一、
「見ればわかることは言いません」
九条蓮は、手元のタブレットから視線を一切動かすことなく、氷点下の声を放った。
デスクの前に立っていた若手ディーラーが、まるで液体窒素を浴びたかのように硬直する。
「ですが、九条さん、このポートフォリオのボラティリティは——」
「昨日私が最適化したアルゴリズムの予測値に対して、誤差はわずか 0.03\% です。その程度のノイズをわざわざ私の鼓膜を振動させて報告する、そのエネルギー効率の悪さに気づきませんか? そんな時間は、私の、そしてあなたの人生のどこにも存在しない!」
九条は立ち上がった。
身長百八十五センチの長身。オーダーメイドの三つ揃えスーツ。乱れのない七三分けの黒髪。
彼は一歩の歩幅を正確に「九十五センチ」に固定した等速度運動を開始した。大股である。あまりにも大股すぎて、周囲の社員からは「高速で移動するコンパス」と恐れられていた。
そして通路の角に達した瞬間、九条の右足が完璧なピボットを刻む。摩擦音ひとつ立てず、体躯が美しく九十度、直角に旋回した。最短経路、かつ最小の摩擦係数での移動。これが九条蓮の日常であった。
(ふん。今日のオフィスの空気環境は最悪だな)
直角に曲がった瞬間、九条の嗅覚受容体が、オフィス内の「VOC(揮発性有機化合物)」を瞬時に検知し、脳内でプロファイリングを開始する。
『総務部・佐藤の柔軟剤:安価なエステル系人工香料。持続性重視の設計が鼻腔の粘膜に不快なレイテンシー(遅延)を生んでいる』
『営業部・高橋の缶コーヒー:微糖を騙るアセスルファムカリウムの不自然な甘味臭。血糖値の乱高下が見て取れる』
『エアコンのフィルター:稼働時間およそ二千時間。シリカゲルと塵埃が混ざり合った、典型的な乾燥堆積臭』
九条にとって、世界は「におい」という名の非構造化データで満ちていた。
彼は、自身の自律型AIエージェント群が仮想空間で数十億ドルの資産を運用する様子を監視する傍ら、現実世界のすべてのバグをその超常的な嗅覚でデバッグし続けていた。
だが、そんな「合理の怪物」の脳内に、その日の夜、激甚なシステムエラーが発生することになる。
クライアントとの極めて退屈な会食を終え、アルコール混じりの汚れた空気を肺からパージ(排出)するために、九条はあえて一駅分歩いていた。
その時。
雑多な居酒屋がひしめく新橋の、さらに一本奥まった路地。街灯の切れた、薄暗い横丁の隙間から、その「バグ」は漂ってきた。
「……ッ!?」
九条は、大股九十五センチの等速度運動を突如として強制停止した。
慣性の法則を無視した急ブレーキに、高級革靴のソールが悲鳴を上げる。
(なんだ、この……この、圧倒的な『情報量』は……!)
鼻腔を突き抜けたのは、スパイスの香りだった。
しかし、それはただのカレーの匂いではない。
九条の脳内モニターに、分析エラーを示す赤い警告灯が狂ったように点滅する。
『クミン:ロースト温度推定 180^\circ \text{C}。油の酸化度から逆算するに、フライパンの熱伝導が不均一。極めて雑!』
『コリアンダー:粉砕粒度がバラバラ。抽出効率に 40\% 以上のロスが発生している。愚策!』
『しかし——』
九条の額に、冷たい汗がにじむ。
雑。あまりにも雑。非合理的で、アルゴリズムのカケラもない。
それなのに。
クミンの野性的な土の香りと、カルダモンの清涼なシトラス臭、そして背後に潜む、おそらくはフェネグリークと思われる焦げた砂糖のような甘い香気分子が、奇跡的な三次元の格子構造を形成し、彼の嗅覚受容体を完全に物理ハックしていた。
「ありえない……! この私の方程式をすり抜ける、この『解』は何だ!?」
九条は、まるで何かに取り憑かれたかのように、直角歩行のルールすら忘れ、ふらふらと薄汚れた暖簾をくぐった。
そこは、いまにも床が油で滑り落ちそうな、老舗のインドカレー屋だった。




