一章:いのち短し恋せよ人よ 1
事務所の立ち上げは、思いのほか難航していた。ケイオス市の法体系がぐちゃぐちゃだからだ。四ヵ国のどの法律に該当するのかが分からない。市役所の受付ですら困り果てて首を振る始末だ。
困り果ててボン爺に相談して返ってきた回答が「賄賂を渡せばよいじゃろう」である。この街は心底腐っている。
仕方なく金を包んだ。心の底から嫌だったが、断腸の思いで金を渡した。オライオンは見て見ぬふりをしていた。
書類の手続きが始まったと思えば、今度は役所から難癖が付く。曰く、奈落探索事務所というのはなんだという質問だ。アヴェスターを狩ってマナ結晶を得て、市場で売る。それだけだ。
あれ、確かに事務所いらなくない? と思ったのは内緒だ。ここでオライオンが出張った。
「小奈落は増加の一途を辿っている。特に奈落周辺住民の不安は根強いはずだ。本来役所がやるべき仕事を俺たちがやるんだ。むしろ感謝してもらいたい。だから金を寄越せ!」
それはNGOでは? しかもマナ結晶を売るのだからかなり悪質では?
市役所での戦いは疑問の連続だ。オライオンが役所をとんでも理論で捻じ伏せ、ハルキの疑問は募るばかり。
これが終われば次は法務局だ。見て一秒で回れ右したくなる書類の多さにめまいがした。快活な笑顔で書類を受け取ったオライオンは、ハルキを見て言った。
「今日は逃げようぜ!」
ハルキは一にも二もなく頷いた。我々に行政対応はまだ早かったのだ。
逃避先はいつかオライオンと一緒に行った喫茶店。
糖分が必要になったハルキは、コーヒーと一緒にケーキを頼む。オライオンもぐったりしながら同じものを店員へ注文する。
「この一か月で五体だ。俺たちは特別個体を倒しまわった。結果がこれだ……」
「市役所攻略に時間が掛かったね。まさか君がお金を要求するとは思わなかったけど」
「事務所の存在意義を問われたら怒るだろ普通」
その存在意義が正直いま疑問なのだが、ハルキは口に出さない。
ところで、とオライオンが話を変える。
「例のあれが売れたぞ。ほれ、これが全額だ」
オライオンがスマホの画面を見せてくる。一瞬だけ見て、ハルキは目を逸らした。額がおかしかった。
「お前らの金だぞ、ちゃんと確認しろよ」
「オライオン、僕は毎月家計簿に悩まされてはいるけれど、その額を見るのは勇気がいるんだ」
「ハルキ……これにあと五体分の賞金とマナ結晶の売却益が加わるんだぞ」
金銭感覚が狂うからやめてほしい。
「とりあえず、この金は送金するぞ。ハルキとフェンの口座で二等分でいいか?」
「……しばらく持っててくれない?」
「アホか。自分のとこから出た金くらい自分で管理しろ。ほれ、もう送ったからな」
「ちょ、あ、まっ……!」
「桁で考えるな数字で計算機を弾け」
よし、しばらくスマホで口座を見るのはやめよう。きっと心臓が爆発する。
「なにちょっと黄昏てんだよ。見ろよ口座を。今すぐ」
ちょうどいいタイミングで店員が現れ、コーヒーとケーキを置いていく。すばらしい。芳醇な香りは精神の負荷を和らげる。
オライオンが半眼で見ていた。
「はよ見ろ」
喉が唸り声をあげる。全身が大金を拒絶している。スマホを開く。手が震える。口座アプリを立ち上げる。勝手に目が閉じた。
「目ぇ開けろって」
一度大きく深呼吸した。見る。いまから見る。誰しも現実から逃避したくなることはあるが、それでも、立ち向かわなければならないときは来る。ハルキにとってはいまがそれだ。
目を開いた。
――億。
そっとアプリを閉じた。
「五億な五億。ふたりで分けて五億だ。分かったかハルキ? 五億だ」
「そんなに言わなくても見たよ!」
「ああ、株はやってもいいけど空売りするなよ」
「やったことない株に手が出せるわけないよ」
「あ、追加で一億くらい増えるから覚悟しとけよ」
ぐぅ、胃が痛い。
唐突にスマホが震える。電話の着信。フェンだ。スマホを耳に押し付けると、童女のか細い声が聞こえた。
「のぉ、ハルキ。見間違いかのぉ? 我の口座にお金がいっぱいありよる。夢かのぉ?」
「うん、夢じゃないね。君のあれが売れたようなんだ。オライオンが二等分して僕とフェンに振り込んだんだよ」
「ほぉ、そうかぁ……。なんか我、なかなか夢から覚めなんだ。ちょっと外でカンフーしてくるな」
「うん、電柱は壊さないでね」
「停電は怖い……だから安心せよ」
電話が切れる。スマホをテーブルに置いて、ハルキは一息ついた。あのフェンが金で混乱している。
「フェンはなんだって?」
「ひどく混乱している。夢と勘違いしてるのか、外へカンフーしに行ったよ」
「さすがハルキの相棒。金銭感覚が似てるな」
「事務所設立にこんな大金いるのかな……」
「いらないな。いっそ豪邸でも建てたらどうだ?」
「身の丈に合わない生活はしないたちなんだよ」
「だろうな。ならふたりに何か買ってこうぜ。甘いものなら喜ぶだろ」
「そうだね、たまにはケーキでも買って帰ろうか」
コーヒーを飲み、ケーキをフォークで切り取って食べる。いまはこれだけで十分なのだ。




