2話:足止め
その夜、アースガルズ要塞の司令室には、いつもより多くの灯りがともっていた。
報せは風よりも速く要塞中を駆けめぐっていた。王都が落ちた。中央軍が国を奪った。兵たちは持ち場を離れこそしないが、すれ違うたびに視線で問いを交わしていた。自分たちはこれから誰のために戦うのか。背後にあるはずだった国は、まだそこにあるのか。
アリアはその問いを、誰よりも自分自身に突きつけていた。
机に広げた地図の上で、彼女の指は無意識に王都ナディアの一点を押さえている。早馬を乗り継ぎ、休まず駆ければ、数日で着く。今すぐ馬を出せ、と命じれば、彼女は明日の朝には要塞を発てる。
その気になれば。
ただ、このトランの異常な攻勢のさなかに、指揮官が抜けるわけにはいかない。それに——アリアひとりが王都へ駆けつけて、何になる。剣一本で軍事国家をひっくり返せるわけもない。
「閣下」
グンナルが入ってきて、扉を閉めた。彼の手には、夜のうちに各方面から上がってきた報告がまとめられている。彼はそれを机に置く前に、まず主の顔を見た。アリアが何を考えているか、おそらく半分は察している。
「東部の戦線図です。それと——王都へ向かう街道の状況も、拾える範囲で」
グンナルは報告の束を机に置き、その一番上に、一枚だけ毛色の違う紙を重ねた。封は切られ、皺が寄っている。
「それと、これが。王都から、占拠の少し後に発信されたものらしく。各方面軍に同じ文面が回っているようです」
アリアは紙を取り上げた。短い文面だった。王都で生じた事態は現在確認中であり、各方面軍は現状の配置を維持し、追って下される指示を待て——それだけ。誰の名で出されたのか、はっきりしない。中央軍の軍令のようでもあり、王宮の名を借りた告知のようでもある。署名の欄には、判じづらい印が一つあるきりだった。
「待機せよ、か」アリアは紙を指で弾いた。「誰が出したかも書いていない。占拠したばかりの連中が、何食わぬ顔で『落ち着け、追って指示する』と言ってきている」
「従われますか」
「まさか!」彼女は紙を縦に割き、机に放った。「国を奪った側からの『動くな』だぞ。これは私を黙らせて、向こうが盤面を固めるまでの時間稼ぎだ。従う理由がどこにある」
それでも、その一枚はべったりと神経に貼りついて剥がれなかった。弟のことも、王のことも、何ひとつ書かれていない。生死すら。情報はすべて向こうにあり、こちらに届くのは「待て」の二文字だけだった。
アリアは報告に目を落とした。トラン側の谷筋には、まだ敵の主力が居座っている。今日の攻勢は退けたが、要塞の前面には依然として無視できない数の砲と兵が張りついている。
そして、彼女の頭のなかでは、グンナルが昼間に指摘した違和感がまだくすぶっていた。トランは東門には全力で来たのに、南谷には人を割かなかった。決着をつける気がないみたいだ、とグンナルは言った。
今ならその意味が、半分だけ分かった気がした。
「グンナル」彼女は地図から顔を上げずに言った。「今日の攻勢、お前はどう見た」
「妙でした。装備は新しいし数も多い。なのに配置が甘い」
「私もそう思う。だが、もしあれが——」
アリアはそこで言葉を切った。仮説を口にすることで、それが真実になることを無意識のうちに恐れたのかもしれない。彼女は一度息を吸ってから続けた。
「もしあれが、私たちをここに縛りつけるためだったとしたら、どうだ」
グンナルは黙った。
「王都が落ちた。私はあちらに一軍でも率いて駆けつけたい。でも東部の前面にはトランの主力が居座ってる。私がここで背を向けた瞬間、トランは本気で雪崩れ込んでくる。そうなれば東部は崩れ、国の東半分が戦火に呑まれる」
言いながら、彼女は自分の声が静かであることに気づいていた。
「私が王都へ行きたがることまで、向こうは読んでる。だから今、これだけの戦力をトランが出した。私を——東の第七師団を、ここに釘付けにするために」
そこまで言って、ようやく彼女は顔を上げた。
