天啓
首を撫でられるようなくすぐったさに、リコウはぼんやりと目を開いた。うっすらと白む部屋の中、夜が明け切らない時刻だと悟る。起きるには早い時間だ。平素から滲む、礼節に隠した鋭さも今は鳴りを潜めている。
それにしても腕の中が温かい……と思い、そこでリコウは我に返った。
(末姫か……)
抱き寄せる身体は柔らかく温かい。彼女は華奢に見えるが、女性らしい魅力的な曲線を持つことを知っている男は自分だけだろう。誰に向けるわけでもないが妙な優越感を抱いた。
――このむず痒さは何なんだ。
再びくすぐられるような気配を感じて、リコウは意識を戻す。末姫は頭をリコウへ擦り付けるようにしてもそもそと動いていた。その黒髪が首筋をくすぐる感触で目が覚めたのだろう。
納まりの良い場所を見つけたのか、末姫は動きを止め、すんすんと匂いをかぐ行為に移行していた。まるで飼い主に気を許した小動物だが、匂いに対する執着を見せ付けられ、リコウとしては複雑な心境だ。
(日中はたまに妙に危うげな色香を見せるが)
安心しきった無邪気な寝顔がここにある。そう思えば庇護欲が湧いてくるのをリコウは自覚していた。
声も上げられず、涙をいっぱいに溜めた瞳に熱を込め、ひたすらリコウにしがみついていた昨夜の娘を思い出す。王家の末姫が。声を失った娘が。この胸の中で寝息をたてているのが、リコウの妻なのだ。満足げな表情でリコウの匂いをかいでいる末姫の髪を撫で付けてみる。癖のない黒髪はしっとりとした感触を指先に与えた。
病を理由に表立って王に随行しなくなった末姫だ。その後、噂にも上らなくなるほど後宮から出ずに過ごしていたはず。では――この娘はもう天啓を得たのだろうか。
陶波国の民は生涯に一度、必ず天啓を授かる。
大きいものなら、かつて国を救った英雄は天啓を得て戦場を駆けたとか、齢十で天啓を得たある娘が、その英雄を助けるためだけに何年も森に籠もっただとか歴史に残るものがある。しかし小さいものだと草木に水をやるとか、ある日ある場所で小石を投げるだとか何に結びつくのやらさっぱり分からない些細なものだ。それでも意味のない行動など一つもなく、後の何かに繋がっていくのは確かなのである。例えどのようなものであれど、それを全うすることに誰しも誇りを感じていた。
内容が何であれ陶波国の民にとって天啓に従うことは至上の喜びであり、「天啓を得るまでは死ねない」という言い回しはどこででも聞く。というのも、人生で最低一度は授かるものでも、いつ天啓が下るのかなど誰にも予測が付かない。幼少期に得る者から老人になるまで授からない者までいるほど幅は広いのだ。
そして、未だリコウは天啓を得ていなかった。
天啓を授からないことに焦りはない。いずれ最適な時をもってして得るのだろう。だがしかし珍妙な天啓である場合、末姫を巻き込まないものであってほしいと願う。数年前に天啓を得たリコウの弟など「虹色トカゲを探しに行く!!」と家を飛び出したきりだ。妻を置いて出奔するのは非常に避けたい事態である。
天啓と言えば大抵のことは容認されるこの国であるが、天啓は偽ることが許されない。不思議なことに、罪を犯せば神殿の管理する”壁”にその名が浮かび上がるのだ。天啓を私利私欲に利用できないのは明らかだった。
リコウが末姫の天啓を気にするのは、「まさか末姫まで虹色トカゲを探しに行かないだろうな」という心配だった。弟から身をもって学んだ天啓の不可思議さにこれ以上翻弄されるのは御免なのであった。
一人身震いしていると、腕の中の末姫が身じろいだ。どうやら起きたらしい。軽く目を擦って眠気を飛ばしているのをリコウは黙って見ていた。
末姫は寝ながらかいでいたリコウの匂いを、目が覚めてからも確かめたかったようだ。すんすん、と鼻を動かしている。
「……?」
匂いをかいだ後に、末姫はあどけなさの残る顔を不思議そうに首を傾げた。
「……!?」
胸倉に突っ込む勢いでもう一度匂いをかぎ直し、大きな瞳をパチクリさせている。これは可愛らしいとリコウは思う。
「~~!!!!」
最後に何かに気付いた顔で末姫はじたばたし始めた。その顔はひどく赤い。元々不思議な姫だとは思っていたが、こんな挙動不審を見たのは初めてだった。
「末姫殿……?」
よほど気が動転したのだろうか、顔を手で覆って悶えている。とにかく落ち着かせようと肩に手を掛けたところで、末姫は顔を上げた。末姫は真っ直ぐにリコウを見上げながら口を開く。声が出ないのがもどかしいようで、何度も開閉を繰り返した。
『り、こ、う』
唇の形から読み取れたのはリコウの名前で。喉を押さえ空咳をしながら、何度も、何度も。
「末姫殿――」
彼女の赤く染まった眦から涙が伝っていく。リコウが親指でそれを拭うと末姫は切なげに眉を寄せた。なぜ泣いているのか分からない。けれどこんな悲しい顔で泣かせたくはない。白桃のような頬に、さらに流れた涙を拭おうとした時だった。
「……っ、り、こう、さま……!」
お互いに目を見開く。
末姫はただ呆然と喉を押さえたまま。リコウは己の耳を疑って。
ひどく掠れていたが、末姫の喉から搾り出すように発せられた声は、確かにリコウの名を呼んでいた。その事実が脳内に浸透する前に、リコウの頭は真っ白に染まる。
――天啓が、下ったのだ。




