第十四話 女装とアキバと楽譜集の話
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早乙女 真紀那という少女の特徴を上げるに、まずその整った顔立ちとか、長い黒髪とか、抜群のプロポーションとか、枚挙に暇がないのだが、そういった外見的特徴を除くならまずはその雰囲気からだとリュカは思う。
どこか一般人とは違った、気品というか高貴さというか、そういったものを香りのように纏っているのだ。……とは言え中身を知ればそのやんごとなきイメージは、事故車のフロントガラス以上に木っ端微塵になるのだが……。
そんな彼女は何処にいても変わらず、常に堂々と、胸を張ってそこにいるのだった。まるで『私が早乙女 真紀那よ』と主張でもしているかのように。
「これと、これと、これ……。あとこっちの奴も包んで頂戴」
リュカにとっては見たこともないどころか、使い途すら分からないような物を次から次へと購入していく。紙幣で厚くなった財布を見ながら、『その金銭の出所はどこか?』という新しい謎も発覚したのだが、目下リュカはそれを超える問題に直面していた。
「あぅぅぅ……こんな大勢……バレますって! バレちゃいますってば!」
混雑する狭い店の中、振り返りざまに長い髪がリュカの鼻先を掠めた。女の子ってどうしてこんな甘い匂いがするんだろう……と普通なら甘酸っぱい展開になる場面なのだろうが……。
「何をボソボソ言ってるのかしら? 男ならもっとはっきり喋りなさい」
「わわわわわわ! マキナさん! しー! しー!」
よく通るマキナの声に比べ、確かにリュカの声は小さくて聞き取りづらかった。だが、そうせざるを得ない状況に陥っているのだ。リュカは注意深く辺りを見回すとマキナの耳元で囁く。
「だ、だってこれ! こんな格好じゃ間違いなくバレますって!」
「今更何を言ってるの? いつもとどこが違うというのかしら?」
「いや、大分違うと思いますが……いつもはこんな短くないし……。そ、それに! それに! ここはピンク・トライアングルじゃないんですよ!?」
動く度に下着が見えそうになるスカートを必死に抑える。何せ今のリュカの格好といったら、丈は膝上2、30センチという、少し屈んだら見えてしまうような超ミニサイズのスカート姿。しかもいつも店で着ている似非制服とは違い、身体のラインが浮き出るようなぴっちりと肌に張り付くタイプなのである。おまけに肩紐もないのに胸元まで開いたデザインなのだ。
何よりいつもは仕事だと、生きる為だと割り切ってしまえたが今はオフ、日常生活イン街中なのである。
いくらこの街と言えど住人全員に女装癖があるわけではないし、理解があるとも限らない。「変態」という名前で一括りにし、許容されると考えるのは愚かなことだ。リュカはそれをこの半月で嫌というほど味わった。
「うぅぅ……恥ずかしすぎていっそ死にたい……。やっぱ無理ですって。やめましょうよぅ」
「黙りなさい。そして持ちなさい。つべこべ言わずに歩きなさい」
店を出ても少しも歩を止めずにマキナは冷たく――相変わらず声の調子は同じなのだが――言い放つ。リュカは、スカートで太腿のところを圧迫されているような状況なので、小走りに、されど捲れ上がって下着が見えないように後を着いていくしかない。
新秋葉原――……。
例の法案によって半強制的に店舗を撤去され、姿を消したオタクの聖地「秋葉原」を復活させようと、この島の住民達は施行以前の街並みを完全に再現したのである。そこに今、リュカは立っていた。
煌びやかなコスプレイヤー達に、二次ヲタをハーメルン童話が如く吸い込む同人ショップ。着いた早々のリュカを歓迎してくれたのは、そんな光景だった。現在の日本では参加どころか、見ることすら禁じられているものばかりである。
法案が通ったのはリュカが小学生に上がる前であったし、そういうところには行ったこともなかったのでなんだか不思議な感覚がする。目を疑うような、正気の沙汰ではないお祭り騒ぎ。しかし何故か行き交う人々の表情は、活気と笑顔に溢れていた。
『当時の日本はこんな感じだったのかぁ……。なんか、ちょっと羨ましいかも……』
だが、マキナはそちらには見向きもせずに、寧ろ人の流れとは全く違う方向へと進んでいた。
