ep.26 閉ざされる記憶、開かれる過去
しらじらしいほどに穏やかな空と海がうららかに微笑んでいる。
「……」
見るもあやに飾り立てられた岬の柵は全開して半ば海に崩落しているようだった。岬と崩れた柵。いい思い出は浮かばない。あの日みたいだ。
「約束を、した」
独り言ちた声は濡れた地面に墜落する。追い落ちる雫は視界を滲ませる。それは熱量を持った透明だった。
不意に覚えのある気配を感じて振り向いた。廃墟の街に目立つ薄桃色のシルエット。ぐったりした少年を背負い、どこかばつの悪そうな顔をする幼女とは目が合いそうになかった。
「――言いつけを守らない下僕は嫌いなのです」
「なんだよ、言いつけって」
反ずる声は、震えてしまって仕方がないや。
「私は殺せと言いました」
「――誰を?」
気丈に張ったおまえの声だって、どうにも本調子じゃあないみたいだけど。
「…………」
ライラは暗鬱を足に絡ませて歩いていた。こちらに近づくにつれ顔を伏せって、リボンのほどけたピンク色の髪が表情を覆っている。気を失っているらしい新聞売りをそっと地面に下ろすと、やはりこちらを見ずに問いかけた。
「この童を知っていますか?」
「知ってるよ。ハイメだろ」
「どこで会ったか覚えていますか?」
「どこって……よくヒナギク亭に遊びに――」
「そこでおまえは誰に世話になっていましたか?」
「そんなの、」
開きかけた口は発声方法を忘れたみたいに沈黙した。あの宿には×××という主人がいて、素性の知れないセージとライラの二人を快く泊めてくれたのだ。世話になった。その記憶はある。それなのに、どうしても思い出せない。彼女の記憶。――彼女? そもそも、女性だっただろうか。少女だったか? 妙齢の女主人だったろうか。
そんな人間は、存在していたか?
「――だから殺せと言ったのに」
悔悟の言葉は上擦って、今にも消え入りそうだった。振り上げた小さな拳が力なくセージの腹を叩いた。くぐもった声は聞き取りづらいはずなのに、いやにはっきり聞こえてしまう。
「こんな――こんな結末はだれも望んでいないのです……均衡を保って、無駄に世界を延命させたところで、この世界にとっての喜劇を起こしたって、私たちにはすべからく悲劇でしかない! ――私たちは、己の発した祈りと呪いに苦しむことから逃れられない! そうやって、また同じ絶望を見ることのです。希望は生まれない。想う分だけ呪いを生む。祈りは憎悪に転換される。……殺してしまえばよかった! そうしたら、私も、次の海神竜真祖も、この世界と一緒に――」
セージは膝を折ってライラの視線に合わせた。迷子の子どもにそうするように。標を失くして泣く幼子をなだめるように、薄桃色の頭を優しく撫ぜた。
「それは言わない約束だろ」
「……互いの、過去には?」
「言及しないよ」
小さくしゃくりあげるライラは終始滲んでぼやけて見えていた。こんな気持ちよく晴れた日に泣いてばかりじゃお日様に申し訳ないなあ、なんて場違いを思う。仕方ないじゃないか。ライラの泣いている理由どころか、自分が涙を流す理由すらわからないのだから。
約束だ。
ついさっきまでここにいた誰かと約束を交わしたことだけ、覚えている。
「全部おれが救ってみせるよ。この世界の何もかも」
旅立ちを決めたあの日と同じように、震える小さな体を抱きすくめた。ライラはセージの胸に顔を押し付けてぐすぐす泣いていた。
「適当なこと言うんじゃないです」
「うん」
「何も考えてないくせに」
「ごめん」
「ばか!」
「それは否めないけど」
叶えなければいけない約束ばかりが増えていく。
「なんとかするよ。……神様を殺してでも」
笑っている場合じゃないのかもしれないけれど。欠落した記憶についてもっと案じるべきなのかもしれないけれど。胸にぽっかり穴があいたみたいな虚がどうしてこんなに痛むのか、それが何を意味するのか考えないといけないのかもしれないけれど。いつまでも待たせているわけにはいかないからさ。どうせ一度は死んだも同然の身だ。なんだってしてやるから、どうか救わせてはくれないか。
穏やかな波音と哀情の支配する空間を打ち抜いたのは星屑の弾丸だった。
「――ッ!?」
それはセージの肩先をかすめて地面を抉る。七色の輝きが飛散するのを目視するより早く、ライラがその方向を振り返った。薄桃色の視線が射る先に鮮やかな金色。七色の光を散らすマスケット銃。蝋人形のように蒼白な肌はどうして動いているのか不思議なくらいなのに、青金石の瞳は爛々と感情を灯して燃えていた。明らかな敵意。憎悪。殺気。狂気すら混ぜ込んだ気配はいつもの様子からは想像がつかない。
エティ・オルコット。
星屑の二つ名の魔女。
「――ごきげんよう、ハルフィリア。まさかそんな可愛い恰好してるとは思わなかったわ」
エティは軽々と小銃を片手で構え、ライラに照準を定めた。対するライラは少しばかり目を細めただけだ。さっきまでの嗚咽が嘘のように平然と、いっそ不遜すら醸して鼻で笑った。
「ええ、ごきげんようなのです。――『エトワール=スターダスト・ジュスト・アユイ』……で、合っていましたか?」
それを聞いてエティは激情に歯を剥き出しに食いしばった。同時に引き金が引かれた小銃は星の輝きを散乱させて発砲する。真っ直ぐライラを打ち抜く軌道で直進した弾丸は、しかしその途中で燃え尽き灰となる。
セージはその様子を茫然と眺めていた。いや、だって、今、なんて言った?
