスター
「僕は抹茶パフェがいいねぇ」
ファニー
「だから倒れるって!」
シエル
「次は支える」
マスター
「では共同防御だ」
ファニー
「パフェに防御概念つけるな!」