薄暗く湿った路地をいくつも曲がるうちに喧騒はどんどん遠ざかっていく。さっきまで通りを埋めていたゲームソフト屋や、フィギュアが棚を埋める玩具店はすっかり姿を消し、なにやら周囲はピンク・トライアングルの辺りのような猥雑とした街並みへと変わっていた。
「あのー、さっきから何を買ってるんです?」
この街に着いてからというもの、マキナが入る店は、二次ヲタがターゲットのような店ではなく、どちらかと言えば精密機器や、用途不明な機械部品を扱うモノばかりである。
「貴方――……なんて名前だったかしら? まぁいいわ、ジャンク屋も知らないの?」
知らないから聞いているのだが、とは言えず。
「パソコンとか精密機器のまだ使えるような中古部品を売ってる店のこと。結構掘り出し物も多いのよ? 貴方が踏み砕いたコンデンサの代わりも売ってるし、ついでよついで」
その「ついで」でリュカの両手にはどんどん荷物が増えていっているのだが……。
彼女は何かに思い当たったように「あぁ、それとも……」と人差し指を立てながら少し遠くを見つめるような顔をして、
「それともあれかしら? 『何故、新秋葉原にまで来て?』という意味での質問? ちょっと齧った程度の素人はこれだから困るのよね。確かにここはまんだらけにとらやメイト、メロンにKが立ち並ぶ二次ヲタの聖地ではあるけども、それだけが全てじゃないのよ? 元々秋葉原は電子部品がメインだったんだから。でなきゃ電気街口なんて降り口はないはずでしょう?」
そういう意図ではなかったのだが。しかしそれでマキナの今まで巡った店の基準は分かった。道理で人の流れとは逆の方向に行くわけである。言うならば、裏・新秋葉原といったところか。
「せっかくアキバに来たというに、ヲタ街をスルーかえ? まぁ、らしいと言えばらしいがの」
後ろから声がした。やけに時代がかった口調ではあったが女性……というか少女のものだった。こんな小道を歩いてるような人間は滅多にいない。だからそれがリュカ達に――というかどう考えてもマキナにかけられたのは明らかだった。
思わず振り返る。そこにはミゥより少し年上――中学に入ったばかりという頃合いくらいの女の子が、壁に寄りかかって立っていた。
「フン」と生意気そうに鼻を鳴らす少女の肩まで伸びた髪は、自然界では有り得ない薄い桜色。それを頭の真後ろでバレッタでまとめた髪型。服装はシック……というよりどちらかといえば地味目な印象を与える落ち着いたもの。それとは対照的に目を引くは、どこぞの潜入工作員の蛇が如く左目を覆う眼帯であった。そんな少女にマキナは……。
「って! ちょ、ちょっと待たぬかお主! ワシが呼び止めたに振り返りもせぬとは一体どういう了見じゃ! って待て! あ、あの待って! 待ってください!」
マキナは全くスピードを緩めずにそのまま通り過ぎようとしていた。
「あのー、マキナさん? なんか呼んでますけど……」
流石にあんまりな対応だと思ったので、リュカは彼女の肩を二、三度叩いた。そこまでしてようやくマキナは――心底面倒臭そうではあったが――軽く溜息を吐くと足を止める。
「で、何かしら? 美麗。こう見えても私、結構急いでるんだけど?」
『美麗……ってことはアジア系の人だろうか? 顔立ちもほとんど変わらないし』
「その名で呼ぶな! ワシの名はトリーシャじゃとゆうてるであろうが!」
「どっちだって同じでしょ」
「トリーシャ? どうして名前が2つもあるんです?」
「あぁ、こいつは李・美麗っていう台湾人。トリーシャってのはビジネスネームよ」
「ビジネスネーム?」
聞き慣れない単語に再び首を傾げる。
「向こうとか香港だとね、英名を自分で勝手に名乗れるの。主にビジネスの場で使うためにね。外国人にアジア系の名前は発音しづらいでしょう?」
即座にリュカの頭にジャッキー・チェンとかルーシー・リューとかいった名前が浮かんだ。確かに向こうの発音は隣に住む日本人ですら難しい。
「フン! ワシはあんなダサい名前は嫌いじゃ。『トリーシャ・リー』の方が洗練されておって好きなのじゃ。何よりリクレス様のお傍におられるしの!」
「リクレス様? お傍に?」
意味を図りかねるリュカを他所に、そう語るトリーシャの表情はキラキラと輝いていて……。この島に来て何度も垣間見たそれはつまり、ヒトが本当に好きなものについて想いを馳せている時のものであり、今までの経験上十中八九……いや100%中、99・99999999999998%くらいの勢いで常人には理解しがたいものであることをリュカは知っていた。
