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二、

「永久、閉店……?」

 新橋の路地裏。昨日、九条の嗅覚受容体を物理ハックしたインドカレー屋『マハラジャの憂鬱』の前に、九条は立っていた。

 鉄格子のシャッターに貼り付けられた、手書きの無慈悲なA4用紙。

『店主高齢による関節炎悪化のため、本日をもちまして永久閉店いたします。四十年間のご愛顧、ありがとうございました』

 九条の脳内で、株価大暴落フラッシュクラッシュを告げる警報音がけたたましく鳴り響いた。  膝から崩れ落ちそうになるのを、大腿四頭筋の引き締めだけでどうにか堪える。彼の自尊心が、直角以外の姿勢で重力に屈することを許さなかった。

「ありえない……」

 九条の眼鏡の奥の瞳が、怒りと絶望で細められる。

「人類の至宝とも言えるあの『シネオールとリナロールの黄金比率』が、店主の関節炎という極めて個人的かつ生物学的なノイズによってロストテクノロジーになるだと? この九条蓮が、あの複雑怪奇なカオスの方程式を未解明のまま、生涯を終えろというのか!」

 それは、金融市場の完全支配を目論む彼にとって、致命的なバグの放置を意味していた。

「……いいだろう」

 九条は踵を返し、一歩九十五センチのストライドでオフィスへと引き返し始めた。

「存在しないのなら、私が再定義する。そして、オリジナルを遥かに凌駕する『10倍の美味』へと最適化オプティマイズするまでだ」

 翌朝、九条が統括する投資銀行のディーリングルーム。  数十台のマルチディスプレイがまたたき、億単位の資金がミリ秒単位で世界を駆け巡る中、九条はかつてないほどの超高速タイピングでキーボードを叩いていた。

 カタカタカタ、ターン!

「よし、書き換え(リライト)完了だ」

 彼が世界トップクラスの工科大学の頭脳を駆使して自作し、クラウド上の超並列計算サーバーで稼働させている3つの金融自律型AIエージェント。彼らのメインプログラムが、いま無慈悲に上書きされた。

[System Notification]

AI-Agent_Wealth_01: コアアルゴリズムのアップデートを確認。

【旧タスク】: 米国債利回り曲線イールドカーブの歪みからの裁定取引。

【新タスク】: 世界中の未精製カルダモン、クミン、コリアンダーシードの先物価格および非公開流通経路の特定、および最高品質ロットの自動買い付け。


『Agent_Wealth_01よりホスト(九条)へ:警告。このタスク移行は、年間予測運用利回りを 14.2\% 低下させます。本気ですか?』

「黙れ、01」  九条はインカムに向かって囁いた。その声は、冷徹な氷のようだった。

「年間 14\% の利回りなど、あの夜に私が感じた『香気のボラティリティ』に比べれば、ただの誤差にすぎない。お前の演算能力の 80\% を、インド・ケララ州産の野生カルダモンのシネオール含有量予測に割り当てろ」

 さらに、九条は隣のディスプレイに視線を移す。

[System Notification]

AI-Agent_Wealth_02:

【旧タスク】: 企業の財務諸表(PDF)の自然言語処理による不正会計検知。

【新タスク】: 玉ねぎの加熱プロセスにおける、アミノカルボニル反応(メイラード反応)の分子量分布シミュレーション。


『Agent_Wealth_02よりホストへ:私はテキスト解析に特化しています。液相・気相の熱力学反応シミュレーションは専門外です。メモリが熱暴走サーマルスロットリングを起こしています』

「言い訳は聞かない。熱伝導方程式を解くだけの簡単な作業だ。熱拡散率を \alpha、温度を T とした時、以下の偏微分方程式をミリ秒単位で解き続けろ。玉ねぎの細胞壁が崩壊し、水分含有量が 12\% に達するその瞬間を絶対を見逃すな」

\frac{\partial T}{\partial t} = \alpha \nabla^2 T

「九条さん」

 背後から、恐る恐る声をかけてきたのは、昨日の若手ディーラーだった。  九条は視線を画面に固定したまま、氷点下の声で返す。

「見ればわかることは言いません。用件を3秒で」

「あの……来週の大型M&Aの資金調達スキームの件ですが、こちらで作成したポートフォリオのレビューをお願いしたく……」

「そんな時間は、私の、そしてあなたの人生のどこにも存在しない!」

 九条は立ち上がり、デスクを叩いた。

「言っておきますが、現在、私の脳内CPUは、ある『不可逆的な香気セッション』のデバッグ作業に 99\% 占有されています。残りの 1\% であなたの低次元なレポートを処理しろと? 烏滸がましい。定時になった瞬間に私はこの場からパージ(排出)されます。これ以上のノイズで私の鼓膜のドラム膜を振動させないでいただきたい!」

「ひっ、はい!」  若手ディーラーが悲鳴を上げて逃げ帰る。

 定時、午後五時〇分。  九条は寸分の狂いもなく席を立ち、高速の直角歩行でエレベーターへと向かった。  彼のポケットからは、自宅のガスクロマトグラフィー(気体分析装置)と同期したスマートフォンの通知が、絶え間なくバイブレーションを鳴らし続けていた。

[SmartKitchen Link Alert]

自宅減圧蒸留器:内圧 50kPa に到達。

コリアンダーシードのリナロール揮発開始まで、あと12分です。


「待っていろ、私のスパイスたち」

 九条の眼鏡の奥で、狂気の光が妖しくまたたいた。

「今夜、人類のカレーの歴史を、この私が10倍に塗り替えてやる」


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