10:大家と駆け落ちカップル・5
トントントン。
規則正しい包丁の音が台所に響く。
華奢な背中の大家が、鼻歌を歌いながらほうれん草を切っている。
声を掛けようと思ったが、何をどう言えばいいのかラジャにはわからなかった。
明らかに下賎の者である大家だが、ここはラジャの領地ではない。
従わせる言葉は、大家の不快感を煽るという事は理解していた。
が、それでも声を掛けないわけにはいかなった。
「おい」
ラジャの苛立ち混じりの声に、大家が振り返る。
「おはよう、ラジャ。珍しく早起きだね」
料理をする手を止めて、サチが答える。
もうラジャとの付き合いも三ヶ月以上になる。
極めて淡々と付き合うのが、一番ラジャの怒りに触れない事もわかっている。
挨拶に煩い他の店子たちに、散々挨拶がどうこう言われているので、ついつい「おい」って言わないで「おはよう」でしょと返したくなったけれど、それはぐっと我慢した。
化粧もせず、宝石も身につけなくとも、ラジャはどこか豪奢な雰囲気を纏っている。
恐らく寝起きだろうに寝癖一つないのは、ミナが整えているからだろうか。
ミナ、最近あんまり見かけないけれど、どうしているんだろう。
「水をくれ」
サチが自分の思考の中に意識を飛ばしそうになった瞬間、ラジャがいつもどおりの口調で頼んできた。
さすがに「ください」でしょ、なんて言わない。
サチに「もらえますか」なんて聞くのは、おっさんとミナだけで、あの小生意気なルイだって口調はラジャと大差ない。
「はーい。コップに入れる? ペットボトル持って行く?」
「そうだな」
顎に手をやって考えるラジャを見上げると、ラジャの顎には無精ひげがあった。
本当に寝起きらしい。
寝起きなのにわざわざ俺様ラジャ様が御自ら水を取りに来るとは珍しい。
「ペットボトルの小さいやつをくれ。あと空のコップも」
「はーい。コップはこれね」
食器棚からコップを一つ取り出し、冷蔵庫を開ける。
店子たちが自由に気兼ねなく飲めるように、冷たい飲み物もいくつか用意してあるのだが……。
「あれ、水、誰か飲んじゃったのかな。冷たいお茶でもいい?」
「構わない」
サチが手に持った麦茶のペットボトルを受け取り、ラジャはそのままくるりと背を向ける。
ありがとうなんてラジャが言うわけがないので、苦笑いをしてサチはもとの作業に戻る。
さっき切った野菜を沸騰した鍋の中に入れ、ふーっと溜息を吐き出すのをルイが見ていた。
「おはよう。大家」
「あー。おはよう、ルイ。もう少しでお味噌汁出来るから待っててね」
「別に空腹ではない。今日は休みだし、ゆっくりで構わないぞ」
「はいはい。じゃあもう少しだけ待っててね」
そう言って冷蔵庫から味噌を取り出そうとしたサチの首にルイが腕を回し、背中からそっとサチを抱きしめる。
「どうしたの?」
ルイがスキンシップ過剰なのは今に始まったことではないので、サチは特に驚いた様子もなく、そのままされるがままになっている。
恐らく巨大な熊のぬいぐるみか着ぐるみと同程度にしか思っていないはずだ。かつて本人もそう言っていたし。
「珍しいな、あいつがこんなに早く起きてくるの」
「んー。そうだね」
最近ラジャとミナは朝食を取らないことも多い。
あちらの世界にいた時には、日に四食食べていたそうだから、絶対量が足りないのではないかとサチは心配している。
ミナが外で働かなくなってから、ラジャとミナの二人が朝食時に起きてこないことが増えた。
一度、朝食が出来ていることを知らせるために上に上がろうとしたら、おっさんに全力で止められた。
お腹がすいたら降りてくるでしょうから、放っておきましょう、と。
深い溜息を吐き出したおっさんに、ルイが一階に引っ越せば?と聞いたら、お前の隣はいやだと断られていた。
一応朝食はラジャとミナの分も作ってある。
それが昼食にプラスされたり、サチが登校している間に下りてきて食べているのかはわからないが、とりあえずは食べている形跡はある。
が、最近殆ど手付かずのままになっていることもあって、サチはサチなりに心配している。
そして同時に想像通りだとも思っている。
異世界にはなじめない二人だったのだろう、と。
残りの期限を待たずに、あちらに帰るのかもしれない。
「喉が渇いたみたいだよ」
ずきんと胸の痛みを感じたものの、それを誤魔化すようにサチは明るい声を上げる。
半年を待たずに帰る店子も多い。
期限を過ぎてしまって、このシェアハウスを出る者もいる。
そして案外あっさりとこちらに馴染んで、どこかでふらりと根を下ろす者もいる。
別にラジャとミナが特別なのではなく、このシェアハウスを利用するたくさんの店子たちのうちの一組の客に過ぎない。
ただそれでも、人が去るという事実が、サチの胸を痛めた。
「ふーん。下女を使わずに自分で取りに来るなんて、今日は槍が降るな」
「槍って。ふふっ、もう日本語も完璧だね、ルイは」
「……まー。うん、そうだな」
「あっちの世界でも、槍が降るなんて言ったりするの?」
「しないな」
「でしょ。ルイって外見は違う国の人みたいなのに、中身は完全に日本人化してるよね」
「余が優秀なだけだろう」
「あー。そっか、ルイはもう……あれ? ルイはもう?」
怪訝そうな顔で振り返ろうとしたサチの首にルイが唇をあてる。