「私は興味ないのだけど、『ドライピストーレ』って漫画知ってるかしら?」
「? え、ええ……知ってます。僕がまだ小学校の頃に連載してた……それが何か?」
いきなり話題を振られ驚きつつも、その名前なら聞き覚えがあった。
それは週刊少年カイザーという雑誌に掲載していた漫画で、当時はアニメや映画にもなった人気作である。リュカも小さい時分はよく読んでいたものだ。
話のあらすじは至ってシンプルで、ファンタジー調の世界を舞台に最強を目指す少年ガンマンが、幾多の試練や強敵を仲間と共に乗り切っていく姿を描いた作品だった。女性キャラが皆可愛く、おまけによく裸になっていたものだから、幼いながらにリュカもドキドキしたのを覚えている。尤もそれが原因で例の法案に引っ掛かることになってしまったのだが……。
「あれ? トリーシャもリクレスも、ライバルキャラの中に確かそんな名前が……」
「この女はね、そのリクレスとだかいう登場人物に心底惚れ込んだ――所謂『二次ヲタ』っていう連中の一人なの。あぁ腐女子からアンタも注意なさい。下手すると材料にされるわよ」
現実世界の異性ではなく、アニメや漫画、小説のキャラクターに恋愛感情を持つ性癖……。法案が施行される前までの日本では有り触れたものだったが……。
現在でも少数の二次ヲタはレジスタンス化し、潜伏しているという噂を聞いたことがあった。『腐る』だとか『材料』だとか……気になるワードが耳をかすめたが、『聞カナイホウガイイヨ』とリュカの本能の深いところが警告を発していたので、黙っていることにした。
「なんじゃ、そっちのは男じゃったか! ほほう、男の娘とはの! これはこれは……ごくり」
どうやらその予想は正しかったらしい。彼女のヨダレを垂らしながら舐めまわすような視線がリアルに気持ち悪かった。バーで働いてた時に発情したオヤジ連中から受けていたものよりも更に何かこう、深い感じに。
「妄想すんなら家でやって頂戴。私はなんの用なのか聞いてるんだけど?」
鬱陶しそうに髪の毛を掻き上げながらマキナがもう一度尋ねると、ようやく我に返ったのかトリーシャは「おぉ」と短く声を上げて、
「今度のワンフェスにサークル参加するのじゃがな、原型師が一人トンズラこきおったのよ。……のぅ、マキナ。手を貸してくれんかの?」
「嫌よ。面倒くさい」
にべもない、という言葉を体現するかのようなマキナの返答。リュカには内容はさっぱりだったが、トリーシャが何かの頼み事をして、マキナがそれを断ったということくらいは理解できた。だが食い下がるように、
「のぅ頼むぅ! 神様仏様マキナ様! お主の作品なら売り上げアップ間違いなしなのじゃ! 神と呼ばれしあの技巧! 何卒、何卒もう一度だけ! 内容はお主に一任するからに!」
マキナは脚に縋り付きながら懇願するトリーシャを見ながら、はぁ、と深い溜め息を吐くと、「……70」と何かの数字を渋々といった感じに呟いた。
「な!? 70は取りすぎじゃぞ! 45が最高ラインよ!」
「……65」
「45じゃ!」
「……60」
「じゃから45とゆーてるじゃろうに!」
その後いくつかの数字を言い合っていたが結局マキナの言った、
「55%よ、これが最低ライン。それ以下の値段なら他を当たりなさい」
という一言にトリーシャも渋々頷いたようだった。どうやら報酬について話していたらしい。売り上げの中から……ということだろう。確かにいくらなんでも七割は取りすぎである。
「期限は来月じゃからな! 遅れたら許さんぞ!」
半泣きしながら去っていく彼女に合掌しつつ、先日からの疑問も相成って、
「マキナさんって何かを作る人なんですよね? 一体何を作るんですか?」
先日訪れたドクター・アーシャーもマキナが何かの製作者だというような発言をしていた。それがリュカはずっと気になっていたのだ。先を急ぐような彼女はぶっきらぼうに呟く。
「なんでも……」
「え?」
「……なんでも作るわ。材料と道具さえあれば人間だって作ってみせる」
それは彼女なりの冗談だったのか……それとも、本気で生命すら創造出来る程の自信の現れなのか……。マキナは続ける。
