ep.21 昔むかし、碧い竜と騎士団長
昔の話です。
『はるか昔 南の海は
魔に満ち 邪に溢れ 荒れ狂う
人の子よ いざゆかん 討ち斃せ
涙の目蓋綴じ その手に剣を持て』
レケヰジ一一三五年、エベラ王国南部一帯は海の魔性らに踏み荒らされていた。先代の海神竜はバベルの神話の時代より深海に潜み続け、その姿を人間が目にすることはなかった。美しい碧い鱗は想像により黒く穢され、竜はサニフェルミア南の海の異種族を統べる魔王として人に憎悪されていた。
これは、都の栄光の陰に葬られた物語だ。
「ここに、第八次エベラ臨海南部制圧隊を結成する」
その日、エベラ王国首都フェレニスは大いに湧いた。王国騎士団長セスカル・ジェイ・ラズワルドが十余年ぶりの南部制圧を宣言したのだ。歴代の騎士団長の中でも、セスカルはとりわけ民衆からの支持を得ていた。彼は人徳に厚く、自由と平等の下に誇り高かった。また、才智にあふれ、機転の利く男だった。
「サニフェルミアに人間の自由を!」
「怖れることのないやすらぎを!」
「叡知の炎の再来を!」
「エベラ王国に栄光のあらんことを!」
とりわけ異種族の密集する臨海部から遠く離れたフェレニスにありながらも、セスカルはある事実を察していた。この数十年で南部に蔓延る異種族の凶暴性が増していること。同時に、繁殖力も増していること。滞留する魔力が変質しつつあること。そして――
「…………」
セスカルは碧くきらめく左腕の一部を隠し、首都フェレニスを後にした。そこから伝わる不死となった誰かの想いを受け止めた。ゆっくりとしたまばたきの後に涙がこぼれた理由を、彼の周りの人間が知るはずもなかった。
『海の底に 眠れし竜よ
我ら問わん 汝こそ主かと
碧い鱗 美しや 神の使徒
汝を討てば 海は安らぐか』
制圧隊の進路は順調であった。凶暴性の増した異種族の知性は反比例して減衰し、想定外の襲撃を受けることは失敗に終わった第七次制圧よりさらに減っていた。しかしながら、数の多さにはどうしても敵わなかった。南進するほどに異種族の密度は上がり、力尽きて倒れる者が増えた。倒れたものはすぐさまむしられ、抉られ、喰われて骨も残らなかった。
「我々の目的は海の異種族を統率する邪竜の討伐である」
セスカルは全体の七割ほどを失った制圧隊に告げた。
「先遣隊を出す。これは精鋭討伐隊ではない。竜の真の姿を見極める、調査隊である」
異を唱える者はいなかった。故郷に遺骨すら持ち帰ることのできない虚無感、いっそ帰還すら絶望的な状況で、セスカルに食って掛かろうとする者はいなかった。
先遣調査隊は明け方、朝日がまだ橙に色づく頃に海へと向かった。暁の光は異種族の力を弱める。その迷信はこの状況になって初めて正しいことが証明された。
南部最先端の岬の向こう。
海はほの碧くに輝きを放って荒れていた。
調査隊の一人がおずおずとセスカルに進言した。
「怖れながらも、騎士団長様、いちど引き返してはいかがでしょう。明け方なら襲撃も少なくなりますし、残りの隊員をすべて動かし、邪竜を討つことに注力すれば――」
セスカルは静かに首を振り、ほの碧い海に問いかけた。
「海の底に眠れし竜よ。私は貴公が何者であったかは知らぬ。しかし、貴公が何者であったのかを知っている」
碧い光が輝度を増す。海面が盛り上がる。
そうして現れた竜のなんと美しいことか。
これが海を穢す異種族の主か。邪なる者の王であるか。
かように見惚れたのはセスカルのみであった。他の調査隊の人間はそうではない。彼らは竜の真実を知らない。憎しみは眼を曇らせ、歪ませ、目の奥の奥に虚ろな怨敵の像を焼き付ける。
「汝は如何様にしてこの海の主となったか。神の奴隷と堕ちたか。汝を討たば、この海は鎮まるか」
天を突くほどの巨大な竜は身を震わせて言葉を紡いだ。そうでもしなければ声が出ないようだった。力を振り絞って声を発した彼の鱗は剥がれ散り、ほの碧い曇天から宝石が降るようだった。
「君がそうか。君が次の贄か。この世界を終わらせるための。人柱か。私が何者か知る者か。そうだ。私は君と、君たちと同じであった。否。正確には、違う。だからこそ、幾星霜もの時の中、神の意思から逃れたのだ。私は君たちとは成り立ちを異にするものだ。私は遠い世界で科学者だった」
