第二話 森の灯
武蔵野の夜は深い。日が落ちると村の灯りはすぐ消える。残るのは月と風だけだった。
俺は村外れの畦に腰を下ろし、森を見ていた。畑の向こうに、黒い塊のような雑木林が広がっている。昼より、ずっと大きく見える。
俺は小さく息を吐いた。
「静かだな」
隣で腕を組んでいた重俊が森を見たまま言う。
「市中とは違う」
「市中でも夜は早いぞ」
「油が高い。日が落ちりゃ寝るしかない」
重俊は顎を少し上げる。
「それでも人の気配はある」
「ここには無い」
「真っ暗だ」
「おい」
俺は声を落として光太郎を呼ぶ。
少し離れた場所に光太郎が立っていた。森をじっと見ている。だが振り向かない。
「どうした」
「風が変わった」
「分かるのか?」
光太郎は森を見たまま答える。
「わかる。静かすぎる」
重俊が耳を澄ます。
「……確かに」
昼は虫の声がしていた。今は何も聞こえない。風が草を撫でる音だけだ。
「様子を見に行くか」
光太郎は答えない。そのまま森へ向かって歩き出す。重俊が舌打ちした。
「待て」
だがもう歩き出している。仕方なく重俊も続く。俺は二人の後ろを追った。
畦を降りた途端、闇が一段濃くなる。月明かりが枝に遮られ、足元がほとんど見えない。
突然、重俊の足が止まった。
「……見えん」
「何が」
重俊は前を向いたまま言う。
「全部だ」
少し間。
「そこに二人いるのは分かる。だが道がまるで見えん」
光太郎が振り向く。
「……もどき。目を貸してやれ」
光太郎の言っている意味がわからない。
「なんて言った?」
「見えぬなら、もどきの目を貸せばいいだろう?」
俺と重俊は思わず顔を見合わせる。
「あのな、人は目の貸し借りなんてできねぇんだよ」
「そうなのか。人は不便だな」
「……不便とかそういう問題じゃない気がするのだが」
重俊の声がかすかに震えているのがわかる。俺は頭を抱えたくなった。
が、いつまでもここに立っているわけにもいかない。
「腕出せ」
重俊が差し出す。俺はそれを掴む。
「離すなよ」
「離すか」
俺は前を見ながら言う。
「右に木の根がある」
重俊が足を上げる。草履の先が硬いものに当たる。
「……本当だ」
「だから言った」
もう一歩進む。
ごつん。鈍い音。重俊が止まった。
「……木だ」
「言おうとした」
「遅い」
前から光太郎の声が飛ぶ。
「静かにしろ」
俺たちは黙って歩く。落ち葉が湿り、草が足に絡む。
「うわ!」
重俊が悲鳴をあげて止まる。重俊は闇雲に手を振り回している。
「今度は何だ」
「顔に何か張りついた」
「蜘蛛の巣だ」
「笑うな」
「森だぞ。蜘蛛の巣くらいある」
重俊が顔をしかめる。
「見えん森は初めてだ」
「俺もだ」
前を歩く光太郎が止まった。
「どうした」
光太郎は森の奥を見ている。
「灯り」
俺と重俊が顔を上げる。闇の奥。小さな光が揺れていた。
重俊が眉を寄せる。
「家か」
「こんな森の奥にか?」
俺も目を細める。光太郎が顎に手を当てた。
「家ではない」
「じゃあ何だ」
「遠くてよくわからん」
俺は肩をすくめた。
「見りゃ分かる」
重俊が腕を組む。
「だが妙だ」
「何がだ」
重俊が灯りを見つめる。
「遠すぎる。歩いているのに、近づいていない」
「灯りが逃げるわけねぇだろ」
森の奥から声がした。子どもの笑い声。三人が同時に顔を上げる。
重俊が低く言う。
「……聞いたか」
「ああ」
もう一度笑い声。だが姿が見えない。俺が前へ出ようとする。その腕を光太郎が掴んだ。
「待て」
「何だ」
光太郎は森を見たまま言う。
「何かいる」
「誰が」
「人ではない」
重俊が鼻を鳴らす。
「またそれか」
光太郎が続ける。
「匂いが違う」
「何の匂いだ」
「空気だ」
灯りが一つ増えた。俺は目を凝らす。
「今増えたぞ」
「よかった。拙者の気のせいではない」
「増える」
風が吹く。枝がざわりと揺れる。また笑い声。今度は近い。
俺は声を落とす。
「子供だ」
重俊が周囲を見る。
「姿がない」
その時、光太郎が言った。
「上だ」
枝の間で何かが動いた。次の瞬間、消える。
重俊が眉を寄せる。
「猿か」
「違う」
目を細めた光太郎が不機嫌そうに呟く。
「速すぎる」
灯りがまた増えた。俺は森を見つめる。
「……おい」
灯りが並んでいる。まるで村のように。だが、人の気配がない。
光太郎が低く言う。
「おかしい」
「何がだ」
重俊が聞く。光太郎は灯りを見た。
「灯りが。増えすぎている」
さらに言う。
「吉原より多い」
風が吹いた。灯りが一斉に揺れる。
子供が、また笑った。楽しそうな声だった。
俺は森を見つめる。
「……あれ」
灯りの向こう。誰かが立っていた。
白い影だった。