「今のはフィギュアの原型……つまり量産する時のカタを作って欲しいっていう依頼ね。アレ疲れるからあんまりしたくないのだけど……」
「え? えと……だってこないだのドクター・アーシャーは……」
「あれは医療器具。尤もそういう場合はデザイン案とか設計図だけになる場合も多いけれど。素人じゃあ手に入らない材料もあるわけだしね」
ついていけない。情報の脳内処理速度が追いつかなかった。どこをどうしたらアニメのフィギュアと医療器具が繋がるというのか。そんな混乱するリュカに言い放つ、
「あら、だってどっちも同じでしょ? 使用法や用途が違うってだけ。どれも同じモノだわ」
――天才エンジニア――……さも当然そうに言い放つマキナに、そんな言葉が去来した。
世の中を全てを同じモノだと見る彼女にとって、全ては等価値なのだ。形状の違いも分野の違いも、マキナからしてみれば他人が勝手に識別しているだけに過ぎない。彼女にはパソコンもレーザーメスも人形も、須らく同一線上に並ぶものなのだ。恐らくは大人の玩具でさえ……。
「やれやれ。余計な時間をくったわね。急ぐわよ? じゃなきゃ貴方にそんな格好させた意味がなくなっちゃうものね」
「へ? そんな格好? 意味?」
普段働いてる時は女装が常だったので、然程違和感を覚えなくなってはいたが、そういえばリュカは『何故、今、自分が女装しなければならないのか?』という理由さえ知らなかった。てっきりマキナの、怒りから来る嫌がらせか何かかと思っていたのだが……。
「月末恒例、ジャンクショップ『フラじゃいる』の女性限定四割引セール。早くしないとクズみたいなパーツしか残らないじゃない。さ、とっととしなさい」
「――ん? ……って! ちょ、ちょっと待てぇ! いや待ってください! マキナさん……? アナタ、今、ナントオッシャイマシタ……!?」
聞き捨てならない言葉をサラリと言われた気がして大声を上げる。いや、上げざるを得ない。
「女性限定って言いましたよね!? 言いましたよね! ひ、ひょっとして……こ、こここここの格好させたのは……まさか」
「? 何を喚いてるの? 私が趣味や嫌がらせでそんな格好させたとでも思ってたのかしら? 言っとくけどそこまで根性捻じ曲がってないわよ私。あのクサレ赤髪とは違うんだから」
人目構わずにその場に突っ伏すリュカ。『いっそそっちの方がマシだった……』と思いつつ、それを実際にやりかねない者もいるので口が裂けても言えないが……。この悪夢のような状況を抜け出せるなら悪鬼だろうが羅刹だろうが堕天使にだろうが祈るだろう勢いである。
つまりこの格好は、「卵お一人様につき120円」とかいう広告を見た節約上手な奥様が、近所のガキを連れ立ってスーパーへ買い物に行くのと同じ理由なわけで……。
「要は人数あわせかよ……」
「どうしたの? そんな格好でうずくまってるとパンツ見えるわよ?」
そんなことのために嫌で嫌で仕方なかった女装をさせられてるかと思うと、半端ない虚脱感が襲ってくる。ビッグ・ママの店で働いていた時はまだ「生きるため」だと割り切ることもできたのだが、しかしこれは……。
「気が済んだ? ならそろそろ立ち上がってくれないかしら? あなたの下着はデザイン的にも色彩的にも私の興味の範囲外だから見ていても面白くないの」
グサグサと背中に突き立てられる言葉の槍を抜きつつ、満身創痍で立ち上がるリュカ。彼女の電子部品を壊したのは事実なわけだし、仕方ない、今日一日だけ……今日一日だけ……と。
「……ってあれ? マキナさん?」
顔を上げたリュカの視界に彼女はいなかった。どこへ行ったのだろうと周りを見渡すと……。
いた。
マキナは少し後方の店の前で立ち止まり、何やらショーウィンドウを覗き込んでいる。どうやらいつの間にか追い抜いてしまったらしかった。
「? 楽器屋さん……?」
その店が取り扱っているものを見て首を捻るリュカ。別にこの島に楽器屋があったから疑問に思ったのではない。どんな人間だろうと娯楽は手放せないものだ。いくらここの住人が変態ばかりとはいえ、性欲を満たすモノだけで生きていけるわけがない。
だから、つまりそうではなく……リュカが疑問に思ったのは、そこにいる人物――マキナがあまりにもミスマッチだったからだ。
「何か興奮するようなデザインの楽器でもあるのかな?」
