1 境界
初投稿です
その人は、窓の外を見ていた。
午後の光が、榛色の髪を縁取っている。
何かを観測しているようで、何も見ていない横顔だった。
表向きは、風変わりな探偵事務所だ。
外観も内装も、街の他の建物と少しだけ異なる。
看板には小さく「境界堂」と書かれ、
その文字は控えめながらも、どこか妖しげな存在感を放っていた。
マスターは感情を理解しない。
少なくとも、本人はそう定義している。
けれど、廊下の向こうで足音が止まった瞬間、
彼の視線は、わずかにだけ揺れた。
そして、ドアの向こうから飛び込む二人の姿に、
その揺れは、ほんの少し強まった。
………
……
…
雨に濡れた街路を必死に駆ける、ファニーとシエル。
学園から逃げてきた二人の体は泥と雨でべっとり、息は荒く、足取りもおぼつかない。
「…シエル、もう…無理かも…」
ファニーの声は震え、肩で息をする。
背後から微かに、追手の足音。
シエルは必死で耳を澄まし、判断する。
「…あそこ…あそこしかない…!」
二人の視界に、かすかな光が灯る。
小さな事務所の窓から洩れる温かい光。
希望の光。最後の頼みの光。
二人は力を振り絞り、扉へ向かって駆け込む。
背中に追手の影、足はもう限界。
ドアを開けた瞬間、温かな空気と乾いた木の匂いが二人を包む。
マスターの声が響いた。
「おや、君たちどうしたんだい?」
榛色の短髪、微笑みを浮かべた瞳。柔らかい声。
でもその奥には、全てを読み取る冷静な観察眼。
ファニーとシエルはその声に、力尽きて膝から崩れ落ちる。
「おねがい、助けて…」
シエルの意識がふっと薄れ、ファニーもそのまま倒れこむ。
マスターはすかさず二人を抱き起こし、事務所の中へ導く。
雨音が、世界を薄く塗りつぶしている。
床に倒れた二人を見下ろしながら、マスターは一瞬だけ微笑みを消した。
観察は終わった。判断の時間だ。
外。
わずかな気配。
学園の追手……いや、正確には“機関”の匂い。
逃げ込んできた時点で、偶然ではない。
監視網の穴は、七分だけ開けておいた。
これは選択だ。
マスターは静かに息を吐く。
「……匿うよ」
誰に言うでもなく、決めた。
雨音。
そして。
遠くで、通信。
“対象F-07、C-03、ロスト”
マスター、静かに呟く。
「番号で呼ぶの、好きじゃないんだよね」
次の瞬間には動いていた。
毛布を二人に投げる。
コンロに火を入れる。
鍋に水、塩、少しの米。消化のいい雑炊。
「まずは燃料補給だね。人間はね、空腹だと未来を選べない」
声はいつも通り柔らかい。
だがその瞳は、もう戦場の色をしている。
ファニーの指が、かすかに毛布を掴む。
シエルの呼吸が浅く、しかし規則的に戻り始める。
よし、生きる。
マスターはスマホを取り出す。
登録名のない番号へ発信。
三コール。
「やあ。久しぶり。……うん、そう。拾ったよ」
沈黙の向こう側。
機関の中枢。
「引き渡す気はない。代わりに、取引をしよう」
窓の外で稲光が走る。
「君たちは“管理”が欲しい。僕は“干渉しない自由”が欲しい。
彼らは僕の管理下に置く。表向きは無関係。
その代わり、学園は手を引く」
間。
「拒否? それも定義できるよ?」
わずかに、鼻先に血の気配。
だが笑う。
「冗談さ。まだね」
短いやり取り。
そして決着。
通話終了。
マスターは静かに呟く。
「これで、僕は完全に外だ」
学園でもない。
機関でもない。
逃亡者でもない。
第三勢力。
守る代わりに、世界と交渉する者。
背後で、シエルがわずかに目を開ける。
意識の底で、聞いてしまった。
“取引”
その単語。
マスターは振り返らない。
ただ優しく言う。
「起きたら食べなさい。冷めるとまずいからね」
声はあくまで柔らかい。
だがもう、立場は決まった。
この事務所は避難所ではない。
ここは、拠点だ。
物語が、動き出す。
雑炊の匂い。
毛布の中で、シエルが先に目を覚ます。
反射的に状況確認。
出口、窓、武器になりそうな物、距離。
そして――
マスター。
椅子に座り、コーヒーを飲んでいる。
「おはよう。死んでないね。よかった」