「それに、妙なのは攻勢だけじゃない」アリアは眉を寄せた。「これだけの規模で来ているのに、肝心の指揮官の姿が見えない。トランの南をまとめている辺境伯——バッカス・ヴァナヘイム。あれだけの戦狂いが、攻勢の矢面に顔を出さないのはいつ以来だ」
グンナルは記憶を探る顔をした。「言われてみれば……ここ数日、ヴァナヘイムの直属部隊の動きは、報告に上がっていません」
「今度はなんの悪だくみだか」アリアは鼻を鳴らした。
「あの戦狂いに見せかけた、計算ずくの黒豹のことです」グンナルも口の端を歪めた。「どうせまた、こちらの想像の斜め上をいく途方もない企みでしょう」
「は。言えてる」
気安く軽口を叩きながらも空気は重い。
バッカス・ヴァナヘイムという男を、二人とも知りすぎるほど知っている。何度も刃を交え、何度も出し抜かれかけ、そのたびに薄氷を踏んで生き延びてきた。あの男が戦場から姿を消すというのは、戦場よりも面白い何かを別の場所に見つけたということだ。そして、あの男が面白がる何かは、たいていこちらにとって最悪の事態の始まりを意味するのだ。
沈黙が落ちる。
アリアはゆっくりと席を立ち、窓から砦を見下ろした。そして王都にいる弟の顔を思い浮かべる。
エイリークは戦えない。剣も持てないひょろりとした体で、本と共に生きてきた弟だ。両親を戦争で失ってからアリアがずっと守ってきた、たった一人の家族。その弟が今、占拠された王都にいる。レオナルドの——よりにもよって、あのレオナルドの手のうちにいる。
でも。
谷筋の野営の火が、暗闇の中にいくつも灯っている。あの火を背に王都へ走れば、火は一斉に動き出すだろう。彼女が背を向けた瞬間に。
アリアは口を閉じた。
「閣下」グンナルが、背後で静かに言った。「もし、行かれるのでしたら。後のことは、私が——」
「行かない」
アリアは振り返らずに言った。声に迷いはなかった。
「東部を守りきってから、王都へ行く」
誰に命じられたわけでもない。中央の「待て」を蹴った上で、それでも自分の判断として東部を選んだのだ。ならば。
「エイリは」彼女は窓の外を見たまま、ほとんど自分に言い聞かせるように呟いた。「レオナルドは、あいつには手を出さない」
それは確信ではなく、祈りに近い。だが、まったく根拠のない祈りでもなかった。レオナルドはエイリークを弟のように可愛がっている。あの男がどんな思惑で国を奪ったにせよ、エイリークを傷つけることだけはしないだろう——そう信じる程度には、アリアはまだ、あの男のことを知っているつもりだった。
「私が王都に着くまで、あいつは無事だ」彼女は言った。「だから今は、目の前を片付ける。それだけだ」
グンナルは、深く頭を下げた。それ以上、彼の言うことは何もなかった。主が決めた。ならば従う。それが正しい指揮官に従うということだ、と彼は信じていた。
アリアは窓から離れ、机に戻った。私情は噛み殺した。歯の根が痛むほど噛み締めて、喉の奥に押し込んだ。そして地図の上に、もう一度指を置いた。今度は王都ではなく、東部の戦線に。
「明日からの段取りを詰める」彼女の声は、もう司令官のものに戻っていた。「トランの主力をどう削るかを考えよう。とっとと片付けて王都に行く」
◇
翌朝、アリアは前線後方の集積所へ足を運んだ。
昨日の戦闘で鹵獲した敵の物資が、そこに山と積まれていた。武器、弾薬、糧食、装具。敵から奪ったものを検めるのは、指揮官の務めのひとつだった。敵が何を持っているかは、敵が次に何をするかの手がかりになる。
兵たちが木箱を開けていく傍らで、アリアはひとつひとつに目を通した。トラン軍の支給品は見慣れている。粗いが頑丈な、あの国らしい作りだ。だが、その山のなかに、明らかに毛色の違うものが混じっていた。
昨日、彼女の頬をかすめた、あの精密な砲弾と同じ匂いのするものたちだった。
「閣下、これは……」
兵のひとりが、木箱の蓋を指さした。蓋の隅に、刻印が押されている。アリアは屈み込んでそれを見た。
白地に、黄の意匠。見慣れない印だった。トランの紋章でも、ヴァナヘイムの黒豹でも、アガスティアのどの家門の印でもない。商会の刻印のようだったが、アリアの知っているどの商会のものとも違った。そして、印の下に、小さく文字が彫られていた。
