ep.1 死ぬか、異世界へ高飛びか
「ごめんなさい許してください何でもしますから! でもっ、でもあの――いッ、今は犯罪なので! 法律違反なので! ご迷惑になりますから! じゅっ――十八になったらなんでもしますから!」
年の割に高い声でドアの向こうに叫んでみれば、地鳴りのような凶悪な呻きが言葉を成した。
「あ? 今、何でもするって言ったよな」
ドアを蹴りつける死の恐怖さえ呼び起こす騒音がぴたりと止む。助かった、と思った。嘘だ。嘘です。全然助かってない。絶対に助からない。無事だったためしがない。つうっとこめかみに冷や汗が伝った。額には脂汗がにじみまくっていた。長い髪が張り付くのが煩わしい。
「てめぇよお、返事はどうしたよ。あァ!?」
「あっはい! 言いました! 言いました! 何でもするって言いました!」
「だよなあ、言ったよなあ! 親に嘘は言わねえよなァ!?」
「言いません言ってないです」
だれが親だ。死ね。血も繋がってなければ、親らしいことなどしたことないくせに。
その証拠に、こうだ。
「じゃあテメーあれだな、十八すぎたら×××しゃぶれっつっても喜んで奉仕する、しつけにはありがとうございます、もちろん毎晩×××にしても文句言わねえってことだな。なんでもしてくれるんだもんなァ、そうだよなあ、一生俺のそばにいてくれるんだよなあ?」
とっさに口を押さえた。嫌悪感。催吐感。呼吸が荒くなる。圧倒的な不快感。いっそグロテスクだ。鳥肌ものどころではない。臓腑が一つ残らずひっくり返って壊死しそうだ。死ね。なんであんなのが表を歩いているんだ。娑婆の光の下で人に慕われているんだ。敬意さえ集めて。死ね。頼むから。死んでくれ。
死んじまえ。
「――返事をしろォ!」
「ひッ」
ドアが壊れるんじゃないかと思うほどの衝撃が響いた。鼓膜がびりびり揺れた。死んでしまう。こいつに死ねと思っている間に、こっちが死んでしまう!
震える声で返事をすれば、戦慄の暴君はご満悦に喉を鳴らした。
「そっかそっかぁ。親孝行だなあ誓慈くんは。テメーのクソみてえな母親ともども拾ってやったのは俺だもんなあ。当然だよなあ? 俺に尽くすのはよぉ」
「クソみてえな母親」については全面的に同意だ。なにせ、息子がこの状況に陥ってなお我関せずで男漁りにふけっている。病的な好色症だ。誓慈の父親だって誰だか知れたものではない。八割方、日本人ですらないだろう。でなければ瞳の色はこんなはっきりしたエメラルドグリーンにはなるまいし、いかんせんアジア人というには色素が薄すぎる。典型的な欧米人とのハーフの顔立ちは、人によっては天恵としてありがたがられるのだろうが、誓慈としては不幸中の不幸としか表現しようがない。
「テメーがその顔じゃなけりゃとっくに捨ててたけどなァ。不幸中の幸いだよな。あの雌豚もいい仕事するわ」
ドア向こうの声に合わせ、誓慈は力なく笑った。死ね。死ね。死んでしまえ。叶わないのだろうけど。クソ野郎。
捨ててくれて、大いに結構だ。
「十八か~。そうか。十八か。悪くねえな。ふぅん。――あと一年ちょいか。ふふん」
声が遠ざかっていく。
誓慈は感づかれないよう、細く長く静かにため息をついた。
落ち着くと催吐感が一気に限界を突破した。口の中がすっぱい。慌てて便器の蓋を跳ね上げた。ほとんど食べていないせいか、吐いたのは胃液ばかりだった。長く垂らした髪にはねた吐瀉物が悪臭を放った。どうでもよかった。こんなもの。切ってしまえばいい。けれども、誓慈が最初に殴られたのは、肩につき始めた髪を鋏で切ったときだ。奴が嗜虐に悦楽を見出したのはそのときだった。
「……死んでしまう」