普通なら考えられないが、『性欲の対象がモノ』であるマキナならあり得ないことではない。そんなことを思っている内にマキナはフラフラと、まるで夢遊病のように店内に入っていった。
「あ、マキナさん! 待ってくださいよー」
慌てて後を追うリュカ。店内は穏やかな音楽が流れ、アンティーク調の内装で統一された、この島らしからぬ雰囲気の場所だった。尤もこんなトコロまでが街中と同じだったら、落ち着かないことこの上ないが。
マキナはズカズカと進んでいく。どうやらかなり大きめの専門店らしく、ピアノの他にも管楽器やドラム、ギター等も置いてある。だがリュカの予想を裏切り、彼女はそれらには一切目もくれず、寧ろ楽器とは真逆のものを取り扱うコーナーで歩を止めた。
「専門書コーナー? なんだってあんなとこに……」
その店は楽器だけでなくCDや、音楽に関する書籍も取り扱っているようだった。マキナはそこで何かを探す素振りを見せていたが、やがて見つけたのか一冊の本を手にレジへと走る。
そうして、マキナの一連の行動が分からず、呆然と見ていただけのリュカの元へ帰ってきた。
「ん……」
顔をやや背けながら、買ったばかりの袋に入ったそれをリュカの喉元に押し付ける。
「? って何です? これは……楽譜……?」
自分で演奏する人の為のものだろう、ビニール袋から出てきたのは色々な曲の楽譜集だった。
タイトルには『クロード・A・ドビュッシー名曲集』と書いてあって……。
「……楽譜があるなら……弾けるんでしょ……?」
マキナはやや怒ったような声で、表情で。
リュカの脳裏には『月の光』が流れだす。
「……は、はい! はい! 弾けます……けど……」
初めて見るマキナのそんな様子に、驚き、戸惑い、見蕩れ……。そして慌てて返事をする。
「……なら、帰ったら、弾いて」
そういってマキナは背を向け歩き出す。さっきよりもやや早めの歩調で。
リュカはしばし唖然としていたが、ゆっくりと目を瞑り、
「……そっか……そっか……」
顔を上げて走りだす。目の前を行く少女に向かって。
別にただそれだけのこと。何か特別なことがあったわけでもなく、マキナのことが全て理解できたわけでも断じてない。……だが。
「待ってくださいよーマキナさん!」
「? 何よアンタ。ニヤニヤして……気持ち悪いわね」
だがリュカは、少しだけ……ほんの少しだけではあるが、マキナというこの少女のココロに触れられた気がしたのだ。それは勘違いかもしれない。マキナの気まぐれかもしれない。
それでも――……それでもリュカは嬉しかったのだ。
初めて会ったあの笑顔の似あう少女が、ママの言っていた『優しい娘』という言葉が、けして間違いではなかったのだと分かったから。
そんなことを考えていたからかもしれない。それとも狭い裏道で視界が限定されていたからかもしれない。
リュカ達が歩いていた薄暗い路地はあと数メートル進めば終わりを告げ、車の行き交う少し大きめな通りにぶつかるという、正にその出口。そこを塞ぐように黒いワンボックスカーが急停車し、中から数人の男達が飛び出してきた。全員が服の上からでも解るような筋骨隆々の巨躯の持ち主で、例外なく顔をすっぽり覆ったマスクをしている。
「これから銀行強盗にでもお出かけですかレレレのレ」等と尋ねる暇はなかった。いや、それどころかリュカにはそいつらを怪しんだり警戒したり、走って逃げる暇すらなかった。ビッグ・ママ並に太い腕がぐわっと伸びると、その延長線上にはマキナがいて……彼らはマキナの服の胸元を掴み車の中に引きずり込もうと――……。
「マキナさん!」
だから、それは無意識だった。身体ごとぶつかった後でどうするか、なんてリュカは微塵も考えていなかった。歩道の人混みにマキナを突き飛ばしながら、あぁ後で「服が汚れたじゃない」とか怒られるんだろうなぁ、なんて見当違いなことを考えていた。
「っち! ミスった。撤収だ! 撤収!」
「HURRY! HURRY!」
再び動き出す車、怒鳴りあう声、飛び乗る男達……そして、
そしてバラバラになって宙を舞う、ドビュッシーの楽譜集。
全てが、全てが一瞬の内に起きて……リュカは強烈な力で車内に引きずり込まれる。
それが覚えている最後の光景。背中から、ばづり。という嫌な音が聞こえたと同時に――。
リュカの意識は深い闇の底へと沈み込んでいった。