納入責任者の署名。
——E・ナコト。
アリアはその名を、しばらく見つめた。読み方も、誰なのかも分からない。トラン人の名には聞こえない。かといって、アガスティア人の名でもない気がした。どこか、もっと遠くの響きがある名だった。
「カルコサ通商連盟」
兵が、木箱の側面に刷られた別の文字を読み上げた。「聞いたことのない商会ですね。トランがこんなところから武器を仕入れてるんですか」
「さあな」アリアは立ち上がった。「商会なら、金を出す相手には誰にでも売る。トランが新しい仕入れ先を見つけたってだけかもしれん」
そう言いながら、彼女自身、その説明にどこか納得しきれていなかった。商会から武器を買うことそのものは珍しくない。だが、この精密すぎる作り。昨日の戦場で感じた、こちらの想像の外にある思想で作られたような、あの異質さ。それが、この「カルコサ」とかいう聞いたこともない名前と結びついている。引っかかりが、また胸の底に降りて積もった。
その時、集積所の隅から、押し殺した笑い声が聞こえた。
アリアが顔を向けると、縄で後ろ手に縛られたトランの投降兵が、地面に座らされていた。昨日の戦闘で捕らえた一人だ。痩せた、目つきの悪い男で、口の端を歪めて、アリアを見上げていた。
「あんたが、東の女傑か」男は、歯の欠けた口で笑った。「噂通り、いい女だな。だが、もう遅えよ」
兵が男を黙らせようとしたが、アリアは手で制した。敵が何を喋るかは、時に何よりの情報になる。
「遅い、とはどういう意味だ」
男は、囚われの身であることも忘れたように、にやにやと笑い続けた。どこか、酔っているような、あるいは正気を半分どこかに置いてきたような笑い方だった。
「俺たちにこの武器をくれた連中がいる」男は顎で、木箱の山をしゃくった。「南の海から来た連中だ。トランだけじゃねえよ。あんたらの国にも、もうあいつらは入ってるぜ。とっくにな」
「南の海」アリアは眉を寄せた。トランの南の海といえば、辺境伯バッカスの領地が面する方面だ。その遥か沖から来る者など、聞いたことがない。
男はそれ以上、何も言わなかった。ただ口の端を歪めて、どこか遠くを見ていた。その目の中に、アリアは奇妙なものを見た気がした。笑いではなく——恐怖に、似た何かを。
陰謀論じみている。気のふれた捕虜の世迷い言だと、切り捨てることもできた。実際、その場では切り捨てた。
だが、なぜか、その言葉は耳に残った。
白地に黄の刻印。E・ナコトの署名。カルコサという、聞いたこともない名。精密すぎる兵器。トランの異様な攻勢。そして——南の海。
ばらばらの破片。どれもまだ、互いに繋がらないそれらを、彼女は頭の片隅にしまった。
今は、それより先にやるべきことがある。トランの主力を削り、東部を守りきり、一刻も早く王都へ行くこと。弟のもとへ、王のもとへ、自分の足で駆けつけること。
「連れていけ」アリアは捕虜に背を向けた。「丁重に扱え。こいつの言うことは、後でもう一度、詳しく聞く」
集積所を出ると、朝の光が要塞の石壁を白く照らしていた。空の彼方、その先に王都がある。
アリアは一度だけ、王都の方角を見た。
戦はまだ終わっていない。
町娘の噂話 レオナルド・ヴァレンタイン①
こんにちは。今日はこの綺麗な反物を買いに来たの。ほら、この前明るい色が似合うって言ってくれたでしょう。
何に使うのかって?ふふ…素敵な男性とデートが決まったから、どうせなら新しい服を着て行きたくて。
誰って。レオナルド・ヴァレンタイン第一師団長!女たらしとか町中に嫁がいるとか色々聞くけど、あんな素敵な人と遊べるなんて一夜の夢でも嬉しいじゃない。
え、どうやってデートを取り付けたか?友達に聞いて試したのよ。1人で歩いてる時はいつ声をかけても優しく対応してくださるの。本当にそうだった!
でも、赤毛の子だけはデートに誘っても断られるらしいの。昔なにかあったんじゃないかって、みんな言ってるわ
ええ、ありがとう!商人さん、聞き上手だからつい喋っちゃった。服ができたら見せにくるわね。