ぼそりと呟いた。
否、奴は誓慈を殺すことはしないだろうが、たぶん、いずれ死んだ方がマシな結末になるはずだ。今でさえ死んだ方が得策だと思えるし、三日に一度は自殺を企画するし、そのたび死ぬ方が怖くてお流れになっちゃいるが、やはり死んだ方がいいんじゃないか。十八までに。十八。すぐそこだ。なんであんなことを言ってしまったのだろう。せめて二十歳といえばよかった。よくない。結末は変わらないのだし。いったい前世でどんな業を重ねたら、義理の父親の性奴隷になる運命を背負わされるのだ。
「じゅう、はちまでに」
誓慈は便器汚れた水面に向かって宣言した。
「十八までに、死ぬか異世界へ高飛びする必要がある」
失笑物の宣誓だ。
選択肢なんかない。死ぬしか。異世界ってなんだよ。存在しないものに希望を見出すな。存在するものにだって希望を見出すことはできないのだ。もう、十分わかっているだろう。
「ふふっ……あはは、はは……」
笑えないんだけどさ。笑うしかないだろ。こんなものだ。人生。なんとかしようと思ったことだって、実行したことだってあったさ。考えて、行動して、そうして自分の無力さ愚かしさに絶望して痛みに打ちひしがれるのが常だとわかったなら、もうあきらめるしかないだろう。子供は大人には敵わない。大人は権力だ。子供は権力に庇護される。子供は権力に翻弄される。
「あきらめて死ぬしかないかなあ」
生まれ育つ環境だとか、才能だとか。ランダムかつ一度しか賽を振れないだなんて。それですべてが決まってしまうだなんて。人生というゲームは、いささかハードすぎやしませんか、神様。
*
――月代岬、という観光名所がある。
日本海に面した灰色の港町はさして語るべきものをもたない退屈な片田舎ではあるが、ひとつだけ話題に上るものがある。それが月代岬だ。ひと昔前までは築城岬だった。そのころから名所だった。高さ数十メートルの張り出した崖の下は幅数メートルの浅瀬となっており、真っ逆さまに落ちれば水にダメージを逃がされることもなく脳漿をブチ撒け、真っ赤な花が咲く。築城岬は自殺の名所だった。即死かつ、しかも死体は海に流されてだれにも迷惑をかけない。さらにはオカルトじみた流説もあり、訪れる自殺者は後を絶たなかった。そこで月代岬と字面を変えて「観光」名所にしたというわけだが、実態は今も変わらない。
物心ついたころから、セージはよく岬を訪れるようになっていた。
例えば、学校帰り、とか。
「…………陰気くさ」
日本海に面するこの町の海と空は灰色だ。潮の香りは膿んで陰湿に熟成し、秋の空気の清涼さなど感じさせてはくれなかった。
かつて、学校は避難所だった。
家の事情を知る者ならまず誓慈に声を掛けてはこないし、教師だって微妙な顔をする。つまりは誰もが誓慈に意図的な無関心でいたのだ。誓慈の母の生家は代々この地を取り仕切る大地主だ。その名家を己のふしだらで追放された女とその息子など、腫れ物扱いをされて当然というものだ。片田舎の小さな町で、土着権力の意に従わぬことがいかに祟りであるかは広く知られるところだった。
あのときまでは。
「あれっ。呉井、またここ来てたの? だめだよー真っ直ぐ帰らなきゃ。お父さんが心配するよ?」
その声にぞくりとする。
「…………白石」
己の不運を仔細に観察してやれば、その女を真っ先に取り除くべきだということは自明だろう。
こいつさえいなければ。
おまえさえいなければ!
「だめだよぅ、呉井。わたしたち、家族なんだから。心配、しちゃうじゃない?」
振り向いた先に、世界で最も呪うべき女が慈母の微笑みで佇んでいる。
次話「地獄式マッチポンプガール」
お楽しみに!