柔らかい声。
シエルは起き上がろうとして、眩暈。
ファニーも遅れて目を開ける。
「……ここ、は……?」
「僕の事務所。君たちは派手に倒れた」
一拍。
シエルの視線が鋭くなる。
「……取引、したな」
空気が止まる。
マスターはカップを置く。
笑みは崩れない。
「耳がいい」
「俺たちを、売ったのか」
静かだが、刃物の声。
ファニーも震えながら言う。
「また、実験……?」
その単語。
空気がわずかに冷える。
マスターは立ち上がる。
二人の前にしゃがむ。
「売ってない。
渡してもいない。
ただ、“触らせない”約束をさせた」
シエルの瞳が揺れる。
「代償は?」
マスターは少しだけ視線を逸らす。
「僕が完全に外側に立つこと」
それはつまり、
学園にも機関にも属さない存在になるということ。
「……あなた一人が、標的になる」
シエルの声は低い。
マスターは笑う。
「慣れてる」
その瞬間。
ドン。
事務所の外壁に衝撃。
結界のような圧力が走る。
追手。
機関は約束を守る。
だが“現場の暴走”までは保証しない。
窓ガラスにヒビ。
ファニーが息を呑む。
シエルが立とうとする。
マスターは二人の前に立つ。
初めて、声色が変わる。
低く、静かに。
「定義、この事務所は、彼らにとって“不可侵領域”である」
空気が軋む。
言葉が、世界の骨組みに食い込む。
ヒビが止まる。
圧力が消える。
外の気配が、後退する。
静寂。
マスターの鼻先から、赤い雫。
ぽた。
ファニーが目を見開く。
「……なに、今の」
シエルは理解する。
固定した。
未来を。
マスターは袖で鼻血を拭う。
「軽い固定だよ。大したことない」
だが顔色は白い。
「僕はね、世界の“言い分”を少しだけ決められる」
振り返る。
その笑みは優しい。
「だから君たちは、ここでは安全だ」
完全な第三勢力。
今、証明された。
静寂のあと。
ぽた、と床に落ちた赤が、やけに鮮やかだった。
ファニーが一番に動く。
「大したことない顔してるけど大したことあるでしょそれ!!」
毛布を蹴飛ばして立ち上がり、マスターを睨む。
震えているのは怒りか恐怖か、その両方か。
シエルは一歩遅れて、だが冷静に詰める。
「今の“定義”。反動は?」
マスターは軽く息を吐く。
「鼻血くらい。今回はね」
今回は。
シエルの目が細くなる。
「上限があるな」
「あるよ」
あっさり肯定。
「身の丈を超える固定は、代償が跳ね返る。未来の帳尻ってやつだ」
ファニーの手が強くなる。
「じゃあさっきのは!? 軽いの!?」
マスターは少しだけ視線を逸らす。
「この建物限定。時間も短い。
世界に無理はさせてない」
その言葉の裏で、わずかにふらつく。
次の瞬間。
視界が揺れた。
壁に手をついて踏みとどまる。
「大丈夫。軽い貧血」
嘘だが、半分だけ本当。
シエルは即座に距離を取る。
ファニーも毛布を掴んだまま後退。
目が、まだ野生だ。
信用していない。
助けられても、だ。
マスターはそれを見て、少しだけ口角を上げる。
「今すぐ出ていくなら止めないよ」
二人の肩が強張る。
「ただ」
鍋の蓋を開ける。
湯気。
米と塩の匂い。
やわらかい蒸気が空気を丸くする。
「空腹で走ると死ぬ」
それだけ言って、器を二つ置く。
三メートル離れた机の端に。
近づかない。
触らない。
視線も強く向けない。
「毒は入ってない。入れる理由もない」
シエルは器を睨む。
匂いを確認。
湯気の揺れ、温度、粘度。
ファニーの喉が鳴る。
三十秒。
一分。
二分。
ファニーが先に折れる。
「……一口だけ」
木のスプーンを握る手が震える。
食べる。
沈黙。
涙がぽろっと落ちる。
「……あったかい」
シエルはまだ食べない。
マスターは何も言わない。
コーヒーを飲む。
視線は窓。
五分後。
シエルも、口をつける。
その代わり、目はマスターから離さない。
監視だ。
いい。
それでいい。
マスター
「米を煮れば雑炊だよ」
ファニー
「雑すぎる!」
シエル
「水分量を言え」
マスター
「感覚だ」
ファニー
「一番信用できないやつ!」