「ひゃっ。またそうやって嫌がらせをっ」
たちまち頬から首にかけて朱色に染まっていくサチの様子を気にせず、いつものようにルイは痕を残す為に首筋を吸い上げる。
抵抗しようとしたサチを腕の中に閉じ込め、真っ赤な顔でうーっと唸り声を上げる色気の無いサチの首筋に赤い花を咲かせる。
ルイが唇をサチから離し、腕の中から解放すると、ぶんっとサチは腕を振り上げる。
「もー! 見えるところに付けないでよ! 色々と誤解されるんだからっ」
ニヤリとルイが口元を引き上げる。
「見えないところがいいのか? ならば」
ついっとサチの首元に指を滑らせ、制服のシャツの一番上のボタンに触れるので、ビクっとサチが身体を揺らす。
「こんの、セクハラ小僧っ」
振り下ろした腕を避けて、ルイはサチから距離を取る。
「朝ご飯よろしく」
ひらひらっと手を振って台所から出て行くルイを、サチは涙目でにらみつけた。
「そろそろ限界だろ」
「だろうね。ここまで誤魔化し誤魔化しやってきたけど」
ふうっとルイが溜息を吐き出す。
「何とか出来ないのかよ、自称魔法使い」
からかうように言われたおっさんは、ぎろりとルイを睨む。
「出来るならやっている。が、この理の壊れた世界では動くものも動かん」
「理ね。余には全くわからないが、まあ、ねじれてはいるだろな」
「ねじれているのか、壊れているのか、止まっているのか。だが、そろそろ崩れるだろう」
「だろうね」
ルイとおっさんは互いの見て、そして同時に溜息を吐いた。
「崩れた時、お前はどうするつもりなんだ?」
「そういうおっさんは?」
あごひげをなぞり考えるような素振りを見せるが、おっさんはふっと笑みを漏らす。
「なるようにしかなるまい」
「随分計画性のない魔法使いだな」
「計画性皆無の王様に言われたくはないな」
ルイが口の片側を引き上げ、いびつな笑みを作る。
「計画性? あるに決まっているだろう。もう決めている」
「思うようになると思うな、ルイ」
「お前に言われたくないよ」
踵を返し、おっさんは洗面所の中へと姿を消し、ルイは自室へと戻っていく。
そんな二人の会話を、サチは知らない。
晩御飯の片付け、明日の朝食の下ごしらえ、洗濯、掃除。
夜やるべき大家の仕事を全て終えて、サチはダイニングテーブルで宿題をしている。
特に進学校というわけではないけれど、サチの通う高校はそれなりに宿題を出してきて、更に予習も必須となっている。
毎晩大家としての仕事もこなして宿題に予習もしていて、どうしても寝るのは午前様になる事が多い。
やっぱりお風呂の時間をもっと早い時間までにしようかしら。
そんな事を考えつつ、数学の問題を解いている。
もっとも、宿題を終えて自分がお風呂に入れる時間が店子たちに区切っている入浴可能時間より遅いのだから、あんまり時間変更しても意味ないかもしれない。
ふっと視線をあげて年代物の柱時計を見ると、23時半。
その視界に、人影が入る。
誰だろう。
「大家」
「ラジャ?」
てっきりルイかおっさんのどちらかだと思ったので、絶対にありえない人物過ぎて、声が少し大きくなる。
「どうしたの?」
がたっと音を立てて立ち上がると、いつもの鬱陶しいほどの自信満々は表情ではなく、俯き、憂いを含んだ表情で立っている。
やつれてる?
影のせいかもしれないけれど、サチにはそんな風に思えた。
やっぱりこちらには馴染めないんだろうな、と。
「……すまんが」
すまん! ラジャからそんな言葉を聞くなんてと驚いていられたのも一瞬の事。
「ミナの具合が悪いんだ。医者はこちらの世界にはいるのか?」
「ミナ、具合悪いの?」
朝食時には顔を出さなかったのでわからないが、夕食の時にはいつもと変わらない様子だった。短時間に急変したというのだろうか。サチの表情が青褪める。
「いつから?」
ふいっとラジャがサチから目を逸らす。
「……わからないんだ」
「わからない?」
あんなにべったり一緒にいるのにと思い、責めるような言葉が出てきそうになったが、サチは思いとどまる。
目を逸らしたまま、ラジャはボソボソと呟く。
「いつからはわからない。具合が悪いというか、顔色が悪いような気はしていた。しかし平気だというのでそうなのだろうと思っていたのだが、こちらに来てから痩せたな、とは思っていた」
「痩せたの?」
「ああ。向こうにいた時はもう少しぽちゃっとしていた。こちらと食習慣も違うし、そのせいだろうと思っていたのだが、どうやら食後に吐いているようでな」
「吐いている? ラジャも吐くほどまずい?」
気まずそうな顔をしつつも、ラジャが首を横に振る。
「ニホンショクは、口には合わないが、吐くほどまずいわけではない。時々あちらの料理が恋しくはなるが」
「それは良かった」
「ミナも同じだと思う。だが、最近どうやら食べては吐いてを繰り返していたようだ。吐いたのは今日だけだというが、気がつかなかっただけで多分以前からそうだったのだろう」
ラジャの表情には苦悩が見て取れる。
執着し、外に出さないほどミナを囲い込んではいるが、それは決して所有欲だけではないのだろう。
ラジャは溜息を吐き出し、らしくもなく髪を掻き毟る。
「俺にはどうすることも出来ないんだ、大家」
それはラジャが初めて吐いた弱音だった。