竜はしばらくの間、身を震わせ碧鱗を降らせながら自らについてとおぼしき話をした。ほとんどが到底理解のできぬ話だった。それでも竜は話を止めなかった。伝えようとしていた。彼にはきっと、もう時間がないのだった。
『碧き竜は 我こそ主と
力失くし 衰えど 絶てぬ玉
愛しみを 胸に宿す 覚悟はありや
我を救いしば 加護を与えん』
遠い世界の話を終えた頃、竜は語った。自らが衰えていること。限界を迎えながらも、真祖は与えられた不死の呪いに苛まれる。いずれは我を失い生き続けるだろうこと。
そうすれば、悠久の彼方より愛したこの世界を、神の意思に従い破壊してしまうだろうこと。
「君も選ばれてしまったのなら、きっと私と同じ思いを抱えているのだろう。愛しくてたまらないのだろう。そして、それ以上に君は強欲なのだろう。喉が張り裂けんばかりに願いを叫ぶのだろう」
隊員の一人が身を翻した。最後の一人だった。未知とは恐怖だ。恐怖とは人を逃走へと駆り立てる。セスカルはたった一人、岬に立って竜と対峙し続けた。
「選択するといい。君は代償を払って拒絶することもできる。もちろん神隷に堕ちることを受け入れることも。そして――」
「汝と同じ選択をすることもできる、だな」
セスカルは深く頷いた。それは理解と受諾を意図していた。
竜は感嘆の声を上げた。
「愚かなり――愚かなり人間よ! それでこそ人間だ、ああ、君は誰よりも人間だ。狂った人間だ。人に殉じ己に殉じるのだな。――ならば私は君に殉じよう。私がまだ人の心を持つうちに。誰より愚かな君への餞別だ」
『人の子らよ 不屈の戦士よ
聖らなる 御霊は この胸のうち
我が姿 移ろうとも 忘るる勿れ
涙の目蓋 明け 心は牙をもつ』
後ろ髪をひかれた気がして、セスカルは後ろを振り向いた。誰もいない。別れを告げる相手すらいない。告げたところでなんとも無意味な行いになることか。セスカルは唇の端を吊り上げた。誰もいない、わけではなかった。いる。自分についてきてくれた愛しい配下たち。一度は逃げ出し、戻ってきた彼らは少し離れた後方でセスカルと竜の行く末を見守っていた。
愛しい者どもよ。
どうか。私を。セスカル・ジェイ・ラズワルドを。
「――ここはエベラ王国一の都となるだろう!」
セスカルは碧い世界に声を張り上げた。
「私が護ろう。安らぎを、豊かさを保証しよう。愛しい貴君らをはるか遠い海の底より愛し続けよう。だから、どうか――」
なんと苦しいことか。
「私がいかなる存在に移ろうとも、サニフェルミアから除かれた神の端末となろうとも、どうか忘れないでくれ」
人は死んでも魂が残る。記憶が残り、記録が遺される。死なずの化物となる自分にはその営みから外れる。想いは祈りだ。人を世界に留めて愛のゆりかごで優しく唄をうたう。想いは呪いだ。人を世界に縛り付けて怨嗟の鞭で打ち続ける。それは人が人であるゆえんだ。魂は世界に飽和し巡り世界を構成し続ける。海の水が雲となって雨と降り注ぎ、川から海へ再び流れるように。清浄な水はこの世界を成長させてゆく。未来を創り出す。それを、奪う立場となる。
「ルシュトージ。それが君の役名だ。嘆くといい。誰より愛し愛された者よ」
美しく碧い竜が目が眩むほどの光を放って輪郭を失ってゆく。輪郭を失うのは彼ばかりではない。自分の体の感覚が失われるのを感じた。新しく生まれる五感はもはや人間のそれではない。団長様。ラズワルド様。自分を呼ぶ声が聞こえる。碧く輝く世界で彼らの声がする。自分とは別の意思が頭の中に蔓延るのを察知する。そうはさせるか。遠く。遠く。悪逆非道の神の力の及ばない、光の届かない深い海の底から。永久の命と有限の意志を、今はまだ人智を超えた力に変え、風に乗せて贈るのだ。いつかこの意志が喪われるそのときまで、次の君が訪れるまで、愛した民を護り続けよう。どうか己の存在が、人の世から消え去らぬように。忘れられぬように。
『はるか昔 南の海に
碧き竜 魔の主 いと深き底
今もなお 求め待つ 聖らなる
護りし民の 訪ういつの日か』
これは、人の世から忘れ去られた物語だ。
次回はもとの時間軸へ。
メインヒロインのお出ましだ。




