序章:私の魂の半分
空一面の曇天から、濃霧が立ち込めるほどの豪雨がケイオス市に降り注ぐ。雑居ビル群によって作られた路地裏をビニール傘を差した童女が歩いている。肩口で二つに結ばれた髪。雨に濡れたパステルグリーンのカンフー服に、ゆったりとしたズボン。一見すれば、道に迷った子どもだ。
だが、童女の爛々と光る大きな瞳は、忙しなく街路を眺めている。まるで初めて訪れた念願の地だというように。童女の足取りは軽い。
この街に来て一ヶ月。とうにここの悪辣さなど身に染みているはずなのに、童女は意にもかえしていない。
「さすがよのぉ。人の世はなんと猥雑で美しい」
路地裏には居るはずの孤児やホームレスの姿がない。雨だからだろう。童女のズボンのポッケにパンパンに入った飴玉は、行き先を探してやまない。
大量の室外機が温い空気を吐き出す一角。壁面に縦横無尽に這うパイプから雨滴が落ちる。その雫を目で追った先に、その少年はいた。
泥に汚れた銀の髪。少しこけた頬。纏っているのは肌に張り付いた薄青い病衣のみ。素足は少し黒くなっていた。年の頃は十五~六か。孤児にしては年を食っている。
童女は鼻歌交じりに少年に近づこうとし、すぐに思いなおすと、威厳な面持ちで歩き出した。少年はぼうっと前を見たまま動かない。
童女が少年の前に立つ。
「どうした童よ。厄にでも追われたか?」
少年が童女を見る。海の底を掬ったような、青い瞳だった。童女がポケットから飴玉をひとつ取り出す。
「童よ、手を出すとよい。飴玉をあげよう」
少年の手は動かない。ただ、死んだように童女を見つめていた。
童女は包装紙から飴を取り出し、少年の口元に添える。
「ほれ、口を開けよ」
少年が青くなった唇を開く。少しだけ覗く舌先に、童女が飴玉を転がした。少年の瞳が少しだけ揺れた。
「童、名はなんという?」
少年が少しだけ目を細め、言った。
「86番」
「ほぅ、これはまた奇天烈な名前よ。今風に言えば、ダサいかのぉ。よし、童よ。今日からおぬしはハルキと名乗れ。どうだ、極東における始まりの季節を冠した名よ」
「……君は?」
童女が仰々しく胸を張る。
「我はフェン。風を冠する竜の名よ」
フェンと名乗った童女は、片方の目をぱちんと閉じる。液晶モニターで見たウインクという奴だ。少年はただ黙って飴玉を舐めていた。
フェンはポリポリと頭をかく。
「もうちっとこう、なんか言ってほしいのだが、まあ良いか! どれハルキよ、我と共に来い。この人の世で楽しく暮らそうではないか!」




