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長屋への帰る

 戻ったら、長屋はいつもの匂いがした。

 戸が半分開いたままになっていて、土間に誰かの草履ぞうりが片方だけ転がっている。井戸の方から包丁の音と、煮物の湯気が混じった匂いが流れてくる。騒がしい

 だけど、その騒がしさが、妙に胸の奥に染みた。

 俺は戸口で一度足を止めて、肩を軽く回した。


「……戻ったな」

「左様にござる」


 光太郎は何も言わず、さっさと中へ入っていった。

 畳の上では、夢之介が腕を組んで唸ってる。煙管をくわえたまま、眉間に深い皺を寄せて。


「遅いわよ」


 顔も上げずに言う。俺は草鞋わらじを脱ぎながら返した。


「今帰ってきたばっかだろ」

「そうじゃないのよ」


 夢之介がようやく顔を上げた。


「これ、どう転がすか悩んでるの」

「やめとけ」


 即答したら、夢之介は肩をすくめた。


「売れるのよ、こういうの」

「死にかけた話なんか売るなよ」

「だからこそ、って感じじゃない」


 重俊が静かに割って入る。


「実話は、脚色せぬ方がよいと思うが」

「それじゃつまらないわよ」


 光太郎がぽつりと言った。


「嘘」

「全部じゃないわよ」


 いつもの、くだらないやり取り。それだけで、なんだか肩の力が抜けた気がした。

 奥からお米の声が飛んでくる。


「顔洗ってきなさいよ!」

「聞こえてるよ」


 俺は手を振って返した。 湯気が立ってる。味噌と焼いた魚の香ばしさが混ざって、腹が鳴りそうになるのを我慢した。

 重俊が座り込みながら小さく息を吐く。


「助かったな」

「何が」

「飯でござる」


 俺は呆れて笑った。


「それかよ」


 光太郎は柱にもたれたまま、じっと奥の方を見てる。


「遅い」

「だから何がだよ」

「準備」


 短い。俺は鼻を鳴らした。


「文句言うなよ」


 でも、心のどこかでほっとしていた。鍋の蓋が外れる音。湯気が一気に広がる。誰かが皿を運んで、誰かが笑う。  いつも通りだ。


     ◇


 ふと、外から足音がした。重くはない。でも、迷いがない。夢之介が先に気づいて、あらと顔を上げた。


 戸口に影が差す。宗冬が立っていて、その隣にもう一人。一瞬、息が詰まった。

 似てる。顔も、背格好も、ほとんど同じ。でも、違う。左の袖が、腕の厚みがない。二の腕の途中から、ぽつんとなくなってる。俺はつい視線を逸らした。


「やっと戻ったか」


 宗冬が短く言う。俺は頷いた。

 宗春が頭を軽く下げながら、柔らかく笑う。


「世話になった」


 声は優しい。重俊が頭を下げる。


「ご無事で何よりにござる」

「無事、ね」


 宗春が肩をすくめた。


「運が良かっただけだけどね」


 夢之介が立ち上がる。


「いいところに来たわね」

「飯か」

「それ以外に何があるのよ」

「酒は?」

「さっき伊豆守から、酒樽が届いたわよ〜」


 俺たちは思わず顔を見合わせた。光太郎が珍しく嬉しそうな声で。


「酒 呑む」

「おい、光太郎にのませるなよ」

「あるだけ飲んでも酔わねえから」

「呑む」


 宗冬は何も言わず、中へ入る。宗春も続いた。一気に場が賑やかになる。


「座れ座れ!」

「詰めろっての!」

「重俊、動くな」

「動かぬ」

「嘘」


 笑いが広がる。皿が並ぶ。湯気が立つ。酒が運ばれる。いつも通りだ。でも、その中に一つだけ、引っかかるものがあった。

 皿を運んできた女の顔に、見覚えがある。どこで見たか、すぐには思い出せない。


「……誰だ、あれ」


 夢之介は黙って酌をする。重俊は視線を向けない。宗春は笑ってる。宗冬だけが、ほんの少し目を動かした。それだけ。何も言わない。光太郎が、ぽつりと言った。


「いる」

「何が」


 俺は眉をひそめる。光太郎はそっちを見たまま続けた。


「同じ」


 俺は顔をしかめた。


「だから何だよ」


 光太郎は答えず、視線を外した。

 次の瞬間、何かが足元をすり抜けた。小さな影が畳の上を走る。


「なんだ?」


 視線を落とすと、鍵尻尾の三毛猫だった。いつの間にか入り込んで、光太郎の膝の上に飛び乗る。くるりと丸くなる。  当たり前みたいに。


「……なんでそこなんだよ」


 俺は思わず呟いた。重俊がわずかに目を細める。


「懐かれたか」


 夢之介が笑う。


「いい絵ね」


 宗春も肩を揺らした。酒が回り始めると、声が一段と上がる。

 夢之介が勝手に盃を配り、宗春が笑いながら受け取る。重俊は「動くな」と言われたまま座らされてるけど、顔色はさっきよりマシだ。


「だから寝てろって」

「動かぬと言ったであろう」

「さっきから喋ってんじゃねえか」


 俺が突っ込むと、夢之介が肩をすくめた。


「元気じゃないの、いいことよ」


 宗春が酒を口に運ぶ。


「生きてる証拠だな」


 軽い調子だった。宗冬は静かに座ってる。盃は持ってるけど、ほとんど口をつけない。周りの騒ぎから、少しだけ距離を置いてるみたいだ。

 その視線が、一度だけ動いた。さっきの女の方へ。ほんの一瞬。でも、それで十分だった。

 俺は杯を持ったまま、少し顔をしかめた。


 夢之介が身を乗り出す。


「で、どこまで話してくれるのかしら?」

「話さねえ」

「つまんないわね」


 煙管をくわえ直して、ふっと息を吐く。


「売れるのに」

「だからやめとけって」


 俺は酒をあおった。喉が熱い。でも、嫌な熱さじゃない。重俊が小さく息を吐いた。


「騒がしいな」

「いつもだろ」


 宗春が笑う。


「いいじゃないか。こういうの、嫌いじゃない」


 光太郎は動かない。猫はそのまま丸くなってる。まるでそこが自分の場所みたいに。


 井戸の周りに、少し静かな場所がある。そこへ足を運ぶと、音が遠くなった。空気が変わる。いつの間にか、光太郎が隣にいた。気配すら感じなかった。いつも通りだ。

 しばらく、何も言わない。

 中の笑い声だけが、かすかに聞こえる。光太郎が、ぽつりと言った。


「我の目かと思ったが……違う」


 短い。でも、意味がわからない。俺は横目でそいつを見た。


「なんの話だ」


 返事はすぐには来なかった。


「これでは、帰れぬ」


 その言葉に、少し引っかかった。俺は腕を組んだ。


「帰りたいのか?」


 光太郎は動かない。視線も変わらない。


「……そうだ。いつか」

「急ぐことでもねえ」


 それで終わりだった。俺はしばらく何も言わず、天井を見上げた。

 音はまた戻ってくる。笑い声も、皿の音も、全部そのままだ。何も変わっていない。


 ――そのはずなのに。


 俺は小さく息を吐いて、中へ戻った。  光の中へ。騒ぎの中へ。誰も、何も変わっていない顔で笑ってる。それでいい。

 俺は腰を下ろした。


「遅い」

「うるせえ」


 返して、酒を取る。笑い声が続く。  夜は、いつも通りに更けていく。


 だが――

 同じではない。それだけは、はっきりしていた。


           完

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