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観測者は感情を知らない  作者: 白鐘
第二章 蜘蛛
12/36

1 崩れ落ちる


街の公園は、パンの匂いと子どもの笑い声で満ちている。

芝生を歩く三人と一匹。


マスターは両手をポケットに入れ、相変わらずのうさん臭い微笑み。


榛色の短髪が陽射しを跳ね返す。


「平和だねぇ。こういう時間が一番、危険予測しづらいんだ」


「それ平和じゃないですよね?」


シエルが冷静にツッコむ。


その瞬間。

ふらり。

マスターの視界が揺れる。


次の瞬間、芝生に崩れ落ちる。


「マスター!?」


「敵襲か!?」


二人が一瞬で臨戦態勢。

ファニーは周囲の気配を読み、シエルは影の流れを観察する。


静寂。

ハトが一羽、ぽてぽて歩いている。


シロちゃん、尻尾をゆらりと揺らしながら一言。


「……ぬし、食事をとったのはいつじゃ?」


マスター、芝生に寝転んだまま空を見上げる。


「うーん……いつだっけ……。あ、昨日の朝だ」


ファニーとシエル、固まる。


「ファニー、僕の鞄からスティック羊羹出して……」


ファニー、慌てて鞄を漁る。


「あった!なんで羊羹だけは常備してるの!?」


「糖は正義だからね」


むしゃむしゃ。


「マスター。俺たちと一緒に今日も朝ごはん食べ……て無いな。コーヒー飲んでただけだ」


「えええ、うわ、ホントだ」


マスター、羊羹を飲み込んでにっこり。


「うっかり食べ忘れてたよ」


「うっかりで命を削るでないわ」


春風が吹く。


ファニーは腕を組み、じと目。


「マスターってさ、自分のことだけバグってるよね」


シエルは冷静に補足。


「危機管理は都市レベル。自己管理は未就学児レベル」


マスターは笑う。


「バランスって大事だよね」


「どの口が言うんですか」

「どの口が言うのじゃ」


ハモる後輩と白猫。


芝生。

まだ少し冷たい風。


マスターはベンチに腰かけたまま、空になったスティック羊羹の包みをくるくる丸めている。


ファニー、腕を組んでじっと見る。


「ねえマスター」


「ん?」


「昨日、何食べた?」


「……えっと」


間。


視線が泳ぐ。


シエル、即答。


「コーヒーだけですね」


「うわ出た」


ファニー、額を押さえる。


「今日もそれだよね?」


「まあ……うん」


「“まあ”じゃないのよ」


マスターは肩をすくめる。


「考え事してたら、ちょっと忘れてただけだよ」


「ちょっとで倒れます?」


「結果論かな」


シエル、淡々と。


「マスターは思考優先時、身体信号をほぼ切ります」


「便利でしょ?」


「不具合です」


即答。


ファニーが指をびしっと向ける。


「あとさ、自分のこと後回しにしすぎ」


「そう?」


「そう!」


一歩踏み込む。


「人のことはあんなに気づくのに、自分の限界だけ見えてないじゃん」


マスター、少しだけ目を細める。


「……癖みたいなものだよ」


シロちゃん、尾をゆらす。


「長く染みついたのう」


沈黙、ほんの一瞬。

風が通る。


ファニーがふっと息を吐く。


「ねえ」


少しだけトーンが落ちる。


「お腹空いたって言うの、そんな難しい?」


マスターは苦笑する。


「言う前に、“まあいいか”ってなるんだよね」


「それがダメなの!」


ぴしっと即断。

シエルが手帳を開く。


「では仕組みで解決します」


カチ、とペン。


「朝食、固定化。未摂食時は活動禁止」


「えっ」


「例外なしです」


ファニーがにやりと笑う。


「強制朝ごはん制度、決定〜」


マスター、少し困った顔。

でも。

ほんのわずかに、緩む。


「……厳しいなぁ」


「当然」


「健康管理も任務です」


二人の圧。

マスターは観念したように息をついて、肩を落とす。


「合理的に考えれば、必要なのは分かってるんだけどね」


ファニー、すぐさま返す。


「合理性だけで生きると、つまらないんでしょ?」


ぴたり。

空気が止まる。


マスター、少しだけ驚いた顔。

それから、ふっと笑う。


「……うん」


視線を上げる。

二人を見る。


「だから君たちと食べる」


一拍。


ファニー、目を細める。


「……ちゃんと噛んでね?」


「噛むよ。人類だからね」


「さっき飲んでましたよね」


「羊羹は例外でしょ」


即否定が二人分飛ぶ。


「例外にしません」


「しない」


ハモり。

