1話:王都陥落
初連載です。よろしくお願いします!
アースガルズ要塞の胸壁に、その日七度目の砲撃が来た。
アリア・シュヴァルツァーは石の張り出しの陰に身を伏せ、轟音が骨まで届くのを待ってから顔を上げた。
要塞の東斜面、トラン側の谷筋から白い煙が幾筋も立ちのぼっている。
煙の数を数えるのは癖だった。煙の数は砲の数、砲の数はこの攻勢に投じられた敵の本気度を測る目盛りになる。両親を失ってから十数年、戦場で生き延びるために体が勝手に覚えた目盛りだ。
数えながら、彼女は引っかかりを覚えた。多い。トランがこの戦線にこれだけの火力を集めたのは、彼女が司令を預かって以来はじめてだった。
「閣下!東門前縁、第三線が押されています」
伝令の若い兵が斜面を駆け上がってきて、息を切らしながら報告した。泥と硝煙で顔が黒い。アリアはその顔をちらと見て、声に動揺が混じっていないことを確かめてから、短く返した。
「予備を全部、東門へ回せ」
「全部、ですか」
「中途半端に小出しにするのが一番まずい。出し惜しむな、全力で迎撃しろ」
兵は敬礼し、斜面を駆け下りていった。アリアはその背を見送りながら、谷筋の煙をもう一度数えた。
手勢はかなり多い。それなのに、受け止めれば崩せる手応えがある。何かが噛み合わない。
胸壁を伝って指揮所へ戻る途中、もう一発が近くで炸裂した。石片が頬をかすめ、薄く血がにじむ。彼女は袖で拭いもせず、立ち止まって着弾点を見た。砲弾の破片が、いつものトラン製とは違う散り方をしている。
トランの榴弾は弾殻が成り行きで砕けるから、大きな鉄塊と細かい屑が不揃いに飛ぶ。
だが今のは違った。破片の大きさが、どれも気味が悪いほど揃っている。
アリアは屈んで、土に刺さった破片をひとつ拾った。
指の腹ほどの鉄片。縁がきれいに同じ形で割れている。成り行きで砕けたのではない。割れる前から、こう割れるように作られている。
城壁を崩すためでも陣地を吹き飛ばすためでもない——ただ人を効率よく挽くためだけに、ここまで手間をかけた弾だ。
違和感が膨らんでいく。
トランの砲は、アガスティア製の緻密な兵器に比べると粗野な作りをしている。威力はあるが、製造のばらつきが大きく、不発も多い。十数年も殴り合ってきた相手の癖は目を瞑っても分かる。
あそこはこんな几帳面な弾を作る国ではない。弾ひとつにこれだけの手間と精度をかける発想そのものが、トランのものではなかった。
もちろんアガスティアの兵器でもない。ここまでのものを大量生産できるほどの設備はない。
「トランが新型を入れたか」
口に出してみると、その説明はそれなりに筋が通っているように聞こえた。戦争が長引けば、どこかの工房が改良を重ねることもある。
彼女はそう自分に言い聞かせ、違和感を頭の片隅に押しやった。
今は目の前の山場を越えるのが先だ。余所見をして立ち止まる余裕は、最前線の司令官には許されない。
それでも、押しやった引っかかりは消えないもので。
火薬の匂いに混じって、彼女の鼻はかすかに別のものを嗅ぎ取っていた。
油の匂いだ。
トランの工兵が使う獣脂の、煤けた重い匂いとは違う。もっと薄くて、嗅ぎ慣れない。何の油なのか、彼女の知っている戦場の匂いのどれにも当てはまらなかった。
指揮所では副官のグンナルが地図に屈み込んでいた。
寡黙な男で、アリアが指示を出す前に半分は準備を終えている。彼は彼女が入ってくると顔を上げ、頬の血に目を留めたが、何も言わなかった。代わりに地図の一点を指で押さえた。
「ここが南谷の補給路です。今朝から、トランの動きが妙に薄い」
「薄い? 攻勢の最中にか」
「ええ。東門には全力で来てるのに、南には人を割いていません。まるで」
グンナルは言葉を選んだ。
「まるで、ここで決着をつける気がないみたいです」
アリアは地図を見下ろした。グンナルの観察は正しい。本気で要塞を落としにきているなら兵を割くはずの場所を、トランは空けている。落とす気がないくせに攻勢ばかりが激しい。
「揺さぶりか」彼女は呟いた。「こちらの兵力をここに引き付けたい狙いがある?」
とはいえアースガルズの入り口はここ東端の城壁のみ。トランが例えば裏口や地下から入り込む可能性も0では無かろうが、巡回兵の報告ではそういった異常は検知されていない。
では何故。その先が読めなかった。トランが東部戦線でこちらを足止めして得をする状況——その答えを、彼女はまだ知らなかった。
「とにかく、目の前を片付ける」彼女は地図から顔を上げた。「向こうは波で押してくる。小出しに応じれば押し負ける。受けるなら一度に厚く受けて、勢いが死んだ瞬間に押し返す。グンナル、第一線に伝えろ。退くな、削れたら一気に出ろと」
「はっ」
その日の戦闘は、夕暮れにかけてもう一つの山を越えた。トランは繰り返し波を寄せてきたが、前線は崩れなかった。アリア自身も胸壁の最前に出て、兵の間に立ち、剣を振るうより先に声を張った。指揮官がそこにいる、それだけで士気は上がるものだ。アリアはそれを誰からも教わらず、ただ生き残るうちに体で覚えてきた。
