ep.2 地獄式マッチポンプガール
一目見て、彼女に好印象を持たない者はいないだろう。よどんだ田舎町に似つかわしくない、洗練されて清楚なセーラー服姿の女生徒。真っ直ぐ切り揃えられた黒髪を背中に流し、聡明そうな顔立ちは聖らに穏やか、たおやめぶり、大和撫子といった言葉が具現化したような少女なのだから。
「…………おまえ、またおれのことつけてたのかよ」
怪訝に言えば、彼女は妖精のようにくすくすと笑う。
「やだなあ、そんな言い方なくない? わたし、呉井のこと心配してるだけだよ? ほら、最近よくケガしてるし」
「………………」
「ゴンちゃんにひどいことされてるんでしょう? サトくんとか」
なんて白々しいんだろう。
全部おまえのせいだろうに。
目尻を下げて気遣う様子の白石から視線を反らし、誓慈は口を結んで歩き出した。相手にするだけ無駄だ。それどころか、現状を悪化させかねない。
この女は害悪そのものだ。
「みんなひどいね? 呉井がやり返さないからってよってたかってさ。――ねえ、つらかったらちゃんとわたしに言ってね? 力になるよ? わたしも、お父さんも」
こいつのために、一言だって発してやるものか。
意を固くしてぐんぐん歩いた。距離を取った。
しかしながら、後ろから甲高い声がボリュームを上げて追ってくることについて、もう少し思慮深くあるべきだった。
「ねえ、呉井! わたしたち、せっかく家族になったんだからさ! 同じ家に暮らしてるんだからさ! もっと仲良くなろう!? わたし、呉井にそんな態度とらせるようなことした!? ひどいよ呉井、わたし、ただ、呉井のこと救いたいだけなのに」
いったいどんな面してそんな台詞を吐いているのだろう、と振り向く余裕はなかった。
横合いに飛んできた学生鞄の砲弾に誓慈は倒れて腰をつく。
東京で声楽を学んでいたという白石の声は非常によく通る。娯楽も少ない静かな町では、特に。
「呉井じゃん」
そうしてこんな連中を呼び寄せるわけだ。
「相変わらず調子乗っちゃってんねえ、呉井チャン」
起き上がろうと前傾姿勢をとったところで鳩尾に一撃。地面に転がって背中にもう一撃。あとはもうよくわからない。痛い。痛い。ただ痛くて、目の前が暗くなったり弾けたりして、呼吸ができなくなって、耳鳴りがひどくて、とうとう考えることもできなくなる。いっそ殺せとも思えない。ただ小さくなってじっと耐えているだけだ。耐えられないので、涙と鼻水と砂塵で顔がぐちゃぐちゃになるわけで。
「白石にその態度はねーだろ」
「白石優しいからってさ」
「白石に迷惑かけんなよ呉井ちゃーん」
さて。
白石都葵は魔女である。
この場合の魔女は文字通りの意味でなく、むしろ魔性の女を意味しており、言ってしまえば、ことの発端はつまらない嫉妬である。ただ、思春期の少年らしく燻る淡い恋慕の火種を、この女は山火事にまで拡大させることができるというわけだ。
そしてそれはもちろん意図的なものであり、証拠に、白石はこの状況に手をこまねいて見つめるだけだ。
ほんの少し、口の端を恍惚に吊り上げて。
かろうじて声を上げていた誓慈が息を吐くだけになったころ、白石は学生服のリンチ集団に声をかけた。ねえ、とか、あの、とか、そんなところだ。
たったそれだけで、体格もよろしい活発な男子学生の面々は大人しくなる。見えやしないが、白石は笑っている。慈愛の天使よろしく穏やかに。隠しきれない異常性を、水晶体に光らせながら。
「やめよう? わたし、暴力は嫌い。それに、大事な家族が傷付いてるところ、これ以上見たくないよ」
この女が来てから何度繰り返された光景だろう。最初は期待だってしたさ。自分に味方ができたんじゃないかって、この世界に平等に降り注ぐ良心は存在するんじゃないかって。もちろんそんな綺麗なものではないこと、とっくに理解している。
学年どころか学校中が噂する才色兼備に諭され、少年らがすごすごと退散した後、二人きりの月代岬で白石は言った。
「ダメだよ、呉井。ちゃんとわたしに相談してね?」
口元を両手で隠して、その表情のすべてをうかがい知ることはできない。けれども、なあ、さすがに知ってるって。
家族の異常性癖くらい、さ。
「呉井を助けられるのはわたしだけなんだよ? こんなに恵まれて、何もかもを持ってる幸せなわたしだけが可哀想な呉井を助けるの。わたし以外のだれも、呉井を救えないんだよ」
――救世主妄想。
救いがたい妄想症の魔女は、己が運命に耽溺し吐息混じりに誓いを立てる。
「あはぁ――可哀想な呉井。この先何があっても、どんな不幸な目に遭っても、わたしが救ってあげるからね!」
昨晩、あんなことを言ったからだろうか?
この瞬間、誓慈の中で最後の糸が切れたのだ。
決行は、今夜だ。
*
布団の中でその時を待ちわびていた。
母は帰ってこない。どこで何をしているのかもわからない。三年前に血の繋がらない姉になった都会からの転校生は、日付が変わる前には眠りにつく。注意を払うべきは眠りの浅く短いあの男で、奴を撒くには静寂より騒音である。
「…………よし」
階下から微かな水音を察知し、セージは速やかに、しかし静かに体を起こした。帰宅してから着替えもせずに引きこもっていたから学生服のままだ。すぐにでも外に出られる。けれど、その前にやっておきたいことがある。もちろん、時間は限られている。それでも。
――存外、大きな音がした。
「……こんなもんか」
首の後ろがすうっとする。シーツの上に散らばった亜麻色の毛束を、無いに等しい感慨で一瞥した。鏡なんか見てないからめちゃくちゃだろうし、前髪は左右の長さが違う気がするが、そこまで気にする時間の余裕はない。それとなく身代わりっぽく見えるよう、布団を半端に被せて部屋を後にする。
新築の階段が軋むことはなく、丑三つ時の不気味な静けさが破られることはなかった。接待帰りのあの男はまだ悠長にシャワーを浴びていることだろう。浴室へ続くドアに中指を突き立て、誓慈は玄関のドアノブに手をかけた。
そのときだった。
背後から。
カチャン、と、ドアノブが回る軽い音。
「――!?」
玄関ドアを蹴り飛ばし、弾かれたように駆け出した。水を打ったように静かな夜が全身に絡み付く。街灯の少ない田舎町で、黒地の学生服は容易に闇へ溶け出してゆく。 静かだ。突っ掛けたローファーがアスファルトを叩く音があまりにも響く。跳ね返って増幅される。――いくらなんでも、静かすぎやしないか?
疑念も懸念も夜闇に洗われ、やがては黒く染め抜かれてゆく。
舗装路が石畳に変わり、水平線の彼方に融け合う紺青を見る頃に漸く音が戻ってきた。
月代岬。
今までここで、どれだけの人間が命を絶ってきたのだろう?
膝をついて見下ろす数十メートル下の浅瀬は黄泉の入口として相応しい暗黒を湛え、答えてくれそうにはない。
応えたのは、別の声だ。
「――呉井」
……またおまえか。
またおまえなのかよ!
唇を噛みしめて振り向いた。
振り向いて、表情を凍らせた。
白石都葵は、神の後光のごとく純白の光を纏ってセージの目と鼻の先にいた。
次回、「ウェルカム・トゥ・サニフェルミア」
お楽しみに!
週末更新です。