シロちゃんがくつくつ笑う。


「ぬし、一人だと身体を道具扱いじゃな」


マスター、少しだけ目を逸らす。


「……否定はしない」


ファニーがぱん、と手を叩く。


「はい決定!」


ぐっと距離を詰める。


「これからは“一緒に食べるまで解散禁止”ね」


シエルも頷く。


「スケジュールに組み込みます」


マスターはしばらく二人を見て。

それから、柔らかく笑った。


「……ありがと」


風が抜ける。

芝生が揺れる。


さっきまでと同じ公園。

同じ午後。


けれど。

ほんの少しだけ、“一緒に食べる理由”が増えていた。


その言葉の裏で、

遠くの街灯に絡む白い糸が、わずかに震える。


そのとき。


風が、ほんの少し止まる。


ファニーが首を傾げる。


「……なんか、静かじゃない?」


シエル、周囲を観測。


「異常値なし。しかし」


マスターがベンチに座り直す。

エメラルドの瞳が遠くを見た。


「糸、あるよ」


空気の中に。

目には見えない、極細の線。

誰かの孤独が、どこかへ伸びている。


まだ強くはない。


ただ。


振動している。

遠くで。

小さな、規則的な揺れ。


まるで。

“待っている”みたいに。


シロちゃんの尾がぴたりと止まる。


「……観測されたのう」


マスター、軽く笑う。


「羊羹食べただけだよ?」


だが。

エメラルドの奥に、わずかな影。


平和の隙間。

甘い後味の向こう。

見えない糸が、風に揺れている。


ベンチに並ぶ三人。

マスターは空になったスティック羊羹の包みを丸める。


「血糖値って偉大だね」


「偉大なのは食べること!」


「次回から朝食は義務化です」


小さな笑い。


風が戻る。

鳩が羽ばたく。

公園は何事もなかった顔をしている。


だが。


マスターのエメラルドが、ほんの一瞬だけ遠くを見る。


「……糸」


誰にも聞こえない声。

見えない振動。


それは街の奥へ、静かに伸びている。


電線。

ビルの影。

曇った窓。


さらに高く。


視界が裏返る。

色が抜ける。

音が消える。


代わりに、振動だけがある。


無数の糸。

孤独の周波。


その中に、ひときわ澄んだ揺れ。


エメラルドの波形。


大蜘蛛はそれを“視る”。

八本の脚が、わずかに止まる。


《未完成》

《だが、近い》


糸が微細に震える。


《非対称》


遠くで、別の糸が震える。


それはまだ弱い。

細い。

だが芯がある。


後に絡むことになる、銀の気配。


蜘蛛は知る。


三つの振動が、まだ揃っていないことを。


だが。

いずれ重なる。


そのとき。

巣は揺れる。


最後に、ひとつだけ声が落ちる。


《糸は、切れない》


視界が戻る。


公園。

笑い声。

スティック羊羹の甘さ。


何も起きていない午後。

だが、観測は始まっている。




色が抜けた視界の、そのさらに奥。


暗いわけではない。

光が届かないわけでもない。


ただ、世界が“薄い”。

音は遠く、輪郭は曖昧。


けれど、ひとつだけ確かなものがある。


鼓動。


どくん。


規則正しいが、弱いわけではない。

むしろ、妙に静かで、強い。


誰かが、膝を抱えている。


だが姿は見えない。

形は、まだ決まっていない。


指先が、空をなぞる。

触れたはずのない場所で、


極細の糸が、ぴんと震える。


“あ”


声にならない息。


どくん。


遠くで、エメラルドが揺れた瞬間。

こちらの鼓動が、ほんのわずかに速くなる。


見えていない。

知られていない。


けれど。


確かに、感じた。

待っている、というより。

ずっと、そこにあった。


選ばれるのを、ではない。

“見つけられる”のを。


どくん。


鼓動の周囲に、白いノイズが走る。


観測しようとした視線が、すべて滑る。


記録できない。

数値化できない。

像が結ばれない。


それでも。


糸は、伸びている。

絡むためではなく。

確かめるために。


どくん。


次の瞬間、すべてが薄くなる。

振動だけが残り、

それさえも、


“いなかったこと”になる。



マスター「非常食は鞄に入れておこうねぇ」

ファニー「まず朝ごはん食べよ?」

シエル「観測者以前に人間です」

シロ「空腹で倒れる主は締まらぬのう」

マスター「次は倒れないよ、たぶん」

ファニー「“たぶん”禁止!」

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