谷筋の煙が薄れはじめた頃、トランの攻勢はようやく勢いを失った。完全な撃退ではないが、この日の山は越えた。
アリアは胸壁にもたれ、ようやく頬の血を袖で拭った。腕が重い。喉がからからに渇いている。背後で兵たちが、押し返したという実感に小さく声を上げはじめていた。彼女は振り返って、笑ってやろうとした。よくやった、と。粗野でいいから、部下に届く言葉を。
ふと、王都の顔がよぎった。この戦線の報せが届けば、弟のエイリークはまた「姉さんは無茶ばかり」と眉を下げるだろう。レオナルドは、王都第一師団のあの男は、きっと軽やかに笑って「君らしいね」とでも言うだろう。腹が立つほどに軽快に、でも全てを見透かしたように。——王都には、そういう日常がある。彼女がこの東の果てで石壁を血で汚しているのは、つまるところ、その日常を戦火から遠ざけておくためだった。
その時だった。
要塞の西門から、一騎が砂煙を上げて駆け込んでくるのが見えた。馬の脚の運びが普通ではない。限界まで走らせた馬の、潰れる寸前の走り方だった。乗っているのは伝令で、アリアが統括する第七師団の代表として王都に置いている小隊の1人だった。
王都から。
アリアの胸の奥で、何かが冷えた。東部の最前線にいる司令官のもとへ、王都が馬を潰してまで報せを寄越す。そんな事態は、彼女の記憶のなかに一度もなかった。
伝令は馬から転がり落ちるように降り、膝をつき、しかし立ち上がる時間も惜しむように、ひざまずいたまま叫んだ。声がかすれ、言葉が前後していた。
「王都が……王宮が、落ちました。議事堂も。中央軍が——軍を、軍政を……宣言して」
息が続かず、伝令は一度言葉を詰まらせ、唾を飲んでから、もう一度言い直した。
「王都ナディアが、占拠されました」
胸壁の上の喧騒が、波が引くように静まった。
アリアの喉の奥から、ひゅう、と空気だけが漏れた。
軍政。そんなものは彼女の知っている王都には結びつかないものだった。王都には弟がいる。図書館の司書をしている弟が、なんでもない顔でシチューを煮ている、あの王都だ。
「首謀者は」
自分の声が、どこか遠くで響いたように聞こえた。
伝令は息を詰め、それから言った。
「第一師団長、レオナルド・ヴァレンタイン閣下です」
名を聞いた瞬間、足元が抜け、内臓だけが宙に取り残されたような感覚。周囲のざわめきが嘘のように一瞬掻き消え、耳の奥で自分の脈がどくりと大きく鳴った。
レオナルド。
数えきれないほど名を呼んできた。怒鳴りつけ、からかい返し、酔ったのを介抱し、馬鹿を言うなと小突いてきた。士官候補生の頃からずっとアリアの側にいた男だ。家の食卓に当たり前に上がり込み、弟が兄のように懐き、彼女自身、あの男の前でだけは将軍の重荷を下ろせる気さえした。素直には認めがたいが、弟と同じくらいアリアの人生にとって分かちがたい、ただひとりの特別な友人。
その男が、国を奪った。
次の命令を出さなければ、と思った。指揮官として、何か言わなければ。だが、口を開くことさえできなかった。十数年、どんな戦場でも次の一手が頭に浮かんできた、その回路が初めて、何も返してこなかった。
アリアは怒鳴りもせず、武器を取りもせず、ただ伝令を見下ろす。背後では兵たちが、勝利の余韻から一転して、自分たちの足元が崩れたことに気づきはじめ、ざわめきが広がっていた。
グンナルが横に立った。彼も言葉を持っていなかった。ただ、主の横顔を見ていた。
谷筋の向こうで、トランの最後の砲がもう一発、力なく鳴る。
その音を、アリアはもう数えていなかった。
東部第七師団員の噂話 アリア・シュヴァルツァー①
え、シュヴァルツァー師団長の話ですか? まだ28なんすよ。平民の出で、叩き上げで上の連中をまとめて抜いてきた人です。強くて、頭が切れて、まあ、とにかくすげえ人ですね。
見た目? 背は170くらいあるんじゃないかな。初めて話したのは鍛錬の時なんですけど、赤い髪が風にばさっと靡いて、一瞬女神様かと思った。直後にめちゃくちゃどやされちまったんですが。
綺麗な人だとは思いますよ。ただ、本人は容姿にあんまり頓着してないんじゃないかな。聞いた話だと、弟さんが用意した髪油だか香油だかをそのまま使ってるだけらしいです。
え、商品開発の参考に?いや、銘柄までは知りませんよ。そういうのは直接聞いた方が早いんじゃないですか?
弟さんとすごい仲いいらしくて、好きな食べ物も弟さんが作るビーフシチューらしいっすね。古参の連中はみんな知ってます。王都の平和を守るためにこの砦を守るんだっていつも言ってるなあ。
もういいですか? じゃあ、俺は持ち場に戻ります。商人さんも、あんまり砦の中をうろうろしない方がいいっすよ。今は物騒なんで。