「ちょっと待て」と、放った静止の言葉はとても二人に届きそうになかった。
「愚かな娘ですね。大人しくしていればおまえのことは気付かないふりをしてやろうと思っていたのに」
「――! やっぱり気付いて、」
激昂に見開かれた星空の瞳がすっと細められた。己の内にある明確な殺意を研ぎ澄まそうとしているかのような沈黙が過ぎる。
「……そう。そうなのね、ハルフィリア――母様が語ったあなたは夢に見た幻でしかなかった。あなたは母様を裏切った」
まずい。
この話は。
「あなたはあなたを信じた母様を裏切って! 甘言で惑わせ死に至らしめた! 母様はずっと――星屑の魔女は、ルネシアという人は、あなたのこと、信じていたのに――!」
セージは弾かれたように駆け出した。次の弾丸を、光を集約させ始めている小銃弾き飛ばしてエティに掴みかかる。だめだ。だめだ! それだけは言ってはいけない。これ以上あいつを追い詰めるわけにはいかない。どういうことだか事情がさっぱりだが、それは言及されない取り決めなんだ。
「やめろエティ! 誤解だ!」
「はあ!? なんであんたが出てくるのよ私が殺さなくちゃいけないのはあのハルフィリアであんたじゃない!」
「だから殺すなって! 誤解なんだよ! そっちも、」
振り向いて指し示したその先で、ライラは。
「――あいつも、知らなかったんだよ」
身動き一つせず涙を流してこちらを見つめている。
「……待つのです。おかしいのです。ルネシアが死んだ? バカな。私を裏切ったあの女がどうして死ぬのですか? なら、今のルグマシアにいるルネシアは――」
「母様があんたを裏切った? 笑わせないでよ! 裏切ったのはそっちじゃない」
どうしたことだろう。
セージは歯噛みして首を横に振った。セージとライラはお互い、過去には言及しない約束だ。言及されたくない部分があるからだ。イーブンの取り決め。それが早くもご破算になりそうだ。きっと「ライラには言うな」と言った本人ですら、こんなことになるとは思わなかったに違いない。
魔女の素質のないはずの娘が、精霊魔女の力をもって、友として語り聞かせた吸血鬼真祖に仇討ちしようだなどと。
「……ていうか、エティ――エトワールさん? やっぱりルネシアのご家族なんじゃごっ」
油断したらアッパーを入れられた。おかしい。さっきまで死体のような肌色だったのがすっかりもとの血色を取り戻している。金色の三つ編みを揺らしてライラに向かっていた。慌てて追うも、しかしエティも何やら事情めいたものを察したらしい。幾分落ち着きを取り戻していた。
「精霊魔女の死に方を知らないわけではないでしょう」
「…………ルネシアがたった数十年で死ぬはずは」
言葉を止めたライラは気付いてしまったはずだ。
ライラ・ハルフィリア・エス・マリカがここに生きている理由。
ルネシア=スターダスト・ジュスト・アユイがどこにもいないこと。
「あの。ごめん。おれから話してもいいかな」
この二人の間に入るのは気が引けて仕方がないし、自分から話していいことかどうかと問われれば首を傾げる。特に、ライラは触れられたくない過去を明かされることになる。そもそも当事者が語るなと言ったのに、自分に話す資格はあるのだろうか。こんなとき、あのお気楽な黒猫がいてくれたらいいのに。――いや。
……託すって、言われたもんな。
呼吸を整えたら、見ないふりをしていた過去をすくって明日へと歩みだそう。
Ⅰ.碧い竜の都 完
祝・第1章完結です。長かったですね。面目ない。
楽しかったこともつらかったことも活動報告に投げるとして、以下、次章の予告です。
「これから世界を救う話をしよう!」
II. スーサイドステップ
*2019/4/20より連載開始予定です。
時は遡り物語は灰色の港町から始まります。セージとライラの旅立ちの<あの日>までの物語、どうかお付き合いいただけますと幸いです。今後ともどうぞよろしくお願い致します。




