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1‐1 境界:始まりの選択


雨音の中、世界が“拒絶された”。


「定義。この事務所は、彼らにとって“不可侵領域”である」


言葉が落ちた瞬間、

現実が、わずかに軋んだ。


窓ガラスのヒビが止まる。

圧力が消える。

外にいた“何か”が、一歩だけ後退する。


ぽた、と赤が落ちた。


「……軽い固定だよ」


榛色の男は、そう言って笑った。


――その時点で、もう遅かった。





――少し前。


その人は、窓の外を見ていた。

何かを観測しているようで、何も見ていない。


雨の向こう。

二つの影が、近づく。


――“例外”。


その定義が、わずかに揺れる。



扉が開く。


雨に濡れた街路を駆ける、ファニーとシエル。

息は荒く、足はもつれ、視界が滲む。


「……シエル、もう……」


背後。

追手の足音。

シエルは振り返らない。

判断だけを前に投げる。


「……あそこしか、ない……!」


光。

小さな事務所。

窓から洩れる、場違いなほど穏やかな灯り。


――間に合わなければ、終わる。


二人は最後の力で扉へ飛び込んだ。

温かい空気。

乾いた木の匂い。


「……おや」


一拍。


「君たち、どうしたんだい?」


柔らかい声。

榛色の男。

笑っている。


――観測している。


二人は、その場で崩れた。


「……助けて……」


言葉は、ほとんど形を保っていなかった。


マスターは迷わない。

抱き上げる。中へ運ぶ。

雨音が、外界を閉ざす。


床に横たえられた二人を見下ろし、

彼は一瞬だけ笑みを消した。

観測、完了。


次は――選択。


外。

気配。

“機関”。


偶然ではない。

ここに来た時点で、もう巻き込まれている。


マスターは息を吐いた。


「……匿うよ」


それは確認ではなく、決定だった。


雨音。

そして――通信。


『対象F-07、C-03、ロスト』


マスターの指が、わずかに止まる。


「番号で呼ぶの、好きじゃないんだよね」


次の瞬間には動いていた。

毛布。

火。

鍋。水、塩、少しの米。


「まずは燃料補給だね。空腹だと、未来は選べない」


声は変わらない。

だが。

その瞳は、もう戦場の色をしている。


ファニーの指が、毛布を掴む。

シエルの呼吸が、浅く、規則を取り戻す。


――生きる。


マスターはスマホを取り出す。

登録名のない番号へ発信。


三コール。


「やあ。久しぶり。……うん、そう。拾ったよ」


沈黙の向こう。

“機関”


「引き渡す気はない。代わりに、取引をしよう」


窓の外、稲光。


「君たちは“管理”が欲しい。

僕は“干渉されない自由”が欲しい」


一拍。


「彼らは僕の管理下に置く。表向きは無関係。

その代わり、君たちは手を引く」


間。


「拒否? ――それも定義できるよ?」


鼻先に、わずかな血の気配。

それでも、笑う。


「冗談さ。まだね」


短い沈黙。

そして、決着。

通話終了。


「これで、僕は完全に外だ」


学園でもない。

機関でもない。

逃亡者でもない。


――第三勢力。


背後で、シエルの瞼がわずかに開く。

“取引”。

その単語だけが、沈む。


「起きたら食べなさい。冷めるとまずい」


声はやわらかい。

だが、立場はもう決まっている。

ここは避難所ではない。


――拠点だ。



雑炊の匂い。

シエルが先に目を開ける。


反射で確認。出口、窓、距離、即席武器。

そして――マスター。

椅子。コーヒー。無防備。


――嘘だ。


「おはよう。死んでないね」


起き上がろうとして、眩暈。

ファニーも遅れて覚醒。


「……ここ、は……?」


「僕の事務所。君たちは派手に倒れた」


一拍。


「……取引、したな」


空気が止まる。

カップが静かに置かれる。


「耳がいい」


「俺たちを、売ったのか」


刃の声。


「また、実験……?」


その単語で、温度が落ちる。

マスターはしゃがむ。

距離は詰めるが、圧はかけない。


「売ってない。渡してもいない」


一拍。


「ただ、“触らせない”約束をさせた」


シエルの瞳が揺れる。


「代償は」


「僕が、外側に立つこと」


理解が早い。


「……あなた一人が、標的になる」


「慣れてる」


軽い声音。

軽すぎる。



――ドン。


外壁に衝撃。

圧力が走る。

来た。


シエルが動く前に、マスターが前に出る。

声が変わる。

低く、静かに。


「定義。この事務所は、彼らにとって“不可侵領域”である」


世界が軋む。

ヒビが止まる。

圧力が消える。


外が、一歩退く。


静寂。

ぽた。

赤。


「……なに、今の」


「固定だよ」


袖で拭う。

白い。


「軽い」


嘘。

シエルは理解する。


「反動は」


「鼻血くらい。今回は」


“今回は”。


「上限があるな」


「ある」


即答。


「超えれば、帳尻が来る」


未来の。


わずかに、ふらつく。

壁。手。止める。


「大丈夫。軽い貧血」


半分だけ本当。

二人は距離を取る。

まだ、信用していない。


いい。

それでいい。


「出ていくなら止めない」


肩が強張る。


「ただ」


鍋の蓋が開く。

湯気。

米と塩。

やわらかい匂い。


「空腹で走ると死ぬ」


器を二つ。

三メートル先。

近づかない。触れない。


「毒はない。理由もない」


シエルは観る。

湯気。温度。粘度。


ファニーの喉が鳴る。

三十秒。

一分。


「……一口だけ」


震える手。

口へ。

沈黙。

ぽろり。


「……あったかい」


シエルはまだ動かない。

視線は外さない。

五分。


――折れる。


一口。

監視は続く。


マスターは見ない。

コーヒー。

窓。

雨。



それでいい。


――“定義される側”でいる限りは。




マスター「米を煮れば雑炊だよ」

ファニー「雑すぎる!」

シエル「水分量を言え」

マスター「感覚だ」

ファニー「一番信用できないやつ!」


マスター「……でも、死なない程度には当たる」

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― 新着の感想 ―
マスターと二人の出会い。 何やら不思議な力をマスターは持ってるんですね〜? 機関に追われてる二人??